ぎしり、とベッドをきしませて上半身を起こす。
「……う」
思わず声が漏れた。腰が痛い。
自分のベッドとは違った。狭いシングルの隅っこだ。傍らには相棒が寝ている。お互い、素っ裸のままだった。
彼と関係を持ちだして、しばらくになる。まさかこんな事になるとは自分でも思っていなかったが、案外しっくり来てしまうのが不思議だった。それに、彼と一緒に寝た後は悪夢を見ない。
それは泥のように疲れ果てるまでお互いを求めてしまうせいかもしれなかったし、狭いベッドだからこそ、寄り添う体温がそこにあるせいかもしれなかった。
いずれにせよ、今の自分はかなりの部分をこの相棒――虎徹に持って行かれてしまっている。
その現状は余り気持ちの良いものではなかった。
眼鏡を掛け、髪を掻き上げる。
無茶をされた記憶はある。喉がいがらっぽいのは、喘ぎを上げすぎたからだし、腰が痛いのも一度で済まない交接の為だ。
だが、それは彼だけのせいじゃない。自分だって求めた結果だ。
だから悪態を吐く訳にはいかない。
それでもこちらばかりがいつもダメージを負った朝を迎えるのには、どこか悔しい思いがする。
肝心の虎徹はまだ夢の中のようだった。
傍らの温度が離れたせいだろうか、手が少しさまようようにして、自分の温度を探している。
「――しょうがない人だな」
その動きは見ていて気の悪いものではなかった。
だから、うろうろとさまよっている手を握ってあげる。
そしてその手を取り、甲の部分にキスをした。
「早く起きないと、遅刻ですよおじさん」
到底起こす為の言葉とは思えないボリュームで告げ、自分はベッドから降りる。シャワーを浴びたかったのだ。昨日は意識を飛ばすまで交わったせいで、体中がべたべただった。
「おい、なんで起こさないんだよバニー」
バタバタと浴室に彼が飛び込んで来たとき、自分はもう上がる準備を始めていた頃だった。
「起こしましたよ」
明るい場所で全裸を見られるのにも、慣れた。恥ずかしいと言う気持ちは存在するが、それを黙殺することが出来る。何よりそれで取り乱す事で彼が調子に乗るのが嫌なのだ。
「嘘つけ、どうせ小声で『おきてください』くらいだろ、お前の起こしたは」
「さあ、どうでしょうね。まあおじさんは良く寝てましたが」
「――………」
苦虫をかみつぶしたような顔で自分を見て来るが、そこに少しの甘さが滲むのが好きだ。
彼のそういう行動の変化を確認するたび、心のどこかが弾むように喜ぶ。
「交代しましょうか。もっとも急がなければ遅刻ですけど」
「だーかーら、起こせっての」
「嫌ですよ、浴室はひとつしかないんです」
「一緒に入ればいいだろ」
「それこそ嫌です。何をされるか分かったもんじゃない」
「夜じゃねえから何もしないよ、時間もあるんだから」
深夜、浴室で交わった事も数える程だがあった。それを思い出し、つい口にしてしまったがその時の記憶が思い起こされて、頬に血が昇る。
もっともシャワーを浴び、暖まった後だ。虎徹にはばれないだろう。
「まあ、そうですね。その程度の節度は持ってますよね」
「ああ、もうっ。分かったから交代!」
ぱしん、と無理に手を叩かれ、追い出されてしまった。
色気もなにもない朝だ。
そのことに笑えてしまう。
やっぱり彼で良かった――などと、思ってしまうのは、こんな時だった。
情は深い。だが、過剰にそれを押しつけない。そんな関係が好きだった。だからバーナビーは虎徹の手を取って、ベッドに乗ったのだ。
体をぬぐっていると、閉じられた扉の向こうから水音が聞こえ出した。
急いでいるのだろう、ばしゃばしゃと跳ねる音がする。
時計を見れば、自分もそうのんびりしていられる時間でもなかった。まさか濡れ髪で出社する訳には行くまい。
ドライヤーを借り、自分の頭をセットする。
その間に虎徹は浴室から出て来たかと思うと、自分の背後に立った。鏡越しに目が合う。
彼は、瞬間にたりと笑った。
「なっ、もう!」
「おはようのハグ」
「最低です! 体拭いたばかりなのに!」
彼はずぶぬれのままだった。せっかく拭った水気がまた背後にべたりと張り付く。
「お前だって遅刻すればいい!」
「知りませんよ、起きなかったおじさんが悪いんじゃないですか」
「普通恋人を放ってベッドから出てくか? 寂しいだろうが目が覚めた時!」
むっとした顔が鏡に映っていた。自分を見てはいなかった。彼の素の表情だ、自分に向けて作られたものではない。
「………そんなの、知りませんよ」
「知らない、じゃねぇだろ。だったらお前も一度体験してみろってんだ」
ドライヤーをひょいと取り上げられ、後ろ髪に熱風が当てられる。
優しい手が、髪を乾かし始める。
「そんなの、おじさんが早起きすればいいだけの話じゃないですか」
「だからお前が起こせって言ってるの。そしたらふたり仲良く起きれるだろ?」
「起こしたって言ってるじゃないですか」
「もっとちゃんと起こせ」
ぶーぶーと文句を言う割に、手つきは丁寧だった。やがてふんわりとした髪がうなじに当たり、髪が乾き切った事を知る。そのままドライヤーは電源を切られず、虎徹の髪へと熱風を向け始めた。
「じゃあ、今度は起こしますよ」
「絶対だぞ?」
「分かりました。朝からこんな嫌がらせを受けるのは、最悪ですから」
と、自分の背中の水気を拭う。そして、髪を乾かすだけで手一杯の虎徹の体も拭いてやった。
「お、サンキュ」
「いいえ」
ふふん、と鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の顔になった。この人は全く分かりやすい。
ふたり分の水気を吸ったタオルをランドリーへ投げ入れ、バーナビーは慣れたキッチンへ向かう。この家にはインスタントしかないが、朝のコーヒーを飲むくらいの時間はある。
自分はブラックで、虎徹の分にはミルクだけを足してふたり分を用意すると、ようやく自分がまだ素っ裸な事に思い当たった。
――なにやってるんだ。
どうやら、浮かれていたのは彼だけではなかったらしい。
マグカップをテーブルの上に置き、急ぎ衣服を身に付けて行く。
彼が当たり前のように髪を乾かしてくれた事が嬉しかった。
優しい手の動きが嬉しかった。
好きだ、と思う。
そんな感情はコントロール出来ないから好きではないのに、だからこそ制御なんて出来ない。
ソファに座ってコーヒーを飲みながら、きゅっとカーゴパンツの腿の部分を掴んでいた。
まだこの部屋には濃厚に情交を交わした痕跡が残っている。自分の座るソファからベッドは丸見え、乱れたそこが目に悪い。
だが直しに行くのも、それもなんだか違うような気がして目をそらした。
そこにあるのは、家族の写真だ。
可愛い子供を抱く幸せな一家の写真。
あの優しい手は、子供を抱き、妻を抱き、同じように髪を乾かしてあげたのだろうか?
カーゴパンツを握る手の力が、ほんの少し強まった。
馬鹿な事を考えている。過去の事を詮索しても、意味はない。どうせもう彼女はいない。
自分にだって過去、女性遍歴がなかった訳ではない。それと同じ事だ。
再び乱れたベッドを見た。
今、彼が見ているのは自分だけだと再認識する。
昨夜の甘い声を覚えている。
追い立てるように動く彼の体も、突き上げられ、感じてしまい吐精した瞬間の快楽も。
熱も温度も全て覚えている。
意識を飛ばす寸前、自分たちは確か手を繋いでいたのに、目を覚ますとその手は解かれていた。
きっと寝ている間にほどけてしまったのだろうが、それを残念に感じた。
いつの間にか随分強い力で握っていたカーゴパンツを掴む手を、解く。手のひらを、見る。
「あ、サンキュ。俺のも入れといてくれたんだな」
「冷めてますよ、きっと」
「……何赤くなってんの、バニーちゃん。なんかやらしい事思い出してた?」
「ちっ、違います!」
反射的に答えたが、彼はにやにやしたままだった。
にらみつけたが、いたたまれない気持ちが勝る。
徐々に視線が下がって行き、しわくちゃになったパンツの生地を見る。
「本気で思い出してた? 耳まで真っ赤」
「……っ、もう行きます!」
「あ、待って待って、バニー。俺も一緒に出るから」
「知りません! 勝手にひとりでメトロででも乗ってください!」
「ひどいよバニーちゃん、待ってって」
ずかずかと大股で歩けば、狭い部屋だ。すぐに入り口に着く。
そこで肩を掴まれ、耳元にキスされる。
「な……っ」
「おはよう、バニー」
「なに……」
「まだ言ってなかったよな?」
彼は邪気もなくにっこり笑うので、バーナビーはもうどこで怒ればいいのか分からなくなっていた。
再び、カーゴパンツの同じような場所を手が握っていた。
この熱はどこへ逃がせばいいのだろう?