ここはどこだろうな、とスザクは思った。
多分、これは夢だ。非常に茫洋とした景色はあまりにも現実感がない。
夢を夢と実感する事なんて非常に少ないけれど、今回ばかりはそれを感じた。
淡色の空は青を基調にこそしているものの、雲の影は柔らかなパステルカラー。
広く遠くまで広がった平原は膝まで草が生えているけれども、足下は堅い。レンガが敷かれ、その隙間からなんと言う種類か知らないが、その草は生えているのだ。
レンガの合間には水が流れている。と、言うことはこれは水草なのだろうか?
どうでもいい事を考えながら、ただぼんやりスザクはそこに立ち尽くしていた。
向かうべき場所もありそうになく、360度視界は変化を起こさず、地平線まで同じ景色だったので。
「どういう夢だ? これは」
どこまでも広がる草原は実際に見た事がある。ゼロとしての視察で訪れ、戦乱で荒野と化した場所がこんなに美しくなったのだと案内されたのだ。
共に連れ立っていたナナリーはその広大さと美しさに感動した後、小さな声で、「こんなにも広い場所で、いくつの建物がなくなり、何人がなくなったのでしょう」と寂しくつぶやいたのを覚えている。殺す側だった自分には、何も答えられなかった。
この景色もナナリーならば同じように悲しげにつぶやくのだろうか。
ゼロとして過ごして何年すぎたのか、もう分からなくなっていた。
世界は安定し、暴虐とされたルルーシュの行った政策は一方的ではあったが貴族制度を廃し、エリア制度を廃し、一部の人間があれは本当に悪逆の行為だったのだろうかとささやき合っているのを知っていた。自分に抗うものは親類縁者、女子供まで皆殺しにまでした彼のやり方は悪としか言えない。だが、残されたものは?
当時、消されて行ったものが者が生き、及ぼしたであろう影響は?
「ちょっとわざとすぎたかな……でも、時間がなかったし」
まだルルーシュには悪の象徴でいてもらわなくてはならない。
現在行われている政治が実は、ギアスにかけられたシュナイゼルに授けられた様々なパターンに対応する応用で成り立っているとしても、ルルーシュは悪なのだ。
そこで、スザクははっとした。
自分は今、仮面をかぶっていない。もちろんゼロとしての象徴である衣装もだ。
体を見下ろすと、懐かしいアッシュフォードの制服を身にまとっていた。
――死んだのかな、僕。
冷静に思った。きっと一番に戻りたかった場所は、あの場所だったからだ。まだルルーシュがゼロかもしれないと疑念を抱いていなかった日々。学校という同年代の子供がひしめき、他愛もない、命のやりとりもない暖かかった日々。過ごせたのは本当にわずかな日々だったけれども、帰るとしたらあそこが良かった。
だが、まだ早い。
まだルルーシュの目指す世界は成し遂げられていない。
ダメなのだ。
ここが良く子供の頃に聞かされた生と死の境目の場所であるのなら、まだ間に合う。戻らねばならない。
だが、もしそうなのであれば、なんて荒涼とした場所なのだろうと自分の心の貧しさに苦笑した。
生と死の境目の場所はそれはもう美しく、言葉にすることも出来ないと聞いていたからだ。
きれいでないとは言わない。だが、美しさとしてはシンプルすぎて、自分自身の貧しさを思い知ったようだった。
「こっちだ」
と、声が聞こえたのは気のせいだと思った。
360度ここには自分一人しかいない。身を隠すにも膝丈の草むらでは這いつくばるしかないし、そんな事をすれば体がレンガの合間からあふれた水で濡れてしまう。そんな酔狂な事をする人間は多分いないだろう。
だがもう一度、「こっちだ、スザク」と呼ばれたときには、気のせいだと遠い地平線へ視線を向けてばかりいる事が出来なくなった。
ぐるりを見渡す。やはりどこにも誰もいない。
こっちと言われても、どっちかも分からない。
「どこにいるんだい?」
ここ数年、発した事のない昔のような口調で問いかけると、少しだけ笑いの気配がどこかから届いた。
「それじゃあ、ゼロにはなれないな」
ふと気付いた。
この声に特徴らしきものはなにもなかったし、知っている者の感覚はどこも刺激されなかったが、口調に覚えがある。
「……ルルーシュ?」
まさか、と思いながらもここは生と死の境目。呼びにくるとすれば縁者ではなく彼のような気がした。
問いかけには返事がなく、再び「こっちだよ、スザク」と更にルルーシュらしさをにじませた口調が無機質な声で告げた。
「もう僕は死ぬのかい? それともゼロへ戻るのかい? そっちはどこへ続く道なんだい?」
続けたみっつの質問で、答えがあったのはひとつだけだった。
「俺のところだよ」
どういう意味なのだろう、と考えあぐね、
「じゃあ、どこに行けばいいんだい? 君の声はどこから聞こえるのか分からない。向かいようがないよ」
と、尋ねた。
すると、景色に変化が起きた。
こんなに簡単でいいのか、と思うくらいにあっさりと。
がさりと水草を踏み分ける音。そちらへ視線を向ければ、一人の子供がいたのだ。
「――…………」
知っている。知っているが、何故?
子供の姿はもう十数年、下手すれば二十数年以上見なかったものだった。
「ルルーシュ」
ぽつりと落ちた名前に、彼は小首をかしげるだけで返事はしない。
非常に似ているだけで、そうじゃないのかもしれない。
ゼロとしての激務の中で、過去の記憶は美化され曖昧になってしまったのかもしれなかった。
「お前はどうしたい? スザク」
無機質な声は見せた姿にふさわしい、懐かしい子供の声になった。
「死にたいか、生きたいか。それとも、誰かに会いたいか?」
やはりここは生死の狭間なのだとスザクは納得した。
それにしても選択権を与えてくれるなんて、なんて親切なんだろう。
「ゼロを続けなければならない」
答えたスザクの声は、自分でも驚くくらいに冷めた声だった。
どうしたのだろう? もう、膿んでしまっているのだろうか。
――ああ、膿んでしまっているさ。……………のいない、世界になんて。
だけど、だからこそ自分はゼロでいなければいけない。彼の望み通りに。ギアス、願いの通り。
「嘘だな」
一言で言い切られた。幼い子供の声は、昔のルルーシュのものに似ているけれど抑揚がない。
「じゃあ、会わせてくれ、会わせてくれよ、ルルーシュに! そうしたらもういい。もう――なにも、いらないから。ゼロだって続ける。死ねというなら死ぬ。ナナリーにすべてを託して、俺は死ぬ」
「死を引き換えに取引か。それも悪くない。だが、その願いはかなわない」
「何故」
「だって死ねば………………………だから」
聞き取れなかった言葉を問い返そうとした。
泣き出しそうな気持ちになっていることに、気付いた。
涙をこぼしながら、会わせてくれと懇願しそうになっていた。
そこで。
「おはようございます、ゼロ」
耳元の通信機が、柔らかな女性の声を届けた。
反射的に体を起こせば、あまりにも見慣れた部屋だった。
シンプルなベッドと小さなテーブル。壁に向けられた机の上には全世界の情報を網羅するPCが何台も並び、通信機が無造作に並べられていた。
ここは、ゼロの部屋。
「おはようございます? まだお休みですか?」
「――いえ、おはようございます。ナナリー代表。なにかございましたか?」
夢の余韻がまだ残っている。問いかける声に涙がにじみそうになる。かつて、彼が誰よりも愛した肉親。妹の声。彼女はとっくに彼の年齢を越え、だが独り身のまま世界と向き合い続けている。かつての彼のように。
「いいえ、起こしてしまったのならごめんなさい。定時連絡でEUより少し気になる情報があっただけなんです」
彼女はまるであの頃のまま、愛らしい声で愛らしくしゃべる。
「なにか?」
変声機を通さず話しているから、今の声は死んだスザクそのものだろう。こんなミスを犯した事などなかったのに、ナナリーはあえて触れず、会話を続けてくれる。
「あの……ごめんなさい」
「どうした? 何故謝る」
「不確かな情報なんです。こんな時間にスザ……ゼロを起こすような事じゃ、ないかもしれないんです」
時計を見れば、確かに起床の時間とはほど遠かった。まだ太陽が顔をのぞかせるかどうかという時間だ。時差があるから、彼女の今いる場所は確か夕刻のはずだった。
「お兄様が」
「…………」
「お兄様の、姿を、見たと………おっしゃる方が」
言葉が出てこなかった。
「おかしいですね、あり得ないはずですよね。でも、どうしても気になってしまって」
彼女はC.C.の事を知っている。不老不死のコードの存在も、だ。
だがルルーシュには受け継がれなかった事も、知っていたはずだ。
彼は自分がこの手で殺した。何年すぎても、手に残る肉を断つ感覚は消えない。
「……スザクさん? あっ、ゼロ? どうかしました?」
致命傷を与えられた悪逆皇帝は玉車に乗せられ、政庁へ帰還した。それまでに命の火は消えていた。鼓動のひとつも、息のひとつもなにもなく、ただの死体となり血まみれのまま放置された。
葬られたのは、その翌日だ。
憎しみはあっただろう。だが死者をなぶり者にすることをゼロは正義として許さなかった。
死した者への制裁は、文明と呼べる者を持つもののする事ではないからだ。
「スザクさん?」
長い沈黙にじれたのだろう。何度も彼女はゼロとしてはなく自分を呼んでいる。
「ごめん、気のせいだよ。彼の遺体は墓所に埋められたままだ。今頃骨も土に帰っているはずだよ」
呼びかけに対して、昔の自分が出てきてしまった。
昔ロイヤルプライベートと呼ばれていた回線だから盗聴の可能性は低いが、ひどい失態をしでかした。
「死んだ者は帰らない。人違いだろう、だが未だルルーシュ・ヴィ・ブリタニアに憎しみを抱く者はいる。似ているからと言う事で害を成されることのないよう、手配してくれ」
「はい、分かりました」
ほんの少し彼女の声が弾んだのは、きっとわずかに出てきてしまったスザクを感じてしまったからだろう。
もう、死んでしまったはずの人間だと言うのに、彼女はまだあきらめていなかったらしい。
すっかり目が覚めてしまい、スザクはシャツ一枚のまま、ベッドから降りた。
夢の欠片がふわりと心に舞い戻ってきた。広い草原。ルルーシュのような子供。
何かを会話していたはずだが、思い出せない。
それより、ナナリーの話していた事の方が気になった。
確かにルルーシュにはコードが引き継がれなかったはずだ。C.C.も確認をしている。彼女が言うのだから確かな事だ。
土葬にされ、這い出る事などきっと不可能なはずで、その後自分自身が行く訳にはいかないので、人に向かわせているが、変化の報告は受けていない。
間違いに違いない。
どうしてか彼に会いたいと言う思いがひどく強いのは、きっと夢を見てしまったからなのだろう。彼ではなかったのに。
立ち上がり、PCを見るとナナリーからのメールが届いていた。
添付されていた写真データを見て、息が止まりそうになった。
「久しぶりだな、枢木スザク」
最高レベルで立ち入り禁止区画に指定されている、スザクーーゼロの住む部屋へ立ち入る事が出来るのは、彼女くらいなものだ。
振り返らずとも分かった。
不遜な声だってなにひとつ変わっていない。
「そちらこそずいぶん顔を出さなかったな、C.C.」
「こう見えて、私もそれなりに忙しいんだ」
ぼすん、と音がしたのはベッドに座り込んだか寝転んだかしたからだろう。彼女の自分勝手さは今更気にもならない。
「何の用だ?」
「ひとつ、プレゼントの贈呈だ」
「は?」
振り返る。仮面を付けずとも会えるのは彼女だけだ。最初は仮面を通し続けたが、彼女が無理矢理に剥いでしまったのだ。
聞けば、彼女もゼロの代役をした事があるらしい。仮面の作りには精通していた。
それからは、この部屋で会う限りは仮面をしない。最も、他の場所で会うことなど滅多になく、更に言えば会う事自体ほぼないのだが。
「プレゼントって、どういう事なんだ」
「手を出せ、そうしたら分かる」
どうせ歯向かっても彼女には勝てない。あのルルーシュですら相当振り回されていたのだから、自分に制する事など出来るはずがないのだ。
「はい」
あきらめて伸ばした手に乗せられたのは、彼女の手。なにも物はそこにない。
「どうい…………………うぁああああ」
まさか自分がプレゼントですなんて事を言う訳ではあるまいと思った瞬間、それは来た。この感覚は知っている。死した父、起きた戦争、流れた血、再び起きる戦争に振りかざす刃、落ちていく、ルルーシュの、姿。
「ショックイメージが附随してすまない」
ひとしきり、彼女の手を掴んだまま立ち上がる事が出来なかった。
最後に見たのは大きな木星と、歯車。「契約を求めよ」との言葉に素直に従った。
「ひどいプレゼントだな……C.C.、これは」
「おまけは悪かった。最後のがプレゼントだよ。……はは、それにしても面白い。お前はルルーシュと同じか、それ以上に面白い男だな、枢木スザク」
「なに?」
「お前にギアスを与えた。能力は」
「――死にたいと、思わなくなる、力」
「そう」
はははと声を上げてC.C.が笑った。「若干あいつの与えたギアスと被るが、まあいい。お前のはどうやら常時発動型だ。よほど死にたいと思っては打ち消しているんだな」
「C.C.!」
痛い場所を突かれ、とっさに怒鳴る。そう、死にたい。だがルルーシュが与えてくれたギアスと、願い。ゼロであらなくてはならないこと。そのために死んではいけないとその度に無意識に打ち消し続けている。
「生きたいと思う力だ。良かったな、楽になれるぞ」
言われて気がついた。心がふと軽くなっていることに。
「常時発動は達成するまでが早い。存分に期待しているぞ、枢木」
「待て、C.C.。君は生きてこの世界を見続けるんじゃないのか?!」
「それが私である必要はあるまい。お前にコードをやる。そう決めた」
「なにを勝手に!」
「もう決めた。じゃあな」
来るときも勝手ならば、去るときも自分都合だ。
くるりと背を向けると覚え切った暗唱コードを打ち、彼女は部屋を出て行ってしまった。
「――そんな、ひどいじゃないか。C.C.。こんなことなんて……」
ゼロとして生き、そして死ぬ事も出来ずルルーシュの残した世界を見続けろというのだろうか。いつまでも普通なら死が訪れるときがすぎても正すようにとの責務?
死にたい、とは思わなかった。
これがギアスの力なのだとは、まだ実感できなかった。
彼女の去った後の部屋は静かだった。
PCの駆動音がわずかに部屋の空気を震わせる。
そうだった、ナナリーから届いたメールを見ていたのだった。
添付されていた写真は、遠目ではあったが確かにルルーシュに似ていた。黒髪、紫っぽく見えないでもない目、整った姿形。
場所はEU、フィンランド。寒い地域だ。その割に着込んだ様子がないのも良く似ている。寒がりのくせにごっそりとコートを着込むのを彼はやけにいやがった。見苦しいとの理由に笑った事を覚えている。
思い出し、微笑みを浮かべ、そして、絶望した。
「C.C.、ナナリー、ひどいよ。あまり思い出させないでくれよ」
やけに彼の事ばかりが思い出さされる。夢のせいだけではない。そういうキーワードが多すぎる日なのだ、今日は。
このままでは公務にならないと気付き、スザクは寝間着代わりにしていたTシャツを脱ぎ捨て熱めのシャワーを浴びる。
なんの因縁だろうか。
今日は、EUへ飛ばなくてはならない。
就任直後は大丈夫だろうかと思われた超大国の代表――日本、中華、EU、ブリタニアの少女たちはいまや立派に成人し、ナナリーを除いては結婚もし、子供もいる。それほどまでに時間が過ぎたのだとは、何度彼女らに会っても驚くばかりで実感できないまま、今日はEUの代表と面談した。
まだ大丈夫だろうと思われるが、この制度ヘ対する若干の火種があるのだ。
それが、ルルーシュの起こした暴虐政治は正しかったのだとする一派だと言うのだから苦笑を禁じ得ない。
「彼らの主張も、分からないのではないのです。わたくしも時折、あれは悪だったのか分からなくなるときがあるのですから」
物静かな金髪の女性は、二人きりの部屋で小さくつぶやいた。
ルルーシュを悪ではないと認める会話は厳しく禁じられている。この部屋は防音もしっかりし、盗聴の危惧すらない場所でありながらも周囲をはばかって彼女は小さな声でつぶやいてた。
「申し訳ございません。ゼロが正してくれた世界であると言うのに」
だけど、と表情がわずかに続きを伝えてくる。
仮面の下の表情は彼女には分からないだろう。スザクも淡く微笑んでいた。
いつか、分かってもらえる時が来るかもしれないと期待はしていた。ただしそれはずっと未来の話で、歴史家が書物を紐解き、俯瞰して状況を見たときに初めて可能性にたどり着けるかもしれないと言った程度の期待だったのだ。
甘かったみたいだな、と苦笑もする。あれほどの非道をつくしたのに。
だが、一般人へは手をかけなかった。女子供も容赦なく殺したが、それは貴族だった。恐怖政治は貴族を見せしめにし、民衆へは圧政と言論の自由を奪っただけで、それだけでも十分ひどいと思っていたのに甘かったのだ。
「いいえ、構いません。それで、貴方はどう対策をとるつもりなのですか? 現状は」
「数の把握に奔走しています。いずれ、黒の騎士団へ申請を出す事になるやもしれませんが、自国の民です。そこまではしたくないと言うのが率直な意向です」
「分かりました。ルルーシュを御柱に立ち上がろうという組織は他地域にも若干数ではありますが、起きています。近く世界会議を行い、対策をと考えているところでした」
「はい」
「彼の行った事は間違いのない悪です。それを許容することがあってはいけない。今の世界バランスを崩す事も、です。お分かりですね?」
「ええ、分かっています。この平和を保たねば、あの時代に戻る事だけはあってはならないのですから」
深くうなずいた彼女は、戦争を知ってる。子供の時代に国の代表に近い者として生きていたのだ。だから、なんとしてもさけたいと願うのは当然の事だった。
「それでは、調整が整えば招集がかかります。先一ヶ月のうち、動ける日を何日か作っていてください」
「わかりました」
これで、会合は終了。
仮面を脱げないゼロのために、いつもトップ会談が行われたとしても歓迎会は行われないのが通例だ。
会合は終わったが、この後世界会議の調整を行わなければならない。だが、それはシュナイゼルあたりの仕事になるだろう。
「この後、どういたしますの?」
ちょうどこの国の代表として就任した年と同じ年の娘を持つ彼女が問う。
「……フィンランドへ」
「フィンランド?」
迷った挙げ句、口にしてしまった。それとも、こぼれ落ちてしまった言葉だった。
「視察を行いたい場所があるのです」
「それなら……」
「随行は結構。私一人で参ります。では」
もしも、この日の予定がEUではなければ取らなかった行動だろう。
だけど、ほんの半日の余裕だ。写真の取られた座標も分からない、そもそも現地の人間であるかも分からない。――いや、色素の薄い北国の人間の中で黒髪を持つ彼はほぼ異邦人に間違いないだろう。だけど、向かいたがる心は押さえつけられなかった。
もし?
もし、彼がコードを継いでいたら?
バカバカしい仮定だ。
自分は彼の死を間違いなくみとっている。
なのに、そんなイレギュラーが世界に存在すると知っているから、そしてそんなものをC.C.が自分に押し付けようとするから、……期待、してしまうのだ。
当たり前のように半日は無駄に費やされた。
行動のベースとしている日本で世界会議の調整を終え、慌ただしくあちこちが準備に追われている。
既にのろしをあげたグループも存在し、黒の騎士団、CEOとしてもゼロは動かねばならなかった。平和になったこの世界では、死者を極力生み出したくない。それは優しい世界ではない。だが、優しい世界とはなんだろうと思ったときに、個人の主義主張が曲げられる事があってはならないのだと気付く矛盾にスザクは頭を抱えている。
「ゼロ、ちょっとよろしいですか?」
調整のため訪れていたナナリーが扉の向こうから声をかける。
会議室なので、仮面を被ったままでいたスザクはゼロとしてすぐに許可をした。
「あの写真は、やはり見間違えなのでしょうね」
向かいの席に着いた彼女は、わずかに間を置いて切り出す。
「あの後、写真を撮った者にその人物を追わせたのです。ゼロのおっしゃるように害がないよう保護するつもりでもありました。でも…」
「見つからない?」
「ええ」
ため息をついた彼女はうつむいて、だが顔をあげたときにはわずかに微笑んでいた。
「私たちを励ましに、ちょっとだけ現れてくれたのかもしれませんね?」
「それって幽霊って事かい?」
「ええ」
くすくすと彼女は笑う。
「お兄様がいれば、ってやっぱり私はまだ思ってしまうのです」
「それは……」
ストップ、とナナリーはゼロの言葉をとどめる。
「ゼロが告げてはならない言葉、ですよ」
「そうだね……いや、そうだな、ナナリー代表。その通りだ」
いつの間にか崩れていた口調も取り戻し、ゼロを保持する。
不思議にも、あの日以来死にたいと思う心は消えてしまっていた。それがC.C.の与えたギアスだと言うのだから本当に大した力なのだと思う。
絶対遵守という力を手に入れ、為すべき事があった彼が行動に出てしまったのは、仕方がないほどに。
「でも、そう思えば私は頑張れる気がするんです。お兄様はやっぱり見守ってくれている。だから、この優しい世界を守らなければって」
「ええ」
「どうしましょう。ルルーシュ皇帝は悪逆だったと再び告げるのは逆効果だと思うのです」
次の世界会議の議題だ。どうすればいいのか、ゼロにもまだ対処が分からないでいること。
「だから、一部に認めてしまえばいいのではないでしょうか? そういう面もあったと」
「それでは、ゼロの立場としては若干傷がつきそうですね」
「ええ。ですが、そういう面があったとしても罰せなければ支配は拡大し、民衆は重税に喘ぎ塗炭の苦しみを味わった」
その予定は、確かにあった。
だかそこへ至る前にゼロレクイエムは起こしたかったのは、スザクのわがままでもある。
「書類はどこですか?」
「え?」
「お兄様の事ですもの、そこまで考えていたはずです。認めた上でその証拠提示をすれば、いったん世論は落ち着きます」
「――すごいな」
「……?」
小首をかしげた彼女に、仮面の中でスザクは微笑む。
「さすがは彼の妹だ。頭脳は引けを取らない」
「まさか。お兄様に私がかなうはず、ありません」
断言した彼女はそれでも少しの笑みを残し、嬉しそうだった。
「用意しよう、確かにそこまで立案はされていた。法案の草書があったはずだ」
「ブリタニアですか?」
「ああ。代表が戻られるのにご一緒させてもらいましょう」
「どうぞ」
にこやかに、彼女は告げた。
まるで、ひどく嬉しそうな少女のような笑みだった。
「お前、ナナリーと付き合う気はないのか?」
ブリタニアへ向かう空中母艦の中には、招かれざる客もいた。ナナリーは更に嬉しそうにしていたが、スザクにとっては鬼門にも近い。前回会った時には無理な事まで押し付けていった。
「何をバカな事を」
「彼女がなぜ独り身なのか、分かってないのはお前ぐらいなものだ、枢木スザク」
「彼はもう死んだよ」
「ほう。じゃあ私の目の前にいるのは、亡霊か?」
「そうだよ」
与えられた部屋は本来ナナリーが使うであろう最高警備の部屋で、だからスザクも仮面を脱いでいる。
C.C.の前にいるのはゼロではなく枢木スザクという最悪の状態だ。
「それより、なぜここにいる」
「状態を確認に。いい具合だな……間もなく、私の望みも叶いそうだ」
くすり、と笑いスザクの目を覗き込む彼女は限りなく不満でもあった。
「こんなもの、無理矢理押し付けて。そして? 次は君を殺せって? そんな事はもうしたくないんだ、俺は」
「私は死にたい。もう十分に愛されたさ。お前たちにな。だから満足している。人として、死なせてくれないか?」
「………」
もし、ルルーシュなら。
その願いを叶えただろう。
「ルルーシュを呼んで。そうしたら、叶えてあげるよ」
「分かった」
「え?」
あっさりと返事した彼女に、スザクは慌てた。
「大丈夫、時間は取らない。だが今は無理だ。遺跡のある場所へ向かってくれ」
「………どういう」
「答えたところでお前には分かるまい。無駄は嫌いだ。会わせてやるから、礼にピザをよこせ」
はぁ、と大きくため息をつく。
「どうせピザは何があっても食べるんだろ? ナナリーが厨房に無理を言ってた。そのうち来るさ」
「そうか。さすがはナナリーだな。お前とは大違いだ」
けたけたと笑う彼女の真意を計れず、その日スザクは眠る事が出来なかった。
ルルーシュに会える? ……まさか。
そんな事は、ありえない。
ブリタニアに到着するのと同時に、スザクはナナリーへ法案の草書を渡し、後を託すと日本へC.C.をつれてとんぼ返りした。
本当は書類を探す時間さえ惜しかったほどだ。幸いにも几帳面なルルーシュが丁寧に書類を管理していたおかげですぐに見つける事が出来た。
アヴァロンを借り、日本、神根島へ到着すると懐かしさが胸に込み上げてきた。
ここには思い出が多すぎる。
神殺しを止めにきたあの時。ルルーシュをゼロとして断罪した時。生きろとギアスを掛けられ、飛ばされたあの時。
どれも濃い記憶ばかりで、困惑してしまう。
そこへまた、新しく記憶を加えてしまおうというのかと思うと、少しばかり恐ろしくなった。
「手を」
以前と同じように壊された遺跡の入り口に手を着いたC.C.の手を握る。
ほんのわずかなブレのようなものを感じた次の瞬間には、夕暮れの景色が広がるかつてアーカーシャの剣と呼ばれた場所にいた。
「手を離すなよ?」
そう彼女は言い、目を閉じさせられた。次に目を開けたとき、目の前に広がっていたのは巨大な書庫だ。
ここはどこだと思う間もなく、彼女は手をつないだまま歩き進めていく。
やがて書庫を抜けると広大な場所へ出た。
広大、とは違うのかもしれない。およそ常識では計れない場所だ。
黒い廊下のあちこちにまちまちの大きさの絵が掛けられ、そこにはユフィやシャルルの姿もある。一度だけ見た、ルルーシュたちの母の姿も。
「ここは私の記憶の倉庫だ。お前もいずれ持つようになる。どういう形になるかは知らないがな」
ふと天井を見上げると、どこまで続くとも知れない闇と彼女の髪の色と同じ……時系列、だろうか。そんなラインが複数見えた。
「おかしいな。あいつめ、勝手に出歩いているな」
「どうしたんだ?」
「悪い、枢木。勝手に出歩いているようだ」
「え?」
「ルルーシュだよ。使い方を覚えた途端、これだ」
ちっ、と女性らしくないがやけに似合う舌打ちを打った彼女は渋面のまま、スザクへ向き直った。
「あいつはだいたいここにいる。たまに出歩いては世界を見歩いているようだがな」
「……どういう、こと?」
「ここにいるってことだよ」
「ここは、君の記憶の保管庫だと言ったね。じゃあ、君の記憶が出歩いているの?」
「まさか。記憶はこれらの絵だ。あいつは違う」
意味が分からなかった。
「じゃあ、じゃあ! あの写真に写っていたのは」
「写真?」
「あるんだ、まるでルルーシュのような…」
「ああ、本人だろうな」
「まさか………ありえない……………」
「不老不死がまかり通る世界だ。まさかなんて言葉こそありえないさ」
告げて、ふっと笑った彼女は近くの椅子に座って足を組み、呆然と立ち尽くすスザクの様子を見ていた。
「死んだんだ。ルルーシュは、死んでしまった」
「忘れたか、枢木。あいつは達成人だった」
「だけどコードは……」
引き継いでいる間などなかった。それを持つ父は消え、ルルーシュは死んでいない。
――死んでいない?
「もしかして」
「ご名答。やっかいだったぞ」
墓を掘り返し、元通りにすること。彼女がひとりでやったのだろうか。それとも誰か協力者がいたのだろうか。いや、後者はありえない。あの時ルルーシュは誰一人味方のいない悪逆皇帝だった。今ならば、話はきっと別だけど。
「あの姿で出歩くにはまだ早いんだ。バレたらどうするつもりだ」
「きっと赤の他人だと言い張るつもりだよ。そういうの、得意だったから。嘘つきだからね、彼は」
「どこに行ったのやら。やっとお目当ての相手に堂々と会えそうなのに」
ふぅ、と心のそこから呆れたため息を落とし、C.C.は足を組み替えた。
「じゃあ、僕にコードを与えようとしたのは……」
「あいつとは共犯者であって、恋人でも友人でもない。共に生き続けるにはちょっと不似合いなのさ」
告げる彼女の表情には存分な含みを持っていた。
自分たちの関係はなんだったのだろう?
最初は友人だった。そして敵になり、共犯者となり、そして――そして? 失われてから気付いた気持ちには、何と名前をつければいいのか分からない。
「お前は日本にいるのだろう? ギアスをそこまで育てていれば、もしくは一人でも扉を開けるかもしれない。試してみるか、それともまた私が来るのを待つか、どちらでもいいさ、時を待てばいいだけの話だ」
「待ってくれ……本当は、混乱しているんだ」
「だろうな、枢木スザク。お前の頭は柔軟性に欠ける。あの何ヶ月かで十分に知ってるよ」
微笑みを浮かべ、懐かしむ表情を彼女は浮かべる。
あの数ヶ月は夢のようだったと言えば笑われるだろうか。死を前提に破壊を進める準備をしていたあの頃を。
ほぐれた糸を解き解き明かし誤解が解け、だけど友達には戻らなかったあの頃。彼に対し抱いていた気持ちは憎しみでもなく愛情でもなく、無と呼ぶのが近かった。動けなかったのだ。テンポの速い出来事に着いていけず、自分の感情を把握する事なんて出来なかった。ルルーシュは天才だったから何事も早すぎて、彼の感情はどうなっていたのだろう。彼も目の前の事を着々と処理し続け感情を置いてきぼりにしてしまったのじゃないだろうか。
もしかすると、ずっと……?
学園内で学生とゼロを演じていたあの頃から、いやその前のいつかアッシュフォードから切られる可能性があると理解し自分たちの未来を模索する事に夢中になり、ずっと。
「彼は、今、どうしてるの?」
「平穏そうだ。少なくとも、私にはそう見える。平和な世界を眺め、穏やかそうに微笑む」
「それは、君が過去知っていた顔?」
「違うな。あんな顔をするヤツだとは、私も思っていなかった。――いや、違うか。ナナリーの前でだけはあんな顔をしていた」
「……そう」
喜んでいいんだろうか。悲しく感じてしまうのは間違っているのだろうか。
そもそも自分の感情が、事実の理解が追いつかない状態で感情だけが動くのはどうすればいいのだろうか。
だが、鼻の奥にツンとした痛みが走る。じわりと視界がゆがみ、やがて頬を熱い雫が滑り、その後がひやりと冷たくなった。
「幸せ、なんだね」
「そうだろうな」
あえて気付かないふりをしてくれているのだろう。彼女の声は平静だ。
「ありがとう」
誰に対した言葉かは分からない。彼女も分かっているのだろう。だから、なにも言わなかった。
国際会議は目前に控えている。
ルルーシュの準備していた法案の草書は筆跡鑑定も終わり間違いなく本人のものとして用意されていた。
再び、ルルーシュが悪の象徴となる日が来る。
今ざわめいている組織も対象に自分たちが含まれていたと知れば、動きを止める事は多いに予測できた。
3日後に国際会議を控えた日、スザクはふと思い立ち、ゼロの扮装を解いて、だからと言って枢木スザクでもない服装と特徴的な髪を隠す帽子姿で初めて外に出た。
無性に枢木神社へ行きたかったのだ。
最終決戦時、富士の噴火でなくなってしまったけれどあそこへ行きたい。
そして、またルルーシュが憎まれる世界を受け入れる準備をしたい。
深夜に準備をし、夜が明けるのと同時にスザクは外へ出た。誰にも見られていない、不審がられていないことを確認し、行動する。既に十数年すぎた。十代の発展途上にあった子供の顔をしたスザクの顔と、今の顔とは多分別物になってるだろう。もしかして似ているかもしれない、レベルだ。今朝鏡を見て、我ながら老けたなと苦笑が浮かんだものだ。
死にたいと願う気持ちを打ち消す、心に辛い作業がなくなってからは苦労も減っている。C.C.にはいずれ感謝の気持ちを伝えなければいけないと思っているのに、まだかなっていない。目的を知った今ではなおさら感謝しなければいけないのに、彼女はなかなか思い通りに姿を現してはくれないのだ。やはり彼女は彼女であって、彼女の都合でしか動いてくれない。
自分ひとりで神根島の扉はやっぱり開かなかった。ルルーシュはどこにいるのか分からないままだ。
ただ、どこかで生きている。そしていずれ共に歩む事が出来るのだと知ったときから心の痛みも減った。代わりに、また全世界から憎まれなければいけないことが辛く感じてしまっている。
「………え」
そこは、かつて富士と呼ばれたはずの場所だった。岩がごろごろと転がり、荒涼たる景色だ。
だが、それだけではない。
岩の間を縫うようにして、一面に広がる草原。ふと思い浮かんだ景色があった。360度どこまでも広がる――ああ、あれは夢だった。
どこまでも広がる草原。どこへ行けばいいのか分からなくなってしまう世界。分かっていた事だけど、枢木神社はもうなく、今の心境と似ているなと苦笑しそうになった。その、瞬間。
岩陰に人の気配を感じた。声をかけられるまでもなく、反射的に体はそちらを向いている。
心臓が跳ねた。
まるで、まだ十代のような気持ちになっていた。
あの夢では自分の年齢の半分近くの子供のルルーシュに出会った。
目の前には、自分の年齢と半分近くの青年が、目の前にいる。
あの時聞き取れなかった言葉は、きっとこれだ。
――死ねば、共に過ごせないのだから
そして。
「スザク………?」
今は。