少し肌寒くも感じる五月の晴れた日だった。
今日は一日デスクワーク。いつ緊急招集が掛かるかは神のみぞ知るだが、まだ日のある内に家に帰れるのは少しばかり嬉しくもある。
虎徹は軽くステップでも踏みそうなテンションで帰路についていた。
今日はバーナビーが休みだったのだ。もちろん、緊急招集が掛かれば出動してくるが、会社自体は欠席。何があったのかは知らないが、今日は非常にのびのび出来た。たまっている書類に無理に向かう必要もなく、ぼんやりと一日を休暇のように過ごせたのだ。
こんな幸せな日はないだろう。
まあ、あの声が聞こえなくて文句も嫌味も言われないと言うのは少々物足りなく感じていたのだが、それを差し引いても今日は良く晴れているし、明日になれば嫌でもまたバーナビーと顔をつきあわせる事になる。
なにせ相棒だ。
一緒にいて当然の存在なのだから、今日が少しばかりイレギュラーだっただけの話だった。
だが、もうすぐ家が見えるなと思った瞬間に、見慣れたバイクが通り過ぎて行くのが見えた。
「あれ? バニーじゃん」
サイドカー付きのバイクなんてそうそうある物ではない。見慣れた塗装と、見慣れた服装。あっと言う間に抜き去られてしまうのだが、しっかりと目に焼き付いてしまった。
「どうしたんだ? こんなところになんか用か?」
バーナビーが住むのは虎徹とは違い高級住宅地だ。小さなアパートメントが密集しているこの付近には知り合いすらもいないだろう。――自分を除いて。
そこで、はっと気がついて駆け足になった。
もしや自分を訪ねて来たのかもしれないと思ったのだ。
何故かは分からない。自分達は相棒とは言え、余り相性のよろしくないコンビだったからだ。だから個人的に会うなんて事はしなかったし、仕事の後に飲みに誘っても乗ってこない、言ってみれば冷めた関係だった。
だから自分のところへなど来るはずはないんだけれどもな……とは思いながら、それでも気になって角を曲がる。
果たして、バーナビーのバイクは自宅の前に止められていた。
「どうしたんだ、バニー。今日は休みじゃなかったのか?」
「ああ、おじさん。案の定早かったんですね」
「残業はしない主義だ」
「しないと仕事は溜まっていく一方ですよ。僕、手伝いませんからね」
ひんやりした言い方に、何故か安心感を覚える。あー、これがなきゃやっぱダメだねーなどと、すっかり彼の存在に慣れてしまった虎徹は自虐的に考えた。
「で? 俺になんか用?」
「いえ。別に……」
「別にって訳がないだろ、こんなところまで来ておいて。部屋、上がるか?」
「いいんですか?」
「散らかってるけど、それでも良ければ」
「片付いてるおじさんの部屋なんて想像出来ませんよ、それじゃあ」
と、バーナビーはバイクを降りる。本当についてくるようだった。
珍しい事もあるもんだと思いながら、自宅の鍵を開ける。
「その鍵、早めに取り替えた方がいいですよ」
「え?」
「合い鍵が作りやすいんです。強盗に遭いたくなければ、早急に取り替えるのをお勧めします」
「へえ……でもなあ。鍵替えるとなると大家さんに連絡しねーといけないからなあ。面倒だし、いいや」
がちゃり、と反応があって鍵が外れる。
「どうぞ、我が家へ」
「おじゃまします」
「ま、ごらんの通り盗まれても困るようなもんないし」
と、虎徹は広くもない部屋をぐるりと見せる。
ベッドとソファセット、テレビと簡易キッチン。それだけの空間だ。
ひとりで暮らすにはちょうどいい。一度行った事のあるバーナビーの部屋は広すぎた。ひとりでは持て余してしまう。それとも、そういう場所で暮らし慣れている人間にとってはあれが標準なのだろうか?
「これ、家族写真ですか?」
「え? ああ、そうそう。娘可愛いだろ。楓ってんだ。こないだお前さんに助けられて、すっかりお前のファンになっちまった。俺が助けるつもりだったのに」
「そんな事言って。自分がヒーローだとは娘さんにもバラしてないんでしょう?」
「あ、分かった?」
「あなたがそういう事を言うタイプには思えないので。娘さんを心配させたりもしないでしょうし」
「おー、珍しく褒めるね。何かあるの?」
「褒めてませんよ。それに何もありません」
「あ、そ」
そして、ここで虎徹は悩む。バーナビーはバイクで来ている。まさか酒を飲ます訳にはいかないのだが、自分は今、とてもビールが飲みたい。
彼にだけコーヒーを出して自分だけビールを飲むというのはアリだろうか?
うーんとキッチンで悩んでいると、バーナビーがやってきた。
「何をしてるんですか?」
「うおあっと」
「驚きすぎですよ」
苦笑を浮かべられた。珍しい表情だ。ただの営業用スマイルでもなく、無表情でもなく、嫌味を言う時のしかめっつらでもない。非常にナチュラルな表情だった。
「お前、そういう顔も出来んのね」
「何がですか?」
「いや、自覚ねえんならいいよ。で、何飲む?」
「おじさんは何を飲む気だったんですか?」
「俺はビールが飲みたくて飲みたくて仕方ないんだが、お前バイクだろ? だから困ってたトコ」
「ああ。……構いませんよ、ビールで」
「え? ヒーロー自ら飲酒運転?!」
「しませんよ」
「泊めねーぞ」
「泊まりません。バイクを置いて、メトロで帰ります」
「ああ、その手があったか」
「その代わり明日はおじさんがバイクで通勤してくださいね」
「え、無理無理。サイドカー付きなんて運転したことねーもん」
「普通のバイクと同じです」
と、冷蔵庫から冷えたビールを受け取り、彼はソファへと戻っていった。
自分も一本取り出して、向かいになるソファに座る。
「で、どういう風の吹き回し? うちに来るなんてお前初めてじゃねーか」
「ちょっとそんな気分になっただけです」
「ふうん。今日の休みと関係あったりして」
「黙秘します」
「あ、可愛くねえ!」
ぷしゅっ、とプルトップを開けば泡が少しだけ出て来る。
ようやくありつけた冷たいビールは喉にシビレをもたらすようにひどく旨かった。
バーナビーも旨そうに飲んでいる。少し肌寒い日だが、こういう日でもビールは格別に旨いのだ。
もう少しすれば暑い季節になる。そうなれば、もっと旨く感じる事だろう。
虎徹はビールをこよなく愛していた。
「可愛くなくて結構ですよ」
本当に可愛げなく言って、また喉を鳴らす。
「あ、そうだ。今日キスの日だって知ってる?」
「それが?」
「知らないの?」
「知ってても関係なさそうだから、問題ありませんが」
「あ、そうなの。面白みないな……」
と思った瞬間にひらめいた。
間に挟まったテーブルに手を付き、身を乗り出す。急な動きにバーナビーは驚いたようだが身動きはしなかった。
「えいっ」
と。
少し遠かったけれども逃げなかった体を捕まえ、キスをする。
さすがにこれには驚いたようだった。目を見開いたまま、動きがフリーズする。
「あれ? ちょっと刺激が強すぎちゃった?」
ぷちゅり、と柔らかな感触は気持ち良かった。別に酔っていた訳ではない。飲んでる場で男同士のキスなんて、学生時代に洒落で何度もした事があったから、抵抗がなかっただけの事だ。
だがバーナビーに取っては違ったらしい。まだフリーズしている。
その姿が妙に可愛かったので、今一度キスを試みた。
今度はゆっくり唇を合わせて、軽く目を閉じて見る。
つられたように同じく目を伏せて行くバーナビーのまぶたがちらりと見えた。
――防御、弱すぎ。
こういう事に慣れていないのだろうか? まさかこの面で女性経験がありませんなどとは言わせない。だが、妙に素直過ぎて、今度は虎徹は困ってきた。
このキスをどうしたらいいだろう。
うーん、と悩んだ挙げ句に先に発展させる事にした。毒を喰らわば皿までだ。
舌先で彼の唇の輪郭を辿り、隙間を見つけて潜り込む。捕まえた腕がぴくりと動いた気がしたが、気にせず先を進める。
舌先で、閉じられた歯列を舐めた。つるりとしていて気持ちが良い。
そして、一度口づけを解くとテーブルの上に完全に身を預け、バーナビーの顎を持ち本格的なキスをした。
彼はまだ目を伏せたままだ。
わずかにぴくぴくと動くまぶたが、そのまま鬱金の色をした睫まで震わせて、一瞬ドキリとした。
緊張に縮こまった舌を自分の舌で丹念に辿り、ほぐしてゆく。舌先で柔らかく側面を舐めると、小さく喉奥でバーナビーが声を上げた。
ゾクゾクとする感覚がする。まるでセックスをしているかのようだ。ただのキスなのに、これだけで勃ってしまいそうになる。
「バニー?」
「………おじ、さん」
テーブルから降りて、バーナビーの隣へ虎徹は座った。くったりと力の抜けた彼はそのまま体重を自分に預けてくる。なんだこの可愛い生き物はと逆に虎徹が動揺した。
「なんだ、お前弱ってる?」
「そんな訳……ないですよ」
「そうか?」
髪に手を入れ、撫でると気持ちが良かった。幼いころの楓にしてやってるみたいだなと思ったが、間違っても楓にはあんなキスはしない。
横から抱き寄せるようにすれば、バーナビーは素直に従ってくる。まさか一本にも満たないビールで酔う筈がないだろう。これは弱った生き物だと判断する。
弱味につけ込んでしまったようで、若干申し訳ない気分になる。それとも、キスひとつでこんなにぐずぐずに溶けてしまったのだろうか? まさか。
もう一度あの感触が味わいたくて、顎に手を掛けると自分からバーナビーは顔を上げて来た。
薄く目は開いているものの、うっすら涙の膜のようなものが掛かっている。
目に毒だと思った。間違ってもそっち方面に進む気はないのに、その気になってしまいそうになる。
くそ、と思いながらやけくそな気分でキスをした。
最初から深いキスになった。今度はやり方が分かったのか思い出したのか、積極的にバーナビーも舌を使ってくる。絡めるようなキスに、こちらもその気になってしまいそうになった。
完全に、勃ってしまっている。隠しようがない。
でも、このキスをやめる気にはなれなかった。
そしてそれ以上も、今は進める気にはなれなかった。
「……んっ」
絡められた舌を自分の口腔に導き、強く吸う。
彼の舌はくにゃりとしていて、あの毒舌が吐き出されるものだとは到底思えなかった。
「で、今日のお休みの理由は?」
「両親の……」
そこまで聞いて、ストップを掛けた。彼の両親が殺された事は知っている。その命日か、記念日かのどちらかだったのだろう。
やはり弱ってたんじゃないかと思う。つけ込んだ自分は、悪い大人だ。
全てを語らせるのは酷に思えたので、ビールを新しく持って来た。
「ま、飲もうぜ。まだまだあるから。なんだったら泊まってけばいい」
「さっきと言ってた事が違うじゃないですか」
不自然なくらい、さっきのキスについてはふたりとも触れなかった。
そのままビールを散々かっくらい、つまみもナシに飲み続けたふたりは日が暮れて、まだ眠るには早いだろうと言う時間には眠りに就いてしまっていた。
大きく息を吐き出して、バーナビーはソファで不自然な恰好をして眠っている虎徹を見る。
「おじさん」
小さな声で呼びかけても、さんざんに酔っぱらってしまった虎徹は起きない。
それを確認して、自分から小さなキスを落とした。
日が変わる、直前の出来事だった。