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Scent of him 彼の匂い


 ソファで画面を見ながら、バーナビーはうつらうつらしていた。
 シャワーも浴びているし、もうベッドに入ればいいだけなのに、けだるい眠気がそれをなかなか許してくれない。体だってだるい。もう数時間は過ぎたが、無茶な場所で無茶な事をしてしまったのだ。
 それ以前の疲労も蓄積されていて、もうこのまま眠ってしまいたかったが、場所が場所だ。転がり落ちてしまうのが落ちだろう。だが動くにはもう一踏ん張りの気力が足りない。
 あんな事をするから……と、思い返してバーナビーは赤面する。
 寄りによって頻繁に使用するシャワーブースで、事に及んでしまった。
 疲れもあったかもしれないが、最後まで抵抗しきれなかったのは自分の甘さだと知っている。あの人が好きだと言う気持ちが後押ししてしまい、許してしまったのだ。
 シャワーブースを出て、更衣室で不意に抱きしめてやると彼はひどく驚いたようでいて、嬉しそうな顔をしていた。
 あの顔がいけないと思う。
 目尻の下がった、へにゃっとした笑い顔。
 そして鼻孔いっぱいに広がる彼の匂い。
 そんな物でお手軽に自分は幸福になれてしまう。
 ああ、参ったなと思い、そこでようやく立ち上がる気になれた。
 不毛なことばかりをこの分ではまだまだ考えてしまいそうだったからだ。眠気に半ば支配された頭は、ストッパーが存在しない。欲望のままに彼のことばかりを考えてしまいそうだった。
 キッチンに立ち寄り、ミネラルウォーターを一口だけ飲んでベッドルームへ向かった。今朝は彼がいたけれども、さすがに今日は彼も自宅へ戻った。
 もそもそとシーツの合間に潜り込むと、ほんの少しだけ彼の匂いが残っていた。
 ああ、もう、と自分が憎らしくなる。
 彼のことで頭がいっぱいでいていい筈がないのに、こうやって気が緩めば彼のことばかりだ。
 でも、うっすら残った匂いに包まれて眠るのは悪い気分ではなかった。
 そうだ、と思う。彼の香水は知っている。あれをうちにも用意しておこうとぐずぐずになりかけた思考の中で考えているうちに夢の世界へ転がり落ちた。



 翌日、ヒーローは大忙しの一日になった。どれも些細なものであったが、事件が頻発したのだ。誘拐、強盗、輸送車乗っ取り。この都市にはヒーローがいて、どれも上手く事が進まないと分かっているのに犯罪者はまるで学習をしない。
 遅くなった昼休みに軽く食事を取ると、いつバンドが鳴っても良いように心構えをしたままバーナビーは近くのショッピングモールへと向かった。
 昨晩の考えはバカらしいと思っている。なにより眠る前の思考だ。ぐだぐだのそんなものをマトモに取り合う必要などなかったのだけれども、足が自然に向かってしまったのだからしょうがない。
 ショップに入ると、目的のものはすぐに目に入った。
 いびつなガラスの容器に入れられた、蒼い液体。
 それがふわりと甘く香り、そして徐々に水の匂いに変わって行く事を自分は良く知っている。
 それを店員に指示し、取ってもらうとそのまま会計を済ませた。
 まるで好きな子のものを欲しがる子供みたいだ、なんて考えが過ぎったのは否めない。それでも、いや、彼はうちに泊まるのだから彼のものを揃えておくのは悪い事ではないはずだなんて考えて、――それもまるで独占欲の塊のような気がして、やっぱり買わなければ良かったと後悔した。
 だが今更返品するのも気恥ずかしい。このまま封をしたまま、洗面所のどこかへ隠しておこうと思った。それが一番良い対応だろう。
「なにをしてるんだ…僕は……」
 小さくため息を落とす。
 彼の事が、好きだ。
 だが振り回されるのは好きじゃない。
 何より自分には目的があって、彼ばかりにかまけている場合ではないのも確かなのだから。
 だから、これは封をしたまま封じておこうと考えた。自分の溢れそうになる気持ちと一緒に、きちんと片付けておくのだ。
 オフィスへ戻れば食事を終えた虎徹も席に戻っていた。
「おう、どうしたんだ? 忙しいのに外なんか出て」
「いえ、おじさんには関係ありませんよ」
「そっか?」
 どこか訝しげに見られているような気がするのは、自分にやましい点があるからに違いない。
 そっと視線を彼に向けないようにして、自分の席に座る。そして端末のスリープ状態を解いた。
「どこ行ってたんだ? で、それ何?」
「だからおじさんには関係ありませんって」
 自分の手には、彼の香水と同じブランドロゴの入った小さな紙袋があった。今は机の上に置かれている。しまったな、と思った。せめて袋だけでも捨ててくれば良かったかもしれない。いや、それもあまり得策ではない。中身が丸見えになってしまう。余計にマズイ。
「ふぅん」
 虎徹は少し含みを持たせたように告げ、くるりと椅子を自分の席に向けて座りなおした。
「まあ、別に構わねぇけど」
 どこか余裕を感じさせる物言いに、少しだけ腹が立つ。こちらの事なんてお見通しと言わんばかりだ。
 だがそれも、多分気のせいなのだろう。バカな事をしてしまったと思う。ああ、なんて自分はバカなんだろう。これくらいの学習能力すらもなかったなんて。自分の事を人より劣ってるなんて今まで決して思った事はなかったのに、彼に相対するとそんな気持ちがやけに刺激される。
 対人スキルがまるで備わっていない事をつきつけられてしまうからだ。
 いい加減なように見えて、おちゃらけているように見えて、虎徹は相手の事を良く見て物を言っている。
 適わないな、と思わされる唯一の物だ。
 だからこそ、自分は彼の事を好きになってしまったのだろうと思う。土足でどかどか踏み込んできたように見えて、彼は細心の注意を払っていた。自分を傷つけまいよう、痛い傷に触れすぎないようにと心を配っていた。それごと抱きしめられたのだから、参ってしまわない方が嘘だろう。
 また、小さくため息を落とす。
 その瞬間、再びバンドのアラームが鳴った。
「おいおい、オーバーワークだぜ、今日はもう」
「仕方ありませんよ」
 なにせ自分達は好んでこの職を選んでしまった、ヒーローだ。
 強盗事件発生の報を聞きながら、開発室へとふたりで向かった。



 結局その日は日が暮れるまでその後二件も事件が起こり、面倒な出動が二度も続いた。
 どれも小物だったのが腹立たしい。出動すれば物の一時間も掛からないうちに片付いてしまう事件だったからだ。まあ、平和でいいのかもしれなかったが、そのたびにヒーロースーツを着用し、また脱いでは昨日の記憶も新しいシャワーブースで汗を流すのは、正直参った。
 へとへとになった定時に一応の帰宅を許された。今日は少しおかしいので、まだ出動要請があるかもしれない事をロイズに言い含められた上での帰宅だった。
 さすがに今日は虎徹も疲れたらしい。誘いもなく、お互い別々の帰途についた。
 さて、困ったのはこの小さな紙袋の中身だった。
 部屋に到着し、予定通りに洗面所のどこかへ隠そうと思ったのだが、ふとした拍子に彼に見つけられでもしたら、それはそれで取り返しの付かない事になる。ここは彼も頻繁に使う場所だ。
 ならばクローゼットならばいいかと思ったのだけれども、寝室に備え付けられてあるそこに置くのをバーナビーは何故かためらった。
 幸いにもバンドのアラームは鳴らない。本日の事件ラッシュはもう終了だろうか。
 テーブルの上に紙袋を置き、そしてそのまま夕食を取ると、再びその袋が目に付いて仕方がなかった。
 大きなため息を落としてから、中身を取り出す。
 丁寧にラッピングされた包装紙を剥がし、中の箱を取り出すと鮮やかな水の写真が使われていて、一気に記憶の中の匂いが呼び覚まされた。
 もういいか、と思った。
 開き直ってこのまま飾っておいてもいいかもしれない。
 ボトルのデザインは捨てたものじゃなかったし、インテリアとしても綺麗におさまる。
 虎徹が来た時に何か揶揄ったとしても、彼の物だと開き直ってしまっても構わないではないかと言う気になった。
 要するに、疲れていた。考えるのも面倒になっていた。
 昨晩の繰り返しはいやなので手早くシャワーを浴びると、早々に夜着に着替え、ベッドルームへと向かう。そこで、ふともう彼の匂いが立ち消えている事に気がついた。
 少しばかり寂しい気持ちでシーツの間に入る。
 淡くだけ残っている匂いが、余計に寂しさを助長させる。
 自分はそんなに弱い人間でいていいはずがないのに、どうやら彼がいないともう無理なようだ。
 目を閉じて、嘆息した。
 なんてことだろう。
 彼の不在がこんなに堪えるなんてこの先やっていけない。いつだって彼が自分の傍にいる訳じゃない。
 そこで、思いついてベッドから一度起き出した。
 そしてリビングに飾ってある香水を、いつかの誕生日にもらった兎のぬいぐるみに少しだけ振りかける。
 ふわり、と漂う香り。
 それに心が満たされる。
 いい歳をして子供みたいだけれども、子供じゃないからこそ、これを抱き枕にして眠ろうと思った。
 せめて彼の匂いにつつまれて眠れば、悪い夢も見ないのではないかと思えた。
 振り回されている、分かっている。でももう、しょうがない。
 ずっと復讐を諦められなかったのと同じように、彼を思う気持ちも止める事が出来ない。
 寝室に入り、彼の匂いのするぬいぐるみを抱いて、ベッドに入った。
 そして目を閉じる。
 彼の匂いに包まれて、ふよふよとした柔らかな感触を確かめる。もちろんこんなものでは物足りないが、それでも構わない気がした。
 だが、時間が経つにつれて疲れて眠ろうとしていた意識が冴えて来た。
――違う。
 彼の、匂いと違う。
 甘い匂いはする。そして、ほのかな水の匂いも。若干スパイシーな香りも伴って、それは確かに好きな香りではあるのだけれども、でも違う。
 そこで気付く。
 ああ、これは彼ではないのだ、と。
 彼の体臭と相まって、あの大好きな匂いになっていたのだ。
 これでは余計、寂しさが募って眠れそうにない。
 時刻は深夜にはまださしかかっていなかった。
 ぬいぐるみを置き、裸足でバーナビーはリビングへ向かう。携帯をそこへ置きっぱなしにしていた。
 そして、目的の番号を探してリダイアルすると、すぐに相手は出た。

「――おじさん? 今から行ってもいいですか?」
2011.6.13.
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