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知らない世界の未来の夢を


 おそろしいものが追いかけてくる。あれに捕まってはいけないと考えるより先に本能が逃げ出そうとしているのに、体が重くて動かない。
「……ク、スザク」
 早く、早くと全身にびっしり鳥肌が立つ。こわくてたまらない。なのに何故、自分の体は動かない? 追いついて来てしまうのに。
「おい、スザク起きろ!」
 心の一番深い場所へ突きつけられた氷の刃のように、真ん中からわき上がる恐怖に混乱する。
「大丈夫か、目を覚ましてくれ、お願いだ」
 頬で触れた温度に反射的に目が開いた。
 急激な光量の変化に視界がくらんで、今度は真っ白にハレーションを起こす。
 ここがどこなのか、今がいつなのか、見当識がすっかり失われていた。
「……ルルー、シュ?」
 だけど、この声は知っていた。心配の色を隠そうとしない声音は滅多に自分に向けられる物ではないけれど、間違いようもなく耳なじんだ物のはずだ。なのに、スザクは彼の名を呼ぶ事を瞬間とまどった。
「大丈夫か? どこか痛むか?」
「ルルーシュ?」
「今、保険医を呼んでくる。外傷は見当たらないが、動くなよ。絶対にだ!」
――追いかけてくる、なにか。
 今すぐにでも駆け出したくなる恐怖感。喉奥に這い上がって来た叫びを飲み込んで、息を詰めた。自分でもよくわからない感覚と状況に、困惑した。
 ようやく明順応を果たした目が正常に機能し始め、声そのままに心配気な顔をしたルルーシュが今にも駆け出して行きそうだった。そして、その向こうの突き抜けるような蒼い空。
「ああ、夢だ」
 無自覚に出てきた言葉が音として自分に帰って来て、ようやく納得した。
 そう、ゆめだ。
「夢?」
 立ち上がりかけた中途半端な姿勢のまま、ルルーシュは問いかける。
「悪い夢を見てた――たぶん」
「たぶん?」
「覚えてないんだけど」
 姿勢を今一度スザクの元へ戻して、目を覗き込まれた。そして少しだけ、ほっとした表情をルルーシュは浮かべる。
「夢なら、まあ問題ないか。痛むところは?」
 心配の気配がほんのわずかに薄れた。暖かい紫の瞳の色が、ざわざわと胸の奥をひっかく。
 多分、見ていただろう夢に彼が出ていたのだろう。だけど大丈夫だと自分へ向けて、心の中で告げる。たとえどんな怖い夢だったのだろうと、彼はちゃんと目の前にいるし自分を見ている。
 七年前、失われてしまった姿はちゃんとここにある。
「僕、どうしてこんなところに?」
「覚えてないか?」
 屋外――おそらくここは、学園の中庭だ。見覚えのある白い建物が空へ向けてのびている。再び心配気な声音になったルルーシュの声と景色とともに、ひとつのシーンが頭の中に浮かび上がってパチンと弾けた。
 アッシュフォードの中庭と、落ちてくるルルーシュ。曖昧な夢じゃなく間違いなくさっき起きた出来事をきっかけに、次々とよみがえってくる。
「ああ、ルルーシュこそ。大丈夫だったの?!」
「思い出したか?」
「うん。倒れちゃったのか」
「俺は無事だ……すまなかった、本当に」
「いいよ、君が無事で良かった」
 告げて、本当に良かったとスザクは心から思った。
 少し格好悪い事になってしまったけれど、運良く自分が通りかかってよかった。じゃなければ、今頃ここに転がっているのは自分ではなくルルーシュであっただろうし、受けたダメージもこんなものじゃ済まなかっただろう。
 まさか自分ならともかく、三階から落ちて無事なルルーシュを想像するのは到底無理だった。




 午前中で軍務を解放されたスザクが学園へ来るのは実に十日ぶりのことだった。
 先の戦闘でランスロットはいくつかの損傷を受け、「あちゃあ〜」と天を仰いで嘆いた主任が気を取り直して修理を始め、その上「どうせなら乗せちゃおう」と新しい換装パーツの搭載を決定してしまったからだ。
 その気になったら周囲などお構いなしのロイド・アスプルンド伯爵は、やはりいつも通りにぶっ通しの実装作業とデータ収集に没頭した。いつもはそれとなく、まだ人間的な範疇に留まるよう特派を上手くコントロールするセシルも今回は当てにならなかった。なぜなら、換装パーツのメインフレームを担当していたのが彼女だったからだ。ロイド以上に熱がこもっていたかもしれない。
 それになにより、一気にやってしまわなければ各地のテロ勢力――主に黒の騎士団からの招待状がいつ届くか分からない昨今だ。せっかくのチャンスを調整中などという理由で棒に振りたくないと二人の勢いは相乗効果で加熱して、ついに満足行くデータを得れたのは今朝方九時だ。スザクはもちろんの事、その他面子も特派トレーラーに監禁状態にされていたのは一週間にも及んだ。
 さすがに今日は休みたい、とは思ったものの先の戦闘で三日、その後一週間の留守は友人たちに心配をかけているだろう。いくら騎士(KMFに騎乗出来る、という意味で)とは言え名誉ブリタニア人のスザクに携帯電話は与えられていない。まるまる十日間の音信不通だった訳だ。
 ただでさえ、一番の親友はスザクが軍に属している事に良い顔をしていない。不満にも見えるその顔を思い出せばもうベッドどころではなかった。熱いシャワーだけに欲望を留め、久しぶりに制服の袖に腕を通す。
 何故か新鮮な気持ちになりながら、いつも通りのルートをたどり学園へたどり着いたのは午前も終わろうかとの時間だった。敷地内がいささか浮き足立った様子だったのも、明らかに睡眠が足りていない血走らせた目で計測機器や調整工具を抱えて皆が走る特派トレーラーから出たばかりだったスザクにとっては「ああ、学校ってこんなところだったよなあ」などと感動するばかりでさっぱり気付けなかった。
 何故か開催率の高すぎるミレイ会長のお祭り騒ぎを肌で感じ取るには、アッシュフォードどころか学校というものにスザクは馴染みがなさすぎたのだ。

 だから、中庭に差し掛かり三階のエントランス外側に立っているルルーシュを見たときには頭が真っ白になり血の気が引いた。

 いつかのアーサーが引き起こした猫祭りの時とは違う。ルルーシュは狭い足場に無理矢理立って、内側と下……自分のいる中庭を伺っているように感じた。
「ル………ッ」
 ルルーシュ、と思わず飛び出しそうになった声を慌てて引っ込めた。
 彼は自分に気付いていない。そして、どう見てもあれは何かから逃げているか隠れているかの様相だ。非常に不安定な足場に立つ彼に不意の出来事が起きれば、間違いなくまっさかさまに落ちてしまうだろうことは簡単に想像出来た。
 しかしルルーシュは内と外を見比べながら、どうやら飛び降りるか否かの決断に迫られているようにしか見えなかった。
 低木が植わり芝生もきれいに整えられた中庭は、ある程度のクッションにもなるだろうが、あくまでもそれは気休めだ。天井の高いアッシュフォードの建物は、三階と言ってもそれ相応の高さがある。自分でも飛び降りるには躊躇するし、骨の一本は持って行かれる覚悟をしなければいけないだろう。それを、ルルーシュが。
 間違いなく問題がある。
 気付かれないよう注意を払って、万一彼が飛び降りた場合の着地地点になり得る場所に当たりをつけた。そんな無茶を止めるのが最善だが、足場は非常に狭い。声をかければ本人も希望しないまま落下する可能性はあまりにも高すぎた。
「………ルルーシュ」
 刺激しないよう、小さな声で呼びかける。当然すぐには気付いてもらえない。
「ルルーシュ」
 校舎に入って内側から引き上げた方が早かっただろうか? と迷いながら三度目の呼びかけでようやく彼は声に気がついた。どこからかとルルーシュは下方を見回して、それがスザクであった事に安堵の表情を見せる。と、共に。

――見事に足を踏み外した。

 もちろんスザクは受け止めるはずだったし、やっぱりと思わないでもなかった。予想外だったのは、それでも落ちたルルーシュがなんとか体勢を整えようと空中でもがいていた事だ。どこかに引っかからないかと伸ばした手が弾かれて体勢が崩れると、大きくバランスを崩して足が盛大にガラスを突き破る。キラキラと光る欠片はきれいだったけれどもスザクの行動をひどく制限させるものになった。
 片手で落ちてくるガラスの破片を跳ねのけ、なんとかルルーシュをキャッチ。
 しかし、全く万全とは言えない体勢で、しかもルルーシュを支えきれずにスザクは校舎側へと弾かれてしまった。
 そして、ブラックアウト。
 ガラスが刺さらなくてよかったなぁと今は感心するばかりだ。




 どうやら、そのまま自分は昏倒してしまったらしい。外傷らしき外傷はなかったものの、すぐ傍でルルーシュがいつにない心配な顔を惜しげもなくさらしていた。
 割れたガラスの音で生徒たちが集まって来そうなものの、まだその気配が感じられないという事は、そう長い時間ではなかったようで、ほっとした。
「とりあえず、立てるか? いや、頭を打っていたら動かない方が……」
「大丈夫だよ、脳震盪を起こしただけだろうから」
「バカ、そういう自己診断が……」
「大丈夫。ほら」
 ぶつぶつと言うルルーシュに向かって、ひょいと立ち上がってみせた。体のバランスは大丈夫。よろめきもしない。脳震盪なら幾度も経験しているので、特に気を配るものでもないことをスザクは自覚していた。
 ガラスの被害は幸いにもルルーシュにもなかったようだ。事情をしっかり思い出し、自分の状況を判断する。
 長い軍生活ではある程度の怪我なら慣れっこだ。深刻なものでなければ過去の自分の経験で自分の状態も推し量れる。いちいち軍医が駆けつけてくれるような上等な部隊になったのはつい最近の事だから、他人の状況も把握するのには慣れていた。
 自分の面倒は自分で見なければ、命なんて簡単に落としてしまうのが常だったのだ。
 滅多に見れないルルーシュの動転した様子はスザクの心を妙にくすぐる。神経質だった子供の頃よりずいぶんがさつになったとは思っていたけど、彼の本質はやはり全く変わっていないのだ。
「大丈夫だって。今すぐバク宙してもいいよ?」
「バカッ、やめろ!」
 くすくすと笑いながら、昔はナナリーだけに向けられていたものが自分にも向けられている事を知り、心が温かくなった。
「とりあえず、医者はいいから。人が集まる前にどこかへ行こう? 君、逃げてたんでしょ?」
「あ、ああ……」
 本当に大丈夫なのかと視線を向けられ、しっかりと頷いてみせる。
 そこでようやく信頼することにしたのか、立ち上がったスザクの手に引かれてルルーシュも立ち上がった。
「何かまた騒ぎでもあったの?」
「いや……」
 濁された言葉の先は、後で尋ねることにした。
 とりあえず今は、医務室だ。
「僕は大丈夫だけど、君が心配だ。医務室に行こう。肩、痛めてるでしょ?」
 びくり、と驚いた顔をしてルルーシュが自分を見た。
「だってあれだけ手を振り回してたんだもの、途中引っ掛けてたし。それに動きがぎこちない」
 指摘すれば、非常に不本意な様子ではあったがルルーシュはなんとか頷いた。
「人が集まる前の方がいいよね、こっちから行こう」
 ぐるりと遠回りになる道を選んだ。
 本当は自分が手当してあげる事も出来たけど、きっとルルーシュはそれを望まないだろう。そして、妙にくすぐられる心が彼と一緒に居たがった。
 これは、自分の我がままだった。
「お前、本当に変わったな」
「君は結構変わってないね」
「……」
 憮然とした気配に吹き出した。
 彼は変わったように見えたけど、やっぱり本質なんてそう簡単に変わるはずがないのだ。
「で、何があったの?」
 歩き出したスザクを追うように、足を進めたルルーシュを振り返って問いかける。
 心配と好奇心に満ちた生徒の一部がいち早く到着したようで、逃げるように茂みに隠れるようにして進んだ。
「なんであんな所に?」
「会長が……」
 医務室へ向かう道すがら、やたら言いづらそうにルルーシュが説明してくれたのは、やっぱりミレイ会長主催のお祭り騒ぎの概要だった。
 生徒会メンバーを捕らえると部費30%のアップ。そして捕らえたメンバーを一週間貸し出し可能というのが今回の「結論」部分だった。どうしてそこへ至ったのかは分からない。ルルーシュも喋らないし、もしかしたら単なるミレイの思いつきかもしれなかった。それでも、ああ、いかにもあの人らしいなぁと思わせるには十分の内容で、ルルーシュが必死で逃げていたのは女子水泳部に追われていたからだと知り(しぶしぶ、ほんっとうに、しぶしぶに答えた)、それもとても納得出来た。
 きっと音頭を取っていたのはシャーリーだろうなぁと思えば微笑ましくもあった。
 たどり着いた医務室に保険医はいず、仕方なくルルーシュの肩を制服越しに検分する。平気な顔を装ってはいるが、時折しかめられる場所を特定して、制服を脱がせた。筋を痛めている訳ではなさそうで、単なる打撲だろう事に安心した。湿布を貼付けて、恨めしい顔をした彼の表情を仕方なく受け流す。
 細身だとは思っていたけれど、制服の下、シャツの下に隠されていた体が予想以上に華奢だった事に鼓動がひとつ跳ねたのは、きっと上手く隠せたと思う。彼から不審な気配は感じられなかった。
「後、足は大丈夫? ぶつけてない?」
「平気だ、ここまで歩いて来ただろう?」
「君、そういうの隠す癖あるよね。気付いてないとでも思った?」
 座っているルルーシュの右足を取り、ぐいっと裾をまくり上げる。
「ほら、これ多分捻挫だよ」
 足首の真っ赤な腫れ。放っておくと、このまま被害は拡大していくばかりだ。
 湿布よりはと、勝手に冷蔵庫を開き冷却シートを取り出すと、ビニルの部分をペリペリめくり、貼付けた。
「冷たい!」
「文句言わないの。明日、足首が倍にふくれててもいい訳?」
 これは替えね、と一袋まるごと彼に手渡した。ひどく不貞腐れた顔をしていた。
「なに? 苦情は聞かないよ。君の体の事だから。肩の湿布もちゃんと張り替えてね」
「違う」
 素直にそれらを受け取ったルルーシュは、スザクをねめつける。そろそろ日暮れの時間らしく、朱色に染まった部屋の空気は彼の視線まで色をつけ、心臓に悪かった。
「……なに?」
 言おうとしないルルーシュに、今度はスザクの方からねめつけてみた。
 苦情は受け付けません、としっかり看板に書き付けた目だ。違うと言われても知らない。
「――俺ばかり、ずるい!」
「へ?」
「俺ばかり怪我するなんて、ずるい。状況は似たようなもののはずだったのに、スザクは脳震盪? しかももう問題がない? ズルい」
 早口で述べられる言葉の羅列を頭の中で整理して、ようやく理解すると、思わずスザクは吹き出してしまった。
「わ…笑うな!」
「だって、しょうがないじゃない。僕はずっと体鍛えてたんだもの。君に出会う前からね」
「それは………そうだけど………」
 それでも不満だと続けたルルーシュがかわいらしくさえ見え、自分の目はどうにかしてしまったのかと思いながらも幸せな気持ちになってしまっていた。


 だから、忘れていた。
 夢の事なんて。
 体の真ん中から震えるような怖さと、逃げたいのに逃げれない恐ろしさを、忘れた。
 おそらく、次にその夢を見たその時まで。










 枢木スザクには悪夢への耐性がある。
 子供の頃から幾度も見た。
 夜中、誰も起きていない部屋で目を見開いて浅い呼吸を幾度も繰り返し、あれは夢なんだと言い聞かせ――もしくは、もう終わった事なんだと諭し、続く明日の為に再び目を閉じ、眠ろうとした日々がある。
 それはすべて失われたもののゆめだった。
 去ってゆくルルーシュとナナリー。
 爆撃で荒れた土地に打ち捨てられた遺骸。
 自分の手が奪った、父親の命。
 すべて、幸せが終わったのだと明確に切り分けられた頃を夢に見た。あれは夢なんて曖昧なものではなく、ただの事実の再現なだけだった。
 引き止める事も追いかける事も再会を約束することも出来なかったルルーシュとナナリーの姿。振り返り車のバックウィンドウから必死で見てくれていた彼らの事。
 人肉の焼ける匂いと、朽ちて行く匂い。自分の手で葬る事も出来なかった末路。
 そして、幾度も父へ突き立てた刃のなまなましい手応えと血の匂い。
 えづきそうになるほど心も体も痛めつける、あれらは現実だ。
 だけど、近頃見る夢の正体はそれではないと気付いていた。
 目が覚めれば内容は欠片も思い出せない。ただ、焦燥感と不安と、冷たい刃が体の中心に突き刺さった感覚。どうやっても何も変わらないと分かっているのに、泣いて叫んでしまいたくなる恐ろしい曖昧なビジョンは手がかりすらもスザクに与えないのに。
 ただ、逃げなくてはならない。
 夜の真ん中、見開いた目が捕らえた天井がどこかを把握する前に叫びそうになるのを押しとどめた事は何度もあった。
 何の夢を見ているのだろう?
 それは知りたくはあったけれど、知る事が怖くもあった。
 あの繰り返された失われた物の夢は、そうと知っているから目が覚めたときに辛かった。あれが夢だと知って安堵する自分に更に痛めつけられるからだ。
 もう終わったんだと一瞬でも考える自分に感じる嫌悪感は計り知れない。
 だから、欠片すらも掴めないこの夢も、掴めないならそのままにしておきたかった。
 何がそんなに自分を追いつめていたのかを知りたくはあったけれど。










 真っ暗な室内は見慣れない内装だった。長くて一週間程度で転戦し続けている自分にとってはこれこそが日常だ。浅い呼吸を一度止め、大きく深呼吸してからこわばった体を毛布の中で動かした。冷や汗に濡れる感触が気持ち悪い。あきらめてベッドから降りると、そのままシャワールームへと足を進めた。
「またか……」
 きっとあの夢で追って来たのはルルーシュだった。
 いや、ゼロという名を持つルルーシュだ。彼を好きだと自覚出来なかったのと同じように、自覚出来なかった疑いが、真実が、追いかけてくるのだと思っていた。
 彼がゼロであるということ。
 自分が決して受け入れられない存在であるということ。
 好きだったからこそ、あれほど怖かったのだ。
 激情に駆られ彼を追いつめ――殺さず、最も手ひどい裏切りである皇帝へ差し出すという道を取った。そのことは自分で納得していた。なのに夢は今でも見る。忘れかけた頃に、必ず。そして相変わらず輪郭すらも掴めない。
 叫びそうになるほどの恐怖にまみれて目を覚ます。
 アンダーを脱ぎ捨ててシャワーコックをひねると、冷たい水が頭から降り注いだ。
「なんで、まだ見るんだ……」
 何があるというのだろう。
 失った物の夢なら分かる。ユーフェミアを失った夢ならば、理解出来た。また失ったものの夢。
 だが、そうではないのだ。
 父を殺したりしなければ、焼け野原に死骸が転がる事はなかかったかもしれない。
 戦争が起こらなければ、ルルーシュたちは遠くに行かなかったかもしれない。
 もっと注意を払っていれば、ルルーシュを早くに止められたかもしれない。
 ユーフェミアの騎士として傍を離れなければ、彼女を失わずにすんだかもしれない。
 かもしれないばかりの羅列が自分を苛むのなら理解できた。
 頭上から降り注ぐ水が湯になり、熱さでしびれそうになってようやく追求することをあきらめた。
 何の夢を見ていたのだろうと考える事は一度や二度ではなくなっていた。きっとそうだったのだろうと理由を見つけた後から、何度も、何度もだ。同じくらいに夢を見た。頻度は昔より高くなっている。なにも分からないくせに目が覚めた瞬間、ああ、あの夢だと分かってしまう。
 誰かと一緒にいても、ひとりきりでいても、見る夢。
 戦場で人をたくさん殺しても、まだあの学園で平和に過ごしていた時期も見ていた夢。
 規則性などなにもなく、考えるだけ無駄なのだ。
 そう、ただの夢にしかすぎない。振り回されすぎている。
 熱い湯で全身を打たれて、たまらない寒気が打ち消された。
 ほっとしてコックを閉じ、シャワールームを後にする。時刻はまだ午前二時。起きるには早すぎる時間だが、もう眠る気にはなれなかった。一日程度の寝不足が戦闘に影響することもなくなった。
 手早く水気を拭い、スザクは新しいアンダーとラウンズの制服を身につけた。日がくれてから帰投したから、ランスロットはまだ調整中だろう。デバイサーである自分がいて役立つ事はきっとある。
 真っ暗な室内は結局一度も明かりを灯される事がなく、煌煌と真っ白に照らされた廊下へスザクは出た。
 明順応を果たすまでのひととき。デジャブを感じたが、それもすぐに忘れてしまった。










「ああ、バカだと思っているよ。だがお前達がやると決めた事なら、私は口を挟まない」
 そうだろう、スザク? ――と、C.C.は笑う。暗に止めたいなら自分が止めろと彼女は告げているのだ。スザクは、それに何も返す事が出来ない。
 公的には死んだ人間になったスザクは、皇宮の一室で一日を過ごす。死ぬつもりはなかったけれど出来レースではありえない戦場で負った負傷は思いのほか深かった。
 ベッドの上で半日以上を過ごし、その間に世界情勢を学んで行く日々だ。
 時間は限られている。
 ベッドの上で学ぶ事柄は、今まで必要と感じながらも理解しきれていなかった事だった。決まってしまったその後までも、ルルーシュがいくつものプランを練り、対策と根本的な対処法を施してゆく。
 彼はまだ表舞台に立ち、最後の仕上げのため、本当なら数年数十年掛けてゆるやかに行わねばならない変革を乱暴に見えるように成し遂げていた。
 結局、ルルーシュの事をスザクは許していない――表面上は。
 だが、彼がギアスを乱用し、上からの立場で強制的に様々な事柄を変えて行く事を肯定した。急激な変化は軋轢を生む。しかも反抗した者は一族郎党共に抹殺するあくどいやり方をわざとしている。
 ギアスとブリタニア皇帝、そして超合衆国議長、世界唯一の軍隊である黒の騎士団CEOの座。すべてを手にし、黙らせ、弱者も強者もなく表を馴らして行く。ただ圧倒的な力として、ルルーシュだけが君臨する世界を作り上げているのだ。
 本当は、もういい。
 シャーリーが告げたあの言葉の意味を、スザクはもう理解していた。
 許せないのは自分が許したくないだけ――彼に裏切られた自分がかわいそうだった。だから許さなかった。
 彼に理解してもらえなかったこと、彼を理解出来なかったこと、決して考え方が合わないなら近寄らなければ良かったのに離れたくなかった事。
――結局、最後に残ったのはルルーシュが好きだと言う思いだけだった。
 だからこれが本当に正しかったのかどうか、今はもう分からない。
 今から為そうとしている事は、憎しみをひとつに集め、それを消し去る事。消し去るものを英雄とし、象徴とすること。平和は取り戻されたのだと知らしめること。
 そのために、今はすべての人間に恐怖と不安を与えなければならない。
 もういいと、言いたかった。
 もうやめてくれと言いたかった。
 これ以上、ルルーシュが憎まれる世界を見たくなかった。
 だが、自分はもう止める事が出来ない。唯一の共犯者であったC.C.ですら無理な事なのだ。
「殺す事を躊躇しているのか?」
 床に座り、無防備な姿をさらす彼女は鋭く確信を突く。
 しかし頷く訳にはいかなかった。
 あれだけゼロを嫌悪したスザクですら、ルルーシュが今までその力を無秩序に使っていなかったのだと知った。ユーフェミアの件ですら事故と知った。黒の騎士団はゼロの奴隷ではなかった。意思を奪われた人形しかいないブリタニア皇宮で、ようやく気付けた。
 人格を奪い命も使い捨てる。いくら権力があろうとも、ルルーシュの望む改革をこの短期間で成し遂げられるはずはなかった。
 きっと今まで採らなかった方法をルルーシュが用いたのも、自分が止めようとしないのも、引き返す道をすべて閉ざすためだ。これだけの事をしてしまった以上、代償は受けなければならない。そして、もうその場所まで来てしまった。
 だから、決してルルーシュを殺したくないなどと、口にしてはいけない。
「ルルーシュが君と同じ存在になったという可能性は?」
「ないな」
 短い答え。
 コードが継承されればギアスは使えなくなる。だが彼はまだその力を悪魔の力として使い続けているのだ。では、やはり。
 自分が、彼を殺す事は、さけられない。
「私はルルーシュにコードが委譲されなくて、良かったと思っているよ」
「……だろうね」
 悪意の象徴として、ルルーシュは討たれる。正義の象徴のゼロとなったスザクによって、あのとき、嘘を真実にしろと迫った自分の言葉が自分に跳ね返って来ただけだ。でも、だけど。

 どこへ戻れば、幸せになれたんだろう。

 そんな結末を望んでいた訳ではなかった。少なくとも学園にいたときは。再会した時は。出会ったときは。彼を殺したい訳じゃなかった。何度もお互いチャンスがありながら、お互いを邪魔に思いながら、結果的にこうやって同じ場所に立ってするのは、こんなことだ。
 裏切られたと思った一度目のブラックリベリオン。きっと自分は守られた。学園地区でメイン戦場から遠ざけられ、直接ルルーシュが罠にかけることによって、決して奴隷ではなかった黒の騎士団からの望まない攻撃から避難させた。
 神根島で相対した時、激高した自分も結局彼を殺さなかった。より屈辱的であろう、ひどい罰であろうと思いながらも殺せなかった。殺すと決意し憎んでいたはずなのに、自分は皇帝に差し出す道を選んだ。
 ラウンズとして取り立てられた後も、彼がゼロになれば一番に自分が向かう事を志願した。
 どんな形であれ、自分が傍にいれば彼は死ななくてすむ。
 そんな事を――今ならば、思う。考えていた。
 バカだなぁ、と思う。
 本当に最初から、自分たちはバカだった。
「彼は死ななくてはならない。だけどどうしてだろう。僕は彼に生きていて欲しいんだ」
「ひどいワガママだな」
「そうだよね」
 嘆息したが、C.C.は違うと首を振った。
「お前は死ぬ。ナナリーも死ぬ。ジェレミアもロイドもセシルも、あいつの知っている人間はみんな寿命で死んで行く。そんな生を与えたいのか?」
「……………君がいる」
「押し付けるな」
「ごめん」
 未来永劫一人でさまよう彼を求めている訳じゃない。今までだってきっと彼はひとりぼっちだった。ナナリーだけを内に入れ、もしかしたら自分も彼の内側に入れてもらえていた事があったかもしれないけれども、だけどもう、そのどちらも過去のこと。
 彼は早く終わらせたがっているのかもしれないと、スザクは思った。
 死にたがっていたあの頃の自分ともしかして似ているのかもしれない。
「お前は本当にタチが悪い。分かったふりをして、いい子の顔で謝って。……あいつが手を焼いていたのも良く分かったよ」
「ルルーシュが?」
 ふと真顔でC.C.がスザクを見た。ほんの短い一瞬、視線が交わり彼女は結局今までと同じように苦笑した。
「――『おまえが好きで好きでたまらないのに、どうして思い通りになってくれないんだろう?』」
「え?」
「C.C.!」
 彼女の言葉の途中で、シュンと扉の開く音がした。
 ここに入って来れるのは自分と目の前のC.C.、そして彼だけだ。
「おかえり、ルルーシュ」
 にっこり笑うC.C.はきっと彼が戻って来たのを分かっていたのだろう。彼女達の間には見えないつながりがあると感じる瞬間が、頻繁にある。契約という媒介がそこに存在しているのだろうとは思っても、時折妙に苛立たせる感覚だった。
 向けられた純粋ではない笑みに、ルルーシュは渋面を浮かべる。そこへ更に彼女は笑みを足した。
「さて、きっかけくらいは作ったぞ。後はどうにでもしろ」
「待て、お前、何を言って……」
「そいつに聞けばいいさ。私は部屋に戻る」
 開いた扉が閉まり切った前に立ち、ふと彼女は振り返る。
「スザク、私に出来る事はもうない。分かったな?」
「……ああ」
 面倒だが眼底認証を行い、彼女は扉を開いて出て行った。
 ルルーシュが何か問いたそうにしていたが、結局なにも口にしないままだった。
「何を話していたんだ?」
 ため息をついて、仰々しい皇帝衣装の上着を脱ぐと、ルルーシュは残されたスザクへ問う。まともな答えが返ってくるなど期待していないくせに、問わずにはいられないルルーシュへスザクの頬へ笑みが浮かんだ。
「君には関係のない話だよ」
「………まさか」
「多分」
 もし、C.C.の茶化したように告げた言葉が頭をかすめたが、きっと彼は口にしないだろう。自分が同じ事を告げないのと同じに。
 だから、これは関係のないお話だ。自分たちの間では存在のしないもの。
「さあ、昨日の続きだ」
「夕食は?」
「さっき食べた」
 交わされる声音は決して柔らかなものではない。
 同じニュアンスの会話は今までもあったし、学園にいた頃からは想像もできないような関係だなとふと頭をよぎった。
 多忙で、残された時間が少ない事を理解しているルルーシュはまた夕食を取っていない。さらりとつかれる嘘はこんなにも分かりやすいのに、何故今まで分からなかったんだろうと思う。
「そう」
 だけど、嘘を嘘とは指摘しない。そんな関係ではなくなってしまった。
 彼を心配する言葉を、自分の唇は紡がない。
「EUがようやく非公式だが超合衆国憲法に批准した。こちらの譲歩は例の件だが、時間が過ぎれば意味がなくなる、問題ない。軍の委譲は段階を踏むが……」
 脱いだ衣服をハンガーへ掛けながら、ルルーシュが進捗を伝え始める。それによって変わるその後を口にするルルーシュの言葉を遮り、C.C.がきっと期待していたであろう言葉を告げるべきかどうか、迷う。

 夢を見た。
 ずっとずっと、夢を見ていた。
――見始めたのは、いつだった?

 体の芯からつめたく冷やし、怖くて恐ろしくて叫びそうになる悲鳴を押しとどめて目が覚める。ずっと見続けて、いい加減飽きたくなるし慣れてほしくもなるのに、目が覚めた瞬間からだが強張ることは収まらない。
 内容はさっぱり、覚えていないのに。
 なのに逃げたくて怖さに泣いてしまいそうになる、夢だ。
 手足から失われた温度で、ようやく理解した。

「ルルーシュ」
「………なんだ?」
 EUが超合衆国に参加する。これで世界の統一は終わる。
 軍隊の再編と新しい世界の基準を用意し、まだ反抗する既得権益にしがみつく旧勢力の一掃を終えれば、このゼロレクイエムは最終局面を迎える。
「……いや。なんでもないんだ」
 思わず呼びかけた名前の温度は、常と同じで彼も気付かない。
 彼を許さなかったふりを続けた自分への罰だ。
「それで、各代表は?」
「ああ、中華、及び中東の……」
 途切れさせた説明は、なにもなかったように再開された。

 真夜中に目が覚める。
 灯された常夜灯のあかりは、周囲の闇をより一層深くした。いっそ欠片も明かりがなければ目は暗闇に慣れるのに、ひとつの光が届かない場所を瞳は認識出来ない。
 ルルーシュという明かりが、多分スザクの中にずっとあった。
 過去失ったすべてが自分の過ちだと知っているスザクにとって、生きて行くための灯りだった。
 失えばちゃんと闇に慣れるのだろう。
 彼の存在がどこにもない、欠片も存在しない世界になってしまえばこの不安も悪夢も手放してしまえるのだろう。
 C.C.が部屋を出るとき、きっと彼女が賛同しきっていないこのバカげたプランをスザクが否定するのを期待した。だがこの唇は彼を守る言葉を紡がない。自分を甘やかす事がもう出来ない。その道を自分で閉ざした。
 夢の形がようやく理解出来た。
 それは、自分がルルーシュを貫くと決まったときだった。
 どこへ戻ればやり直せたのだろう。互いが互いを理解出来ない存在だと、納得してあきらめて受け入れる事が出来たのだろう。理解して欲しいとばかり互いに押し付け合わずに生きて行けたのだろう。
 
 ずっとずっと、彼を自分の手で失う事を恐れていた。

「ルルーシュ、好きだよ」
 告げた音色もまた、まさか彼が本気にしそうにない冷たく乾いたものだった。
 案の定、彼も気付いたのだろう。どこか傷ついた顔をして振り返る。
 小さな灯りの下で。

「俺も、ずっと好きだったよ」


2010.08.07.
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