あの日から続いてる
考えるのは苦手なんだと素直に言えば、目の前の彼はどんな顔をするだろうか。
放課後の教室。生徒会室では結局騒がしくて集中できないといままでの経験から教訓を得て、ルルーシュはスザクのひとつ前の席に座っている。さっきまで流暢に流れていた呪文のような数式の説明は途絶えた。一緒に動いていた手が止まって、イコールの先にひとつの数字も書かれ、ひとつの説明は終わった。
――困ったことに、さっぱり分からない。
諦めて言えば、ルルーシュは黙り込んで教科書へ視線を落とし沈黙した。
彼の説明は丁寧だったし、きっと簡潔だった。ただ、自分には基礎がない。お前は頭が悪いわけじゃないんだから、と彼はこうやって軍の仕事で受けれなかった授業の解説をしてくれたり課題につきあってくれたりするけれど、この歳までろくに学校に行かず集団の規律や暴動の制圧や基礎体力を維持する事しかやってこなかった自分には、どれもとっかかりが難しかった。そんな自分へ、いくつかの方法を試してはある程度の理解を与えてくれるルルーシュへは、さすがの一言しかない。
教科書のページを少し戻して、どこから説明しなおせばいいのかを考えている彼は真剣そのものだ。
考えるのは苦手だ、と彼に伝えたらどうなるだろう。
――どうなるもこうなるも、こういう状況だ。
この問題をやりたくない、勉強なんかしたくないと受け取られて、せっかくの親切を無碍にされたルルーシュは怒るだろうか。それとも教師役として退屈な授業になってしまった事を真面目に考え込んでしまうだろうか。
それとも、案外「今頃気付いたのか」と苦笑するかもしれない。子供のころ、ちょっとは考えてから行動しろと何度言われたか分からない。変わってないと懐かしんでくれさえするかもしれない。
しかし変わらないものなんてない。
考えている事を空へ描くかのように小さく動く、ペンを持つ彼の指先。その白さ。教科書とノートを行き来する瞳にかぶる長い睫。まだ高い日が薄青くも見える眼のしたの白い肌に影を落としている様。
そんなものにばかり目を奪われている。
それに触れたくて、揺らしたくて仕方が無いのにこうやって我慢している。考えることはやっぱり苦手なのに、行動する前に考えてしまっている。きっと、子供の頃ならどうしてそんな事をしたがるか気付かないうちに手を伸ばし、彼も、自分もびっくりして正解にはたどり着けなかっただろう。
いや、たどり着けなかったのだ。
きっとあの頃も、スザクはルルーシュを見てばかりいた。その手とその顔とその声が余りにも自分を揺さぶっていた。考えなかったから、気付けなかった。自分の心の中にそんなものがあるのを知った時、意外な思いをすると同時にひどく納得もしていた。
生徒会室の方が、きっと集中できた。
あの部屋なら程よい喧噪と、ルルーシュの事が大好きな事をうまく隠したり隠し切れてなかったりする面々が、うまく思考の邪魔をしてくれただろう。あの夏から変わらずずっと大事なものを、みんなも大事にしてるから大好きだから、これが違う事だと気付かずにすんだかもしれない。自分でも驚く程おだやかなくせに、簡単に壊してしまいたく衝動を持て余す必要もなかっただろう。――気付いた事に、後悔はしていないけど。
「そうだ、この間の公式――覚えてるか、スザク?」
不意に紫の瞳がこちらを向いて、動揺する。
「え?」
「あれを理解していれば、考え方は似てるんだ……ちょっと貸せ」
スザクのノートのページをめくろうと、白い手が伸ばされた。まったく普通の事なのに、きっとやましい事を考えていたスザクの心臓が跳ねる。心の準備なくまるで自分へ伸ばされたかのように感じて、思わずその手を掴んでいた。
「え?」
声を上げたのは、自分の方だった。
ひどく驚いた顔でルルーシュがスザクを見たが、もっと驚いた顔がその目に映っている。
「ど…うした?」
「ううん、なんでも…ない、んだけど」
手を離さなければならない。壊したい衝動に駆られたとしても、まだその時じゃない。いや、そんな時はきっとずっと来ない。
そうやって過去失ったものを自分は痛いほど理解している。衝動や欲求は、捨てられないけど無視する術も身につけた筈。大事なものは大事だからこそ、もう手を伸ばしてはいけないのだ。
分かっているのに、力も入っていない手のひらは制服から伸びた細い手首、繋がる手の甲に触れたままだった。無意識の行動だというのに――いや、反射的だったからこそ、より心のままを現している。勢いでつかんだと言うにはあまりのも弱すぎる自分の力。まるで包み込むようにして、やんわりと覆う手のひらはじわりと追って伝わってきた体温が自分の気持ちを自分へ押しつける。
頬に昇る熱と、酷い焦り。こんな事をしてはいけない。
結局スザクは分かっていなかった。
なにも変わってなんかなかった。一度伸ばしてしまった手は、隠せない。
驚いた表情をしていたルルーシュは、スザクの顔を見たまま笑おうとして失敗したような顔をした。
「どうして、手を払わないの?」
そう問いかけてしまった自分は、きっとひどくずるい。
「……お前が、離せばいい」
彼の声は、ひどく小さくかすれていた。自分を差し置いて、スザクはルルーシュをずるい、と思った。
彼のことが好きだ。子供の頃から、きっとずっと好きだった。
だけど深く考えれなかった子供のスザクはずっと気付かず、あの夏へ至る日をただ幸せな記憶として大事に持っていただけだ。だけど。
彼の手に添えるように乗せた手に、少しだけ力を入れる。やわらかく、握りしめる。
逃げないルルーシュはほんのわずかに表情を歪め、目を伏せた。
彼は、知っていた。スザクが知っている誰よりも聡く明晰な頭脳を持つ彼は、スザクの気付いてなかった気持ちすら理解していた。
そして、きっと考える事が苦手だからこそ、気付く。彼が隠していたものも、なにもかも。
カンだけは、昔から良かった。
手をふりほどかない事。不自然なこの状況を受け入れている事。伸びた髪が隠そうとする表情が隠し切れていないのは、彼の甘さだ。
何も変わっていないのは、多分お互い様だ。
彼はいつだって強情で強がりで、本音を見せようとしないくせに、こうやってあふれ出してしまうものをなかったことにはしない、できない。嘘も装うことも、とても上手いのに気持ちは捨てない。
失われた筈の夏は、今も続いている。