ロロが帰って来て、にこやかな顔で話をしている。
だけど残念ながら、ルルーシュには上手くその内容を咀嚼出来なかった。同時にいくつも物事を考える事の出来るルルーシュとしては、あり得ない出来事だ。
だが、それを上回る衝撃が来てしまったのだからしょうがない。
「兄さん?」
「え?」
「僕の話、聞いてる?」
「……すまない、ロロ。ちょっとな」
「体調でも崩した? 眠った方がいいんじゃない?」
と、彼は手を差し伸べて額に当ててくる。その手の感触は嫌いではなかった。
でも、違うと思ってしまう自分がいる。
最悪だ。
「熱はないみたいだね……」
「ああ、別に体調を崩した訳ではないんだ。ちょっと、な」
「何? 何かひどい事でもされた?」
「される訳がないだろう? 俺はギアスを持ってるんだぞ?」
「そう、だよね…」
と、ロロが笑う。
ロロの持っているギアスでも、ルルーシュの持っているギアスでも、大抵の「ひどいこと」からは回避出来るだろう。だが、今日のは嫌な事ではなかった。それに、回避する間もなかった。
ため息をつきたいのを我慢する。
ここでそんな行為に出れば、ロロに心配を掛けてしまうのは目に見えているからだ。
「少し疲れたんじゃないかな。最近忙しそうだったし」
「そうかもな……。少し、部屋で横になってみるよ」
「うん、その方がいいよ」
兄を敬愛しているロロは、何の疑いもなくルルーシュの言葉を信じて見送ってくれた。
部屋へ戻ると、こんな事は絶対にあり得ないのに制服のままベッドに寝そべった。
キスをされた。
友達で幼なじみで、最悪の友人。
だからこそ、衝撃は大きかった。
放課後の生徒会室に集まるのは、もはや習慣と言ってもいいものだった。ロロも生徒会だが、彼は極端に人と接触するのを嫌う。兄と一緒ならばたまに顔を出しはするが、基本的に用の無いときは顔を出さないのが普通だった。
いつも通りのメンバー……ミレイ、リヴァル、シャーリーが顔を揃えていて、そう急ぐ訳でもない書類を処理しながら適当な会話を茶と共に楽しむ。
そこへ、息せき切って、珍しい人物が顔を出した。
スザクだ。
「あれ、スザクくんだ。どうしたの、お仕事大丈夫なの?」
彼は今、帝国最強の十二騎士、ナイト・オブ・ラウンスに籍を置いている。もちろん多忙な筈だけれども、何故かアッシュフォード学園に復学し、隙を見つけては通っている。
もちろん理由はただひとつだろう。
自分――ルルーシュ・ランペルージの記憶が戻っているか否かの確認。
だがそれを別としても学園生活をそれなりに楽しんでいるようだった。生徒会メンバーは元々の友人でもある。懐かしい人々に囲まれて、心を休めていたのかもしれない。
「今日、戻ったんだ。急げばまだ間に合うかなと思って――良かった、間に合った」
「そんなに急がなくても、生徒会は逃げないわよ?」
「さあ、どうだろう?」
彼はにっこりと笑う。邪気のなさそうに見える笑顔の下にはそうでないものを含んでいるのを、既にルルーシュは知っていた。
ここはルルーシュの為に用意された、鳥かごなのだ。
ルルーシュが記憶を取り戻しさえすれば、不要なもの。すぐに解体されてしまうだろう。
それを知っているのだろう、だから彼はここでの時間をことさら大事にしているようだった。
「これ、今日やらなきゃいけないもの?」
と、机の上に積まれている書類を一枚手にする。
「今日中じゃなくてもいいけど、いずれやらなきゃいけないもの、よ。時間があるんだったら手伝ってちょうだい?」
「会長ー、せっかくスザクくんが仕事の合間縫って来てくれたのに、それはないと思います。ねえ、ルル」
「え? ああ。せっかくだからゆっくりお茶でも飲んだらどうだ?」
そう勧めると、スザクは首を左右に振る。
「ううん、いいんだ。手伝うよ。こういうのが楽しいんだ、僕は」
「会長の奴隷になる事がですか?!」
などとリヴァルがおちゃらけて言う。
「ふざけるな」
とシャーリーが突っ込むが、スザクは微笑んだままで、ルルーシュを見た。
きっと探りを入れている。だがルルーシュも微笑んだまままっすぐ視線を受け入れて、「じゃあ座れよ」と、以前から彼が使っていた席を指し示した。
「うん」
と、スザクは書類を束で持ってその席に座った。
全校アンケートだ。量だけは大量にある。
「項目をチェックして、未記入のものは弾いてくれ。その上で、チェックされているものの集計を出して、記載してあるものは横に分けておいてくれ」
「地味な作業だね」
「大体こんなもんだ」
次の学園祭に関するアンケートだった。
メインイベントを何にしたいかこちらから予めいくつか提示して、チェックを入れるようになっている。希望者は空欄に別途やりたい事を記載出来るようになっている。
確かに地味な作業だった。だが、やらないことには仕方ない。
イベントはいつも会長の趣味で行われるが、学園祭はそういう訳にはいかないからだ。
みんなの希望も尊重しなければならない。
スザクはやりはじめると、すぐに没頭した。用意された茶を出されても、気付いていないくらいだ。集中力はさすがだと感心する。そうでなくてはラウンズなど勤まらないだろう。
やってもやっても、全校分――中等部も含む――は、枚数が減らなかった。一日で処理してしまおうと言う方が無理なのだ。だから、急ぎではないが既に手を付け始めていた。
ルルーシュもそれなりに枚数をこなしたが、さすがに疲れが見えて来た。
「どうする? 今日はもう解散?」
窓の外が朱色に染まっている。もう夕刻だ、時間が過ぎるのが早い。
「そうですね、今日一日で終わるものでもないですし」
「あ、私明日は部活の方に行くんで欠席です」
「逃げたわね、シャーリー」
「違いますよお」
「俺はいつでも会長のお手伝いさせてもらいますよ」
などとリヴァルが言うものだから、
「それじゃあ私の分もやってね」
なんて語尾にハートマークが付きそうな勢いで告げられ、顔を蒼白にしていた。
彼が会長に恋しているのなんて、本人から聞いてもいる上にバレバレだ。ミレイも見破っているだろう。それを利用するのだからひどい人だなあと思わないでもない。
だけど、それもまた一興と思ってしまう自分もまたひどいのかもしれない。
彼等のやりとりは、見ていて楽しい。
「それじゃあ、今日はかいさーん。また明日ね」
と、ミレイがまず席を立った。シャーリーは茶器を回収して洗い物を始め、それをルルーシュも手伝う。その後ろ姿をじっとスザクに見られているのは感じていたが、
「お似合いだねー」
などとリヴァルが言いつつ帰って行くものだから、慌てたらしいシャーリーが思わず手を滑らせて、危うくティーカップをひとつ割ってしまうところだった。
「もうっ、リヴァルってば」
文句を言っても、彼は既に扉の向こうだ。
「もういいぞ、シャーリー。後は乾かしておくだけだ」
「うん、そうだね。じゃあ、お疲れ様」
手をぬぐって、シャーリーも帰る準備をする。
「で、お前はこの後どうするんだ? 政庁に戻らなくてもいいのか?」
「うん、戻らなきゃいけないけど、そう急ぐ訳でもないんだ。ルルーシュは?」
「夕飯の支度までには帰らなきゃいけないけど、俺もそう急がないな」
「そう」
と、何故かスザクはひどく楽しげな表情で笑って席を立った。
そして、ルルーシュの元へ来る。
「どうした?」
「うん」
返事になっていない。
だけどそれ以上なにも言うつもりはないようで、まっすぐ自分の正面に立つと急に抱きしめられた。
「ス、スザク……?」
そして、いったん体を引き離すと唇にキスをぶつけられる。
本当にぶつけると言うような勢いだった。自分が動揺しているように、彼はひどく緊張しているようだった。
重ねられた唇は一旦離れ、そしてこんどはゆっくりと重ねられる。舌で唇の輪郭を辿られて、ひどくぞくぞくした。
「あのね、今日はキスの日なんだって」
「……え?」
「だから、キス」
ひどく近い場所でささやくように告げられ、そして再び唇を合わせられる。今度はとん、と唇をノックされて舌が滑り込んできた。
「……っ」
こんなキスをするのは、初めての事だった。動揺して動けなくなってしまう。スザクの舌が、無理にこわばったルルーシュの舌をなだめるように舐めて来た。
ゾクゾクとした感覚が体中に走る。思わずぶらさげたままでいた手をスザクに回し、制服をぎゅっと握った。それが満足だったのか、ほんの少しだけ笑いの気配が混じる。
ぴちゃり、と唾液の音をさせて口腔内でスザクの舌は好きに動き回った。歯列を舐められ、上顎を舐められる。
思わずからだがびくんと跳ねる。
「大丈夫だから」
「……っ、なに、が」
「好きだよ、ルルーシュ」
ささやきのような声がそそのかす。
今度はルルーシュが引き寄せられるようにスザクの口元へと近づいて行っていた。
長い長いキスだった。
外が朱色の色を失い、浅い蒼になるまでそのキスは続いた。
思い出すと、赤面する。
彼は自分に、確かに「好き」だと告げた。だが、どうなのだろう。
彼は自分の監視員だ。それ以前に自分を売った人間だ。そんな人間の言う言葉を信じられる筈がない。
なのに、それを信じたい気持ちがある。
監視カメラの死角を縫うようにして、寝返りを打つ。
じわじわと顔の温度が上がっていく。
あんな男のキスが嬉しかったなんて、自分はきっとどうかしている。
好きだという言葉が胸に響いて忘れられないなんて、バカだ。
なのに。
なのに――そう、信じたい気持ちが邪魔をして、ルルーシュは自分の腕に唇を落とした。
当然のようにそこはあの柔らかさはない。
心の奥底が震えるような気持ちになって、ぎゅっとルルーシュは目を強く閉じた。