ひどい雨の日だった。
傘なんてなんの役にも立たない、そんな横殴りの雨。
ずぶ濡れになりながら、虎徹は帰路を急いでいた。今日はこんな天候だと言うのに細かい事件が頻発して疲れていたのに、この状態だ。早く風呂に入って眠ってしまいたいのが本音だった。
だが、同じように疲れていたバーナビーの事を思い出す。
彼も珍しく疲弊しているようだった。彼らしくもなく、最後の帰投の後、シャワールームでしばらく放心していた程なのだ。
あまりにも長く出てこないので心配になって覗けば、ぼんやりと中空を見ている彼がいて、声を掛けてやらねばならない程だった。
彼は有能すぎるヒーローだったが、しかし新人だった。うっかりそれを忘れそうになる。
彼があまりにも普通に事件をこなしていくものだから、気配りを忘れてしまうのだ。
大丈夫か、と声を掛ければ「ええ」と、ぼんやりとした声が返ってきていたが、あの様子で帰り着いていることは出来ているのだろうか。
不意に気になって、携帯を取り出す。しかし、しまったと思う。彼の番号は登録されていない。相棒だというのに彼のプライベートは知らないままなのだ。
あーあともう諦めて、傘を閉じた。ここまでずぶ濡れになってしまえば、傘なんてもう邪魔な代物でしかなかった。風だって強い。歩くのに邪魔だ。
思わず横殴りの雨にそのまま晒された状態で、虎徹は立ちつくす。
どうしよう、と思った。
バーナビーの事が気に掛かって仕方がなかったのだ。しかしこんなずぶ濡れでメトロに乗るのは失礼に過ぎる。一度家に戻ってから、車で出ようと思った。幸いにも彼の住所は知っていた。
家に到着しても出迎えてくれる者などいない。
当然ずぶぬれのまま、部屋に入る事になる。絨毯敷きの部屋がこういう時には恨めしくもあった。
歩いた後が、そのまま残る。じっとり水気を含んだそこは後で叩き拭きをしておかなければ湿気て大変な事になるだろう。でも、取りあえずはまず自分の体をぬぐうことだ。そうしなければ、被害は拡大していく一方になる。
脱衣所まで行き、下着までぐっしょり濡れた状態なのを脱ぎ捨て、そのままランドリーへ入れる。
そして自分はシャワーを浴びる事にした。
本当はゆっくり風呂につかって暖まりたい所だったが、それよりも気に掛かる事があったので、手早く済ませたかったのだ。
ついでに全身を洗い、頭までも洗う。
少し伸び始めた髪が、うなじに掛かって冷たい。
だが、暖かな湯に晒されているうちに、なんとなくまあいいかと言う気分になれたので、浴室を出た。新しい服を出して、着替え直す。
髪はわしわしとタオルドライだけで済ませ、どうせ濡れてかぶれない帽子は乾くようにと壁に引っかけておく。その下にタオルを敷いて置くのも忘れない。地味に所帯じみてしまったなあと思ったが、それも仕方ないだろう。ひとり暮らしを始めて、もう五年以上になる。
そして再び豪雨の中へ飛び出し、自分の車へ飛び乗った。
さすがに少しは濡れたが、帰る前より随分マシだ。
なにより、体が温まってくれている。それが大きく違った。
降り注ぐ雨は体温すらも奪って行ってしまっていたのだから。
エンジンを掛け、そのまま覚えている番地をナビに告げる。その道案内に従って、高級住宅街へと向かった。
天をつんざくような高層マンションの建ち並ぶ一角に出る。
「おいおい、あいつどこからこんなトコ住む金出してんだよ」
と、薄給の身をなげいてみる。だが彼とて同じ給料の筈だ。
元々が資産家だったのだと思い出して、まあ、それはそれで空しくもあるなと思いながらナビの告げるマンションの地下駐車場へと車を乗り入れた。
何の連絡も入れてない。と、言うか入れる手段がなかった。
果たして彼はもう帰っているだろうか? いつも乗っているバイクは見当たらなかったが、この豪雨の中バイクで帰ろうとするのが無謀だろう。彼もメトロを使っている筈だ。
入り口にはしっかり認証キーが付いていたので、そこでようやく彼へとコンタクトを取る事が出来た。
『はい…?』
彼の声は訝しげだった。それはそうだろう、この天候の中、この時間だ。
「俺。入れて?」
『………俺なんて方には覚えがありませんが』
声ががらりと変わった。思わず笑いが漏れてくるのを止められない。
「なーなー、バニー。せっかくここまで来たんだから入れてくれよ」
『なんの為にこんな所まで来たんですか、こんな日に』
「いや、なんつーか。ちょっとした気紛れ?」
『こんな日にバカな気紛れ起こさないで下さい』
がちゃり、と通話が切られる。
あーあ、空振ったかと思った瞬間、隣の自動ドアが開いた。
全く、素直じゃない。
だが、そこが可愛らしい。やはり笑いは止められそうになかった。
そのままエレベータを上がって、目的の階に到着する。
部屋の鍵は開いていた。来るのを見越して、開けていたのだろう。
素直なんだか素直じゃないんだか、本当に良く分からない人間だ、彼は。
「おじゃましまーす」
「こんな夜に、気紛れでいい迷惑です」
「そう? こんな夜だからこそひとりなんて嫌なんじゃなくね?」
「それはあなたの価値観でしょう?」
と、タオルを投げられる。
「濡れてねえよ」
「あ、服……変わってますね」
「家帰って着替えた。でもって出直して来た」
どうだ、と言わんばかりに言ってやったが、彼の反応は微妙だった。
と、言うか狼狽えているようにも見える。
「何故、そこまでして?」
「だから気紛れだって言ってるだろう。なあ、飲もうぜ」
「今日は疲れてるんです、休みませんか?」
「だからこそ飲むんじゃねーの。分かってないな、若造」
「ええ、おじさんの考えなんて僕にはさっぱり」
投げ返されたタオルを持って、彼はそのまま部屋の中へ入って行く。
それに虎徹は付いていった。
何もない、がらんとした部屋だった。
「寂しい部屋に住んでるな、おい」
「これが普通なんです、僕には」
ふうん、と言うに留め、壁の大型スクリーンには目を輝かせる。
こういうものにいつまでも興味を引かれるのが男と言う物だ。
「いいものあるな……へえ、この壁一面かあ」
「白でいいですか? それとも赤? ブランデーもありますが」
「ああ、何でもお任せ」
壁のスクリーンに虎徹は目が釘付けだ。それを笑われた気配を感じたが、それでも構わなかった。それに彼は素直に酒の準備を始めている。
本当に、良く分からない存在だ。
ただ、たまらなく気に掛かる。
「それ、見たかったら好きにしていいですよ」
と、リモコンを投げられる。上手くキャッチして、取りあえずTVを選んで選局した。
ちょうどニュースショウがやっていて、今日のヒーローの活躍を取り上げていた。
「お、これ俺たちの事だぞ」
「そんな事でいちいち盛り上がらないでください」
ことり、と床にワインのボトルとグラスが置かれる。深い色をした赤のボトルだった。それと、皿が二枚。
器用にもつまみを準備していたらしい、この短い時間で。
ありがたくいただく事にした。
「乾杯」
「何にですか?」
「……さあ、この豪雨にかなあ」
大きな窓は大粒の雨を先ほどから豪快に跳ね返している。
「お陰でひどく疲れましたよ……晴れてれば簡単に終わった事件ばかりだったのに」
「それでも結構あっさりしたもんだったじゃねーか」
「そうですけど」
くい、と彼は豪雨に乾杯した赤ワインを口に運ぶ。
そのまま色素が唇に残り、妙になまめかしく見えた。
はあ、とようやく疲労を露わにし、床に座った足を崩した。
「疲れたか」
「いいえ」
「今疲れたっつっただろ」
「おじさんこそ。堪えたんじゃないですか?」
「ああ、堪えたね。さすがに」
グラスを傾けながら、うなだれた風にも見える彼の姿を見遣る。
テレビなどもうどうでも良かった。
「そうやって強がってばっかで生きてきたのかねえ」
「……何がですか?」
背中を丸め、グラスを口に運ぶ。この姿は滅多に見れないバーナビーの素顔だ。
「いんや、お前さんの事」
疲れた姿を全面に出す、その姿で疲れてないと言い張るのは目に辛い。
「だから、疲れてませんって」
「そうか?」
嘆息し、グラスに酒を注ぎ足すついでに彼の傍へと場所を移動した。
別段彼は気にした風はなかった。やはり疲れが体を蝕んでいるのだ。そうでなければ、こんな不自然な移動に突っ込みを入れない筈がない。
こくりと一口飲み干した後で、グラスを床に置く。
そしてゆっくりと腕をバーナビーの肩に回した。
彼の体は随分冷えているようだった。シャワーは浴びたのだろう、髪は湿気ている。だが、薄いシャツ一枚ではこの広すぎる空間の空気に体温を奪われる一方のようだった。
「どうしたんです、この手」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで肩を抱くなんて、いやらしい人ですね」
「おいおい、相棒だろ。これくらいいいじゃん」
思わず笑い、言うと彼は頭を上げて、まっすぐに自分を見て来た。
「疲れた、と言えば休めるんですか?」
「………どうした、バニー」
「認めたら、安らかになれるんでしょうか」
まっすぐな視線はゆらぎなく、自分の瞳を捕らえる。
レンズ越しの視線はどこか不安な色を湛えているようにも見えた。
「それくらい、自分に許してやれよ」
柔らかな声で伝えると、彼の目は途端にゆらいだ。
「――疲れました」
小さな声だった。
だけど、何故か深く響く声だった。
重い声だったのかもしれない。
今日一日の事ではない。これまでの人生全ての疲れを今、彼は吐き出そうとしている。
ぽんぽん、と肩を叩いてやった。
それだけで崩れそうになる彼がかわいそうでたまらなくなった。
胸の深い場所が、ずしりと重くなったのを感じる。
「疲れました、おじさん」
その言葉が、SOSに聞こえた。
肩を再び抱きしめてやる。そして、そのまま体ごと抱きしめてやった。
「………僕を愛してくれますか?」
その言葉は、僕を助けてくれますか、と響いた。
「ああ」
抱きしめたまま、低い声でささやいた。
「愛してやるよ、バニー」
ギリギリの救いの言葉を求める彼は、やはりかわいそうで、出来るのなら今すぐにでも助けてあげたかった。