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幸せな夢の始まり

 天井を動くものが窓の外で揺れる梢の影だと気付いてようやく、雨粒がガラスを叩く激しい音が耳に飛び込んできた。
 日暮れとともに降り出した雨は、小さな台風の入り口だ。明日は休校かもしれないとどこか浮ついた空気に満ちていた日中の学校を思い出す。低い空にある灰色の雲がぐんぐん流されて行ったのを、ロロは昼休みに屋上から見ていた。ひどく冷え込んでいたし、いつ降り出すかわからない天候はそんな場所が似合わない事が分かっていたのに、授業中、窓枠に収められたそれではないものを見たくなったのだ。あのあたたかな場所から逃げたわけではない。嵐がまるでなにかの祭であるかのように、じわじわと盛り上がる空気に馴染めなかったのは、確かにそうだけど。
 兄の作ってくれた弁当がほのかに温度を残していたのは2時間目に入るくらいまでだろうし、休憩時間に買ったペットボトルのお茶は最初から冷たい。冬の入り口を過ぎて急速に温度を下げた空気は、低気圧の強い風にかきまぜられて、真冬の気温と錯角させる。生徒たちのひといきれにのぼせていたロロがそれを気持ちよく感じたのはものの5分もなかった。
 でもロロは、灰色と黒が層をなす雲が流れて行くのを昼休み中ぼんやり見ていた。
 きっと明日には晴れている、と告げたのは夕食を共にした兄の言葉だ。小さな季節外れの台風に朝までこの地域を乱し続ける体力はないだろう――ものを知らないロロはそんなものなのかと思った。あれだけ早く雲が流れて行くのならば、確かにそうかとも納得した。
 学園の片隅、クラブハウスの一部を占拠した兄弟の家は空調が入り暖かかった。
 あたたかなご飯を食べて、ゆっくりシャワーを浴び、そして柔らかなベッドに入る。
 まだぎこちないかもしれない微笑みと兄弟としての会話、やりとりで隙間を恐れるように埋めて、一日が過ぎていく。
 仕事には慣れていた。と言うより、それしか知らない。与えられる任務と任務の合間に出来た時間は調整と訓練が仕事として横たわっている。ロロの生活に仕事でない時間は存在したことがなかったし、そうでない生活とはなにかを想像できなかった。
 今も、そうだ。
 そんな、それしか知らない仕事の一貫だと言うのに、言い知れぬほど自分は疲れているとロロは感じていた。疲れは知っている。自分のギアスがいかに与えられた任務に向いていて、短時間で目的を果たせるものだとしても、身を削る能力だ。幾度かは疲れと能力の影響で、与えられた命を終えると同時に倒れるように眠った事はある。
 だが、体ではない場所が疲れる事は知らない。
 ひどく疲れていた。
 早くこんな任務、終わればいいのにと思いながらベッドに横になったロロは目を閉じた。柔らかなベッド、たっぷりの湯であたためられた手足、腹だけでなく舌が喜ぶ料理。ロロにそれらを与える監視対象の兄は、どう対処していいのか解らない笑顔と甘い言葉で自分を庇護する。慣れた仕事だと言うのに、知らない事ばかりが自分の周りを埋め尽くしていて、ひどく落ち着かなかった。
 すきま風も入らないしっかりとした造りだというのに、カーテンを閉めなければあの兄は気付けばきっと心配する、閉めなければ――…、思いながらもロロはベッドから起き上がる事が出来ず急速に眠りに落ちていた。
 そして、今だ。
 目が覚めた時、音もなく影が踊っていると思ったのはひどい勘違いだった。窓を叩く雨粒は大きく風の音も強い。幸いにも兄は寝る前にこの部屋を覗かなかったようで、カーテンは開いたまま嵐とはガラス一枚で隔てられただけだ。怒るのでもなく不満をぶつけるでもなく、心配を向けられるのはロロには負担だ。そして、仕方ないなと心のどこかを揺らす笑みを向けられる事が、なによりも嫌だ。
 まだ眠い体を起こすのは面倒だったけれど、ロロは翌朝向けられるそれらを思って、ため息をついた。諦めて身を起こす。
 何時だろうと傍らに置いた携帯を手にし、手首にぶつかった小さなチャームに体の芯がびくりと震えた。
 明かりの落ちた室内で目を射る液晶画面が教える時間は、深夜をとおにこえていた。そして、学園の片隅であるクラブハウスは闇に飲まれている時刻。月明かりなんて夢にも見ないこんな夜に、どうして天井に木々の影が映る?
「――なんで」
 飛び起きたロロは窓に駆け寄った。室内より暗いはずの屋外は、階下にともされた明かりに照らされていた。
 兄もとっくに寝ている時刻だった。むしろ朝までを数えた方が早い時間、彼が起きていた事なんて今までにない。寝起きとは言え、イレギュラーをそうととっさに捕らえられなかった自分が信じられなかった。呑気に夢のように前日の事を思い起こす前に、しなければいけないことはいくつもある。
 監視対象の兄は、記憶を失っている。
 記憶を失う前、夜に彼は生きていた。だから夜を奪われた。彼が誰にも気付かれない場所、時間を取り戻した時こそが慣れない疲労を味わっているロロの本当の任務にあたる。
 窓から離れ、部屋を出る前にロロは携帯の短縮番号をコールした。24時間体制でロロと同じように兄を――ルルーシュを監視する機情の本部へ、だ。
「ルルーシュは何をしてるんですか」
『階下で――』
 いくつものカメラでロロをも見ているくせに、自分がなにを危ぶんでいるかを彼等は理解していない。
「異常は?」
 思わず、強い語調になった。皇帝直属の機関らしいが、今回共同作戦を取る事になった彼等をロロは信頼していない。便利ではあるし邪魔とまでは思わない、任務の一貫でもあるので受け入れているが、彼等の指示に従うつもりはない。指揮下に入れとは命を受けていないからだ。
『いえ』
「ないんですね。僕が見てきます」
 返答を聞くまえに、通話を切った。
 彼が記憶を取り戻していれば、自分の任務の終了も近い。
 やわらかなベッドも、満ち足りた食生活もあたたかなシャワーも、時には湯を張りいい香りがするバスシャボンを入れたお風呂とも、離れる事が出来る。
 深夜に目を覚まし、ぼんやり今日を思い出したりすることもなくなる。
 心が動くなんて不安定な、気持ちの悪い事から離れられるのだ。
 
 
「――兄さん、まだ起きてるの?」
 開いた扉の向こうにいた兄は、少しだけ驚いた顔をした。
「ごめん、起こしたか?」
 言って、苦笑を浮かべる。彼の複雑な表情をロロは知っている言葉で現す事は出来なかった。だけど、また心のどこかを嫌な感じに揺すぶられた。
 室内はほのかに暖かく、良い匂いがしている。
「おなかすいたの?」
 夕食からはずいぶん時間が過ぎている。キッチンから漂う香りは、それでも朝食にしては余りにも早すぎだ。
「いや」
 ルルーシュは笑みを浮かべたままだ。ただ、いつもの優しいものでも心配したものでも、仕方が無いと言いながら浮かべるものでもなかった。この表情を、ロロは知らない。
 扉のそばに立ったままだったロロに歩み寄ると、ルルーシュは自分の羽織っていた上着をロロの肩に掛けた。何をするのだろうと思いながらも、ロロは動けずそれを甘受してしまった。
「寒いんだから、ちゃんと上を着てこないと――」
「え、あ、うん――兄さん、なにやってたの?」
 いけない、と慌ててロロは自分を取り戻した。
 思い浮かべた景色とは、余りに室内は違いすぎた。兄の表情は、ロロの知らないものだ。だけどそれは、不愉快なものではなかった。苦手なものでもない。そして、危惧していたものでも。
「寝つけなかったから、弁当の準備をしようかと」
「え、こんな時間に?」
――危惧? 期待ではなく?
 自分へ向けた疑問符は見なれないルルーシュの姿に散らされて一瞬後には見失ってしまった。
 兄はやけに答えずらそうに、そっぽを向いた。
「本を読もうにも風が煩いだろう? だから…」
「あ、……そう」
「そう、時間潰しだよ」
 兄の言葉が、やけに言い訳めいて聞こえるのはなぜだろう。まさかこの風雨が恐いなどと言うはずがない。言葉の通り、煩くて寝つけない夜の時間潰しにキッチンに立ったのだろう。
 料理が彼の趣味の一つである事は知っている。なのに、どうして隠したがっているのだろう? 
「じゃあ、明日のお弁当はごちそうだね」
「ああ。楽しみにしてくれていい」
 拍子抜けしたと同時に、表情が弛んだ。不可解な事の筈なのに、ロロはなぜか微笑んでいた。嬉しそうにしなければいけないと思う前に言葉がこぼれた。
 ルルーシュがようやく見なれた笑みを浮かべた事で、自分の表情に気付いたロロはふと背筋が冷えた。
 
 まだ、この任務は終わりそうにない。
2008.12.2.
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