ズボンをはいて、最近ちょっと太ったかな、と虎徹は思う。
ぴったりジャストサイズだったそれが最近少々きゅうくつだからだ。
中年に入るというのはこういう事なのだろうか? 体は鍛えているつもりだ。体脂肪率も大して変わっていない。その分、腹周りに気を配るのを忘れていた。
「いやだねえ……」
別に若いってだけが魅力ではない。特に男性では、年を経た方が味が出る。若造なんかに負けてられるかと、今朝も気合いを入れた。
頬をぱんっ、と叩くと目が冴える。
「よし、今日も一日頑張りましょうかね」
今日はヒーロースーツの強度実験が入っていた筈だった。もちろん緊急招集が掛かればそちらが優先されるが、あまりあって欲しいものでもない。街は平和に越した事がないからだ。
いつも通りのストリートを歩き、ぐるっと大回りになるメトロに乗って会社の最寄り駅へ到着する。
こういう時、バーナビーのようにバイクなり車なりを持っていればいいのだろうなと思いはするが、置く場所もなければ、はい、買いましょと言える程の稼ぎがない。切ない話だ。
「こんだけ頑張ってんだけどなー」
同じように通勤していく人波に流されながら、虎徹は毎朝到着する目的のビルに到着した。
会社の持ちビルだ。そうと分かる筈はないのだが、ヒーローとばれるんじゃないかといつもこの扉をくぐるときにはドキドキする。
「おはようございます」
受付嬢の挨拶をにこやかに返し、エレベーターに乗って自分のフロアまで一直線に向かった。
ギリギリだが、まだ遅刻ではない。そんな時刻だ。
きっとまたバーナビーが苦い顔をして、時間に余裕を持つよう説教するのだろう。ならば迎えに来いと言った事もあったが、軽くあしらわれてしまった。
そう思いながらフロアに足を踏み入れて、あれ? と思った。
そのバーナビーがいないからだ。
「あれ? バニーちゃんは?」
「事情があって、一時間ほど遅れるそうですよ。――おはようございます」
「あ、おはよ。そう。なんだろう、事情って。珍しいなあ」
自分の席に腰掛けて、横の空白を見る。
なんとも珍しい光景だ。
「さあ……。何故、とは言ってませんでしたから」
「そう。まあ、本人から直截聞くわ」
「そうしてください」
まだ始業前だと言うのにデスクワークに励む女史は、このフロアのチーフだ。
自分達のようなヒーローを管理する一番身近な立場にある。もっとも、権力を持っているのはロイズなのだが。
文句が聞けなくて、ちょっとばかり拍子抜けしたのと同時に、物足りなさを感じたのは、内緒の話だ。
そのバーナビーは予告通り、一時間を過ぎるちょっと手前でいつもの調子でやってきた。
「よ、おはようさん」
「おはようございます。――今日はすいませんでした、無理を言って」
後半は女史へ向けてのものだ。
「いいえ、構わないですよ。まだ緊急招集も掛かってませんし、スーツ実験も始まっていません」
「そうですか、良かった」
と、隣の席に彼は座った。
途端、なんとなく虎徹は安定したものを感じた。
慣れってのは怖いものだと思う。空間に対してすら、違和を感じれば落ち着きがなくなるのだから。
「バニーちゃん、なんだったんだ?」
「私用です」
ぱし、っと冷たく遮られる。だがもちろんその程度で引き下がる虎徹ではない。
そうでなくては、彼のパートナーなど勤められない。
「その私用ってのが、なんだったんだ?」
「おじさんには関係ありませんよ」
「関係なくったって知りたいのが人の心情ってもんじゃね?」
「そういうのは単なる好奇心と言うんです――失礼」
立ち上がって、遅刻に対する書面を書き上げた彼は女史に手渡しはんこをもらっていた。
「好奇心でもなんでもいいからさー。なんだったの? おじさん知りたいなー」
「しつこい中年なんて救いようもありませんよ」
「あ、ひどい! 傷つく!」
今朝、中年かもと自覚したばかりなのだ。傷を抉られた気分になり、つい過剰に反応してしまった。それが面白かったのだろうか。彼は口の端をほんのちょっとだけ、引き上げた。笑いの表情だ。
「野暮用ですよ」
「野暮ってどんくらい野暮?」
「人様にお話するのが面倒なくらい野暮です」
「じゃあ、ちょっとくらい面倒省いて喋ってみようよ」
「面倒です」
食い下がっても、なかなか落ちない。頑固なヤツだと思いながらも諦めて、仕事に戻ろうとした時だった。
「墓参りですよ。――両親の。今日は命日ですから」
と、彼はぽつりと言った。
なんでもない顔をして、なんでもない声のトーンで。
「お前……」
思わず仕事に戻りかけた手が止まる。バーナビーの方を、自分は見た。
「そういうのは野暮用とか面倒とかって言うもんじゃないだろ」
「でも、私用ですよ。単なる」
あっさり言ってのける彼は、いつも通り過ぎて不思議だった。
ウロボロスが現れた時にあれほど激高していた人間だとは思えない。
「今日」
「はい?」
「帰り、連れてってくれ」
「なんでですか?」
「俺もお前の両親に手を合わせたいからだ」
「……なんの為に」
「必ず仇は息子さんに取らせます、と誓ってくる」
「……!」
がば、と彼は顔を上げた。いつもの無表情ではない。生気の宿る、いや、宿り過ぎた顔だ。
そうだ、こういう顔をしなくてはならないのだ。
彼は氷のように感情を覆い隠す癖がある。それはきっと眼前で行われただろう両親の殺害からの自己防衛から発したものなのだろうが、虎徹としてはそれを崩したくて仕方がなかった。
あの感情の発露も、マイナス方向ではあったが、良い傾向だと思ったのだ。
だからその視線も甘んじて受け入れた。
「あなたなんかに言われたくない」
「でも、俺はお前の相棒だ。いざとなったときサポートに回るのは、お前がいくら嫌がろうと俺なんだよ」
「………」
きっ、とにらみつけてくるような視線の真ん中が、少しだけ揺れる。
ああ、泣くかなと思ったが、そんな事はなかった。
再び、表情は元に戻ってしまったからだ。
「案内はしませんよ。行きたいなら勝手にどうぞ。僕には無関係な話です」
「え、関係あるじゃん! お前の父ちゃんと母ちゃんの事だろ?」
「それでも、これは個人的なものであって、あなたが関わる必要のないことです」
「ヒーローってのはな、弱ってるヤツ見ると助けるのが仕事なんだ」
「何を…言ってるんですか……」
声がかすかに震えていた。
感情を揺らす事に、どうやら成功したらしい。
「今のお前は、ヒーローじゃなくて助けられる側だってことだよ」
「………そんなこと、ないです」
それだけ言うと、彼は再びデスクへ向かった。そして書類を取り出し紙仕事に入り始める。
「ま、気長に行くけどさ」
と小さく呟き、虎徹は書類に目を走らせるバーナビーをちらりと見遣った。
彼は、必死でそこへ逃げているようにも見えた。
だが、逃げれる場所があるのならばまだ大丈夫だろう。
自分も書類を取り出し、書類仕事に入る事とした。
午後からは、スーツの実験が入っている。
それまでに片付けておきたい始末書や、請求書の束はいくらでもあった。