top ◎  about   text
文字サイズ変更:


Surrendered to the impulse 衝動に身を任せた


 携帯のコールが鳴った。時刻はもう深夜になろうとしている、虎徹ももう寝ようかと準備を始めていた頃だった。
 手に取れば、珍しい名前が表示されている。
 思わず動転したが、コール音は既に五回を数えようとしていた。慌てて、受信ボタンを押し耳に押し当てる。
「どうした、こんな時間に」
 相手はバーナビーだった。普段だって滅多に携帯で連絡を取らない。
 仕事上番号は交換してあったが、こちらからたまに掛けるだけで、思い返せば彼からの着信など一度もなかったような気がした。
 それが、こんな時間のコールだ。何事だと思って当然だろう。
「おい、バニー?」
 返事がない事に焦れて、今一度呼びかける。
『おじさん?』
「ああ、そうだけど。どうしたんだこんな時間に。珍しいなあ」
『ああ……すいません、もう寝てましたか?』
「いや、起きてた。まあパジャマには着替えたけどな」
『そうですか。じゃあ、まあいいです』
「待て待て。お前からの電話なんて珍しいんだ。ちょっとは話しようぜ、何の用だったんだ?」
 そこで、虎徹は寝るのを一旦棚上げした。キッチンへ向かい、ビールの缶を抜き出してソファに座る。
 片手でプルトップを開ければ、プシュ、と気持ちの良い音がした。
「おい?」
 その間、バーナビーは無言だった。
 思わず電話が切れているのかと疑い、携帯の画面を見直した程だ。
『ああ、すいません。ちょっと酔ってて……』
「へえ、珍しいな。それで人恋しくなったのか?」
『おじさんじゃありませんから、そんな事はありません』
「なんだよそれ」
 くい、と缶を傾けて、一口飲む。
 既に晩酌は終了していたのだが、ビールはいつでも最高だ。
『おじさんのように、人恋しくなんかならないって事です』
「ひでえなあ、おい」
 酔っているとは言え、彼の言葉は明晰だしいつも通りの言葉運びだ。
 思わず笑ってしまう程に。
「俺だって酔ったからって誰彼構わず電話なんかしねえぞ」
『そりゃあその歳でそんな事をしてたら、大人失格です』
「む。そりゃあそうだけどさ。で、まだ飲んでるのか?」
『ええ』
「奇遇だな、俺も飲んでる」
 そして、缶を再び傾けた。
『今、何をしてたんですか?』
「いや、別になにも……まあこんな時間だし、そろそろ寝るかなーと思いながらうだうだしてたとこ。お前は? まだ寝ないのか?」
 その時、携帯の向こうから車の通る音が聞こえた。
 おや、と思う。
「なんだ。お前外なのか?」
『なんでですか?』
「車の音が聞こえた。お前んちじゃどんだけ窓を開いても、車の音なんて聞こえねえだろ」
『………』
 黙り込んだ。
 どうやら正解だったらしい。
「なんだ? 飲みながら歩いてるのか? それとも飲んだ帰り道?」
『いえ、どっちでもないですよ。第一飲みながら歩くってどういう事ですか、そんな恥ずかしい事出来ませんよ』
「そりゃあそうだ」
 バーナビーが缶を煽りながら歩いている姿を想像すれば、笑えた。
 彼はワインの方が好きだから、もしかしてボトルかもしれない。それは尚更笑いを呼ぶ。
「で、どこだ?」
『もうすぐおじさんの家です』
「は?」
『もうすぐ、おじさんの家です』
「いや、聞こえてるよ。え? どういう事?」
『今から行ってもいいですか?』
「いいもなにも……もうすぐ着くんだろ?」
『はい』
 酔っているにしては、淡々としていた。そういう酔い方をするタイプなのかもしれない。
 しかし行動は不思議過ぎる。彼がうちに来た事は、何度かある。しかしこんな深夜にアポイントもなく来た事はさすがになかった。これは本当に、酔った余りに人恋しくなってしまったのかもしれない。
「まあ、いいや。来いよ。その代わりうちにあるのはビールだけだぞ?」
『もういいですよ、飲みませんから』
「あ、そう」
 再び、車の音。静かになれば、よくよく耳を凝らせば足音が聞こえる。彼はメトロに乗って、ここまで来たのだろうか。まあ、冷静に考えればそうなる。飲酒運転などヒーローのする事ではないからだ。
「まあ、着いたら電話しろよ。玄関ベルは鳴らすなよ、後でクレーム来るから」
『ええ、分かりました』
 そう彼は告げ、通話は切られた。
 珍しい事もあるもんだ、と切った後の携帯を思わず眺める。
 だが、このひっくり返った部屋をひとまずどうにかしなければならないだろう。あの調子では、時間的猶予は差程ない。嫌味を言われないためにも、せめて脱いだ服くらいは片付けておくかとまとめてひっつかみ、ランドリーへと放り込んだ。
 その瞬間、再びコールが鳴る。
「お、早ぇな」
 ぱたぱたと戻り、テーブルの上に置きっぱなしにしておいた携帯を取る。
 案の定バーナビーだ。
「待ってな、今鍵開けるから」
『はい』
 それだけの短い通話。
 ぷつり、と音を立てて切れたのを確認すると、携帯片手のまま、玄関へと向かった。
 鍵を開け、扉を開けば目の前にバーナビーが立っていた。
 何故か悄然とした姿だった。酔った気配など、感じられない。
「まあ、入れ」
「すいません、こんな時間に」
 彼らしくない、弱った声だった。何かあったのだろうかと勘ぐる。
 彼が弱るとすれば、例の両親絡みの事件の件か、ウロボロスの件に決まっている。
 中に導き入れ、ソファに座らせる。
「まあ、ビールでいいか?」
「何でもいいですよ」
「お前、飲まない、っつってたじゃねえか」
 わざと声音を明るくして、言ってみる。
 それでも彼の視線はいつもより下を向いていて、調子を狂わされた。
 まあ、酔わせてみようかと虎徹は思った。あれは飲んでなんかいない。単に弱っているだけだ。酔わせて、洗いざらい吐かせればちょっとは楽になるだろう。
 明日大変な事になるかもしれなかったが、今の方が大事だった。
「ほい」
 と、彼の前にビールを置く。ついでに新しい缶を六つばかり持ち出し、机の上に並べた。
「なんですか、これ」
「いや、せっかくだし飲もうと思って。お前も飲むだろ?」
「まあ……じゃあ、遠慮なく」
 彼は目の前に置かれた缶を取り、そのままプルトップを引いた。
 そして一気に飲み干そうとする。
 それを、虎徹は敢えて止めなかった。無茶な飲み方がしたいならすればいいと思ったのだ。そしてとっとと酔っぱらってしまえと思った。
「珍しいな、お前がこんな時間に来るなんて」
「まあ、そんな気分の日もあります」
「まあな……そうなんだろうけどさ。なんかあったんならおじさんに話してみな?」
 まずは正攻法から。
「何もありませんよ、気紛れです。ああ…気紛れでこんな時間に付き合わせてしまったのは、申し訳ありません」
「いや、構わねえけど」
 ちら、と時計を見る。つられたようにバーナビーも見た。時刻は丁度、日付の変わるところだった。
「なんでバイクじゃなかったんだ?」
「飲酒運転なんか出来ますか?」
「嘘つけ、お前飲んでなんかないだろ」
 肘で、つつく。
 彼は途端バツの悪い顔になって、うつむいた。
「どうして分かったんですか」
「全然酒臭くねえし、酔った顔もしてない。全くの素面だろうどう見ても」
「……なんだ、お見通しか」
 はは、と彼は軽く笑った。珍しい素の笑顔だ。
 しかし、余り良い笑い方ではなかった。
「どうしたんだ? ほら言ってみろ」
「だから何もないですよ。単におじさんの顔が見たくなっただけです」
「うわっ、嘘臭え!」
「失礼ですね」
 そして彼は手を伸ばして、新しい缶を取る。既に一本飲み終えてしまったのだろう。
 バーナビーは決して酒に強い方ではない。この調子で飲めば、潰れてしまうのなんて目に見えるようだった。自分は少し汚い手を使おうとしてるとの自覚はある。
 だけど、こうでもしないとこの強情な若者は口を割ろうとはしないだろう。つまみも出していないのは、そのせいだ。酒だけで飲み潰れてしまえばいいと思っている。
「だってお前が俺の顔見るためだけに来る訳ねえだろ。明日になればイヤでも顔合わせるのに」
「夜が良かったんです」
「なんで?」
「なんでって……深い理由はありませんが」
「あ、そう」
 この辺りも、後で問い詰めようと決める。早くも三本目の缶に手を伸ばし始めたバーナビーは、少しだけそれを迷ったようだった。
「おじさんは? 飲まないんですか?」
「ああ、既に三本飲んでる。今のこれ、四本目」
「飲み過ぎです、太りますよ」
「毎日って訳じゃないから許せよ」
 肘でつついて、自分も缶を煽る。まだ半分は残っているようだった。自分が潰れてしまっては洒落にならない。自重して飲まなければならなかった。
「毎日飲んでそうですけどね」
 と、再び笑われる。そして今度は迷わず三本目を手に取り、飲み始めた。
 ペースが速い。彼がらしくもなく笑うのは、既にほろ酔い気分だからだろう。
 その三本目も、一気に流し込もうとしているのだから、困ったものだ。
 さっさと吐いてしまえばいいものを、手の掛かる。
 だが彼がこうやって自分を頼って来たのは、嬉しい事だった。以前では絶対にあり得なかったことだろう。毒舌は変わらないが、いつからか彼はそれなりに自分に対し、信頼を見せるようになっていた。
 一緒にやっていく相棒だ。もちろん、そうであるに越した事はない。
 それに自分はこの若者をそう嫌ってはいない。もちろん当初は生意気なガキだと思っていたが、その背景を知る事が出来た途端に、意味合いが変わった。
 今では、守ってやれるなら守ってやりたいとすら考えてまでいる。
 これも所詮庇護欲と言うものか、と思いつつ、ギリギリの場所に立っているような彼にいつか手を差し伸べる事が出来ればと考えている。それがもしかしたら、今なのかもしれない。
 四歳の時に親を目の前で失い、心を凍らせたかわいそうな子供。
 抱きしめて、その氷を溶かしてやれないかと思う。
 そんな事を考えながら適当な会話を交わし、手で缶をぬくめている間に、バーナビーは最後の缶に手を出していた。
 いつの間に。
 傍らの彼を見れば、既に相当出来上がっている事が分かった。
「で、なんで来たんだ?」
 そろそろ頃合いだろうと改めて切り出す。
 バーナビーはしばらく黙っていた。プルトップを開けた缶を持ったまま、それを飲む訳でもなくしばらくじっとテーブルの上を見ている。
「ねえ、おじさん」
「なんだ?」
「いえ……なんでもないです」
「なんでもないはないだろう、言いかけておいて。気持ち悪ぃじゃねえか」
「だって、なんでもない事ですから」
 彼の視線は相変わらずテーブルの上だ。
 それがもどかしくて、あたためてもう飲めたもんじゃないだろうビールを置き、彼の視線を無理にこちらへ向かせた。要するに、顔を持ってこちらへ引っ張ったのだ。
「なっ、に、するんですか」
「そんな場所見てないで、ちゃんと俺を見ろよ。俺に何か言いたかったからここへ来たんだろう? こんな時間に」
 既に時刻は一時間以上過ぎている。深夜をとっくに越えていた。
 それでもまだ口を割らない悪い子には、おしおきが必要だ。
「ほら、喋らないとちゅーすんぞ」
「ちょっ、おじさん! 本気ですか?!」
「本気も本気、マジだかんね」
 途端慌てた顔になったのが面白い。頬も赤らんでいる。それは酔いのせいかもしれなかったが、状況に慌てているようにも見えた。
「やめてください、そんなことしなくても言う、言いますから!」
「えー、ちゅーさせてくれねぇの?」
「おじさんが『ちゅー』とかって言わないでください!」
 もうっ、と言って手を解かれる。少しばかり残念な気持ちがあったのは、否めない。
 キスをしたら彼は一体どんな反応を示しただろうか、気になったのだ。
「じゃあ、とっとと話せよ」
「イヤですよ。わざわざ引き出しにしまい込んだものを出すバカがどこにいると思うんですか?」
 こいつ、と思った。
 これだけ酔っても何も言わない気か。
 おしおきだとばかりに、今度こそ本気で行った。
 一瞬で頬を捕らえ、こちらを向かせて唇を合わせる。
 ひどく驚いて見開いた目が、眼鏡のレンズの向こうにあった。
 面白い、と思う。だから先を続ける。
 合わせた唇を少しだけ開き、舌を出すと彼の唇を辿った。あからさまに動揺した気配が漂った。
 ようやく気付いたのか、彼はようやく抵抗を始めた。
 頬を挟む両手に、手が掛けられる。顔を遠ざけようと試みられる。
 だけど、両方ともそう簡単にさせるつもりはなかった。
 何かを言いかけたのだろう、開いた口にそのまま舌を滑り込ませる。
 そして、ビールの味しかしない口内を丹念に辿った。
「……っ、ん」
 彼の手の力が、若干弱まる。こちらもうっかり本気になりすぎているきらいがある。バーナビーの目は、伏せられようとしながらも、必死でそれを押しとどめているように見えた。
 落とすまでは時間の問題――男相手に何をしてるんだ、と思いながらもやめられない。
 柔らかな舌をぐねぐねと捏ね、口蓋を舐め、歯列を舐める。
「ん……っん」
 そこで、ようやくバーナビーの目が伏せられた。手に掛けられた力はもう殆どない。ぶら下がっているだけのような状態だ。
 それで、満足した。――いや、本当はもっと堪能したい。だが、目的はそれじゃない。
「で、話す気になったか?」
「――卑怯です、あなたは」
「卑怯でも結構」
「むりやりに、こんな……」
 まだ唾液に濡れている唇は、若干目に悪い。少しばかり涙のにじんだ目元がレンズ越しにある。
 頬は、真っ赤だ。
 途端、こちらまでぞくりとした。こんなものに手を出してしまったのかと急に焦ったのだ。
 少し荒くなった息を吐き出す様は、色香が漂う。くたりとした姿は、劣情を刺激する。
「無理にこんな事でもしねぇと、お前は何も言わないだろ」
「だからって言うと思ってるんですか?」
「思ってる」
 堂々と言ってやれば、彼の視線は再び自分を見た。そして、困ったような笑いを浮かべる。
 そんな表情もするのかと少しばかり驚いた。
「本当は、言うつもりもなかったし、存在もなくしてしまおうと思っていた事です」
「ああ」
 彼の両手は、いつの間にか自分の腿の上できゅっと握られている。視線はこちらを向かない。でも、それでもいい気がした。この目をまっすぐに受け止める事が出来るのかどうか、今の自分には自信がなかった。
「――あなたが、好きです」
「……ああ」
 そうだろう、と思った。
 何故か彼の仕草を見て、言葉の迷いを見て、想像が出来てしまった。
 キスをしてしまったせいかもしれない。心がこちらへまで流れて来てしまった。
 勢い任せで、自分はひどい事をしてしまったのかもしれなかった。
「軽蔑しますか?」
「いや」
 即座に答える。
「大歓迎だ」
「……また、嘘ばかり」
 泣きそうな笑いだ。彼にはそういう笑顔のバリエーションがあったのだと初めて知る。
 こんなに表情豊かな彼など、今まで出会った事がなかった。
「嘘じゃねぇよ。そうじゃなきゃ、誰がキスなんか」
「最初はそんなつもりじゃなかったくせに」
「それは……まあ、そうだけど」
 素直に認める。だが、最後はそうじゃなかった。こちらも夢中になってしまっていた。
 彼の押し殺す声が、耳に心地よかった。
 こんなので自分の感情を固定してしまうのはマズイだろうか。――分からない。
 ただ、彼の事を放っておけないと感じるのはずっとずっと前からあった感情だ。それに名前が付いただけとも言える。
 誰が父性愛だと? こんなキスをする父親がいるものか。劣情を刺激されるなど、あってたまるものか。
「すいません、帰ります」
「おい、待てよ」
「言うつもりのない言葉まで告げたんです、もういいでしょう?」
「待てって、俺の言葉は無視かよ」
「ええ、無視します」
「どうして」
「だって、こんなのはおかしいですから」
 彼はすっかり酔っている筈だった。なのに言葉が妙に柔らかい。
 諦めきった口調でもある。
「待てよ、勝手に決めるな」
 そのまま玄関口へ向かおうとしたバーナビーの手を、掴んだ。そして背後から抱きしめる。
「おかしいとか、そういうのは、誰が決めた?」
「離してください」
「なあ、誰が決めた?」
「…離して、ください」
「お前が勝手に決めただけじゃねぇか。俺は納得しないからな」
「やめてください、本当に……すいません、こんな時間に来て。おかしくなってるだけなんです、きっと」
「おかしくて結構、上等じゃねぇか。俺もそれじゃあ十分おかしいよ」
「巻き込まれただけです、気のせいです」
 どこまで強情なのだろうか。もっと酔わせなければならなかったのだろうか?
 しかし、これだけでも十分に酔っている筈だった。そうでなければあの言葉など聞けなかっただろう。
「好きでいろよ。俺もお前を好きになる」
「妙な期待を抱かせないでください」
「期待しろよ、諦めるなよ! お前の得意技だろ?!」
「――っ!」
 ぐるり、と彼の体が腕の中で回った。そして、正対する。
 腕を無理矢理に引っ張り出すと、まるで技を掛けられるかのようにして、首に回された。
 そして、唇を合わせられる。
 それは短いものだった。
 バーナビーの目からは、涙が溢れていた。
「こんなのは、やっぱりおかしいですよ」
「おかしくなんかねぇよ」
 そして、虎徹から口付けを送った。
 優しい、優しい、キスだった。
2011.6.7.
↑gotop