珍しくかっちりとしたスーツ姿の虎徹が職場に現れたのは、午後を過ぎた時間だった。
幸いにも今日はまだ出動がない。彼の不在は差程問題にはならなかったが、その姿にバーナビーはひどく違和感を覚えた。
「よお、遅くなってすまん。なんかあったか?」
「バンド、鳴ってないでしょう? 何もありませんよ」
そうか、と彼はへらりと笑って自分の席に座るとジャケットを脱いだ。そしてそのまま背もたれに掛ける。そんな事をすれば皺になってしまうのになあと思いながらも、バーナビーはそれを口にしなかった。
「どうしたんですか、その格好」
「あ、いやちょっとした野暮用でさ」
彼はまたへらりと笑う。
その笑いで、簡単な用事ではなかったのだなとバーナビーは察した。
何かをごまかしている顔だ。だけど、今この場所で追求すべき問題ではない。
そうですか、と答えるに留めて、自分は自分の端末へと向かった。
やりかけの報告書に戻るのだ。
「なんだ、すげないなあ。――まあ、いいけど」
そして彼も、端末を起動させる。彼には始末書の山がたんと積まれているはずだった。それをこなすのも一苦労のはずだ。
もっとも相棒とは言え、そこまで手伝うのは話が別だ。
それに望んで組んだ相棒ではなかった。……最初の内は。
現在では、彼以外の相棒など考えられないとバーナビーは思っている。彼には好意を寄せていた。それも、同性では普通では抱かないタイプの好意を、だ。
気付いた時にはまさかと思った。
今までずっとひとりだったし、これからもずっとひとりだろうと思っていた。なのに彼はずかずかと土足で人の心に踏み行って来たかと思えば、徐々にあちこちをひっくり返し始めたのだ。
それが最初は不快で仕方なかった。だけど、今ではもうそれを受け入れてしまっている。
彼がいないとダメだと思う事すらもある。尤もそんなこと、告げた事はないけれども。
見慣れない白のシャツと、ダークカラーのパンツにタイ。ジャケットも同色だ。
まるで礼服だと思ってから、はっと気がついた。
彼の妻は早くに亡くなっている。もしかして今日はその命日だったのではないだろうか?
五年前と確か言っていた。だとすれば、なにかの式典があったとしてもおかしくはない。
彼の態度はいつも通りだったけれども、それこそがどこか不可思議だったのだ。遅くに来ておいて、それを喜ぶ仕草はない。見慣れないスーツ姿だと言うのに、自慢するような事もない。
気の沈む出来事があったからこそ、もしかしてそんな様子なのかもしれなかった。
――分かっている。
彼の心の中には、妻がまだ生きている。
左の薬指に光る指輪がなによりもの証拠だった。
実際に彼の妻の話を聞いた事はなかったけれども、娘は溺愛しているし、その話なら何度も聞かされている。
ずん、と胸に重しが乗せられた気持ちになった。
所詮自分の抱いている気持ちは、無意味なものに過ぎないのだ。
抱いたこと自体が間違っている。
早くに殺してしまわなければ、毒が全身に巡って自分自身が殺されてしまう。
一度目を閉じ、再び端末へと視線を向けた。
画面上は既に報告書ではなく、長年探し求めているウロボロスに関するなにかがないかとのデータ漁りが開始されていた。ヒーローになれば司法局の管轄にもなり、以前より触れられる情報の量も増えた。だが、めぼしいデータには未だにたどり着けないでいる。
焦燥が、この気持ちを生んでしまったのかもしれない。
二十年も掛けてやってきた事が、ようやく結実するかもしれないなどとヒーローになった時には思った。しかし実際には何も変化のない日々だ。
ただ、毎日が忙しく過ぎてゆくだけ。
新たな手掛かりらしき手掛かりは何一つ得られていない。
むしろ、フリーで動ける事が出来ていた過去の方が情報は収集出来ていたように思える。
今じゃあ仕事に邪魔されて、時間も自由に使う事が出来ない。
そう思っていた所に、案の定邪魔が入った。
バンドのアラームだ。
『ボンジュー、ヒーロー』
いつも通りのアニエスの声だった。彼女は、ネクストが起こしたと思わしき事件の詳細を伝え始めて来た。
「あーあ、出社してすーぐこれかよ」
「休みの間じゃなくて良かったじゃないですか」
開発室に向かいながら、軽口をたたき合う。
「まあな。中座する訳にもいかねぇし、かと言って呼び出し掛かれば出ない訳には行かないしで、ちょっとおじさんはらはらし通しだったよ」
「――何、だったんですか?」
思い切って尋ねてみる。返って来る答えによっては大きなダメージを受けると分かっているのに、このチャンスを逃せば彼のこの異変を確認することは出来ないだろうと思われたからだ。
なのに虎徹はにやっと笑った後、
「ないしょ」
と悪戯めいて言っただけだった。
言いたくない事なのだろう。胸の重しはますます重くなる。
聞かなければ良かった、と思った。
だがもう尋ねてしまった。時間は巻き戻しが効かない。そしてこの感情も。
「まあ、野暮用だよ。しょうもないこと」
「そんな」
「そんな?」
思わず責めるような口調で言ってしまえば、虎徹は怪訝そうな顔をした。
尋ね返されたが、しかしバーナビーには返せる言葉がない。
妻の法要かなにかを、しょうもないことと言われてしまえば自分の気持ちはどこへ持って行けばいいのか分からなくなるからだ。それにこの気持ちを彼に知られるつもりはない。
「なにも、ないです。急ぎましょう」
「え、何? 変なバニーちゃん」
首を傾げた彼を放って、少し大股で歩き始めた。虎徹を置いて行く形になったが、すぐに彼も小走りになって追いつき、同じペースで歩き始めた。
「ま、早く到着しねぇとマズいわな。ポイント取り損ねちまうし」
自分を揶揄ったような物言いにも、腹は立たなかった。
「ええ、そうですね。分かっているのなら、早く向かいましょう」
「へいへい」
そう言えば、今日はいつも被っている帽子すらもなかった。
そりゃあ、あのスーツには似合わないだろう。あの上着は席に残され、虎徹は白いシャツにタイだけのままだった。
早く現場に向かおうと思った。思う存分体を動かせば、こんな重い気持ちからも解放される気がしたからだ。
物を石化させるというやっかいな能力を持ったネクストを無事捕獲出来たのは、出動してから三時間も過ぎた後だった。さすがに疲れた。能力切れを幾度か起こしては再起動し、最終的に捕らえたのは現在ポイントランキング二位を走るバーナビー自身だった。
能力発動中に盾にされたポストを砕き、ようやく本人を取り押さえたのだ。
幸いにも彼の能力の対象は、無機物にのみ効果があったらしい。これで有機物――人が盾に取られたとしたら、こちらとしても手の施しようがなかっただろう。
無事、四百のポイントをゲットして、身柄を警察に引き渡す。
対ネクスト用の特殊手錠を嵌められたのは、虎徹と変わらないような年代の男性だった。
彼は大事なものを亡くして、自暴自棄になったのだと言う。みんなも失えばいいのだと言い放った。
その言葉が痛くて、胸に響いて、そして傍らに立つ相棒を見たけれどもヒーロースーツを着用している彼の表情など伺う事も出来やしない。
もしかしたら同じ境遇かもしれない犯人に同情しているだろうか? それとも怒りを覚えているだろうか? ――バーナビーには、分からなかった。
帰投し、いつもの手順でスーツを脱ぐとインナーを脱ぎ、シャワーを浴びる。
走り回ったせいか、今回は汗だくだった。スーツの機能性は良いのだが、このインナーは蒸れるので少しだけ苦手だった。
汗でべったりとしたそれを収集所へ投げ入れ、シャワーブースに入る。
この瞬間にバンドが鳴ったらひどく迷惑だなといつも思う。今のところそんなタイミングでの招集は掛かった事がなかったけど、今日もひとまず安全なようだった。
ソープで体中を洗い流し、頭も洗ってしまう。
そして軽く体を拭うといつも着用している衣服へと着替え直した。
髪が濡れたままになるのは仕方がない。ドライヤーは幸いにも設置されている。
先に出ていた虎徹が使っていたので、バーナビーはタオルで湿気を拭う事にした。
「お、悪ぃ」
「そう思ってるなら、早くにしてください」
「はいはい」
ばさばさと髪をかき乱しながら、ドライヤーからの熱風が彼の頭を撫でる。
その姿を見ながら、再び胸が重くなった。
そんな姿は見慣れている。だけど、こうやって好きだなと思いながら眺める事は少ない。
今日は心のバランスが崩れているようだった。常なら効く自制が、今日は働いていない。
唇だけを動かし、「すきです」と、告げる。
もちろん彼にそんなものが通じる筈はなかった。伝わりもしない。
真っ白なシャツの背中に抱きついて、いっそ告げてしまおうか――? などと、バカな事を考えて思わず苦笑した。
バカな考えにも程がある。この気持ちは、ずっと心の中で眠り続けているのが相応しい。
「なあ、バニー」
「はい?」
「今日の犯人さー」
「ええ」
ばさばさと髪を乱しながら、それでも着実に乾かしながら、だるそうに虎徹は喋る。
「大事な者を喪ったら、ああしなきゃいけねぇもんなのかね?」
ずきり、と心臓に痛みが走る。
「さあ。程度に寄るんじゃないですか? というより、あれは犯罪者です。してはならないでしょう」
「そうだよなあ」
そして、大きなドライヤーの風音が消えた。
彼の髪はくしゃくしゃのままだったが、どうやら満足したらしい。
振り返って、「ほらよ」とバトンタッチされたが、その手に触れる事すらもバーナビーは実は戸惑ってしまっていた。
「ま、喪ったもんはしょうがない。帰って来る訳じゃねぇしさ」
「――それは、おじさんの経験ですか?」
まだドライヤーを付けずに、だけど彼を見ずに、自分は問いかける。
「いんや。ただの一般論」
「じゃあ、おじさんは奥さんの事を今は――」
しまった、と思った。
言うつもりのない言葉が口から漏れだした。
慌てて、ドライヤーのスイッチを入れる。盛大な風音が耳を遮断してくれればいいと思いながら、乱暴な手つきで自分の髪を扱う。
「まあ、そうだなー。いなくなっちまったなーって感じ?」
聞きたくないのに、聞こえてしまう。
「いないって事に、もう慣れちまったから、特に何も」
本当になんでもなさそうな声で、言い方で、言われてしまう。
「結構俺って薄情なのかもしんねぇな」
と、笑いすらした。
「そう、ですか……」
自分の声は、果たして相手にまで届いただろうか?
風の音に紛れて聞こえなかったかもしれない。
新しい相手を探すつもりはありますか? それが自分ではダメですか? そんな事を口走りそうになる口を封じ、髪を乾かす作業に没頭する。
「まあ、楓がいるし。バニーちゃんもいるし? 今は結構満たされてるから満足してるよ、俺は」
乾かしていた髪を、思わずぎゅっと掴んでしまった。
それはどう取れば良いのだろうか――いや。どう取るもなにもない。普通に相棒として認められているというだけの話だ。
バカだな、と苦笑が浮かぶ。
自分は何を期待したんだと。
そんな事があるはずないのに――。
過去に勝てるかもしれないけれども、過去と同じ場所には立てないと知っている。
自分が、おかしいのだきっと。
握りしめた指を、ゆっくり解いて髪を再び乾かし始める。
目元が熱くなりそうなのを、必死で我慢した。