ある時に、静かに泣くバーナビーと言うのを見た。
思わず見間違いだろうかと思った。シャワーブースから出た場所、髪を乾かしながらも彼は静かに涙をこぼしていたのだ。
たった今まで自分と会話していた。
その内容を思い返してみても、特に不用意なものはなかったはずだ。――と、考えてから、思い至った。
彼も大事な者を亡くしていることに。
彼もそうしたかったのだろうか? 怒りにまかせて暴れたかったのだろうか。
だが、それを否定したのは彼自身だった。
余りに不可思議な現象に、しばしぽかんとしてしまった虎徹だったが、そんな場合じゃないと慌てて彼の元へと歩み寄った。
「おい、どうした?」
「……何も、ありま」
「そんな顔じゃねぇだろ?」
「見ないで、いただけますか」
「どうして」
「みっともない。こんな姿をあなたに見られるのは……イヤです」
そう言うと、彼はタオルでぎゅっと顔を押さえて顔を背けた。
そんな殊勝な態度を取る彼を見るのは、初めての事だった。思わず手を伸ばしてしまう。
「おい、泣くなって。おまえらしくねぇだろ」
「僕らしいって、何も知らないくせに」
「ま、まあ……そりゃあそうだけどさ。でも俺と居るときはいっつも生意気だし、そんな風じゃねぇだろ?」
タオルを外し、真っ赤な目をした彼はやはりこちらを見ない。鏡越しにそれを確認出来ただけだが、例えようもない暗い目をしている事だけは分かった。
やはり、そうなのだろうか。
両親を殺された事がフラッシュバックしているのだろうか。
「お前さんの両親の事は、その……俺がなんとかする」
「は?」
ひどく驚いた声で、彼はようやく振り返った。
ああ、やっぱり兎ちゃんだなぁと思う。真っ赤な目が白い肌に良く似合う。
「何を言ってるんですか、あなたは」
「いや、どうにも出来ないかもしんねぇけど、力になってやりたいとは思ってる」
「――……どうして、そんな事を急に?」
「だって泣いてたのって、そのせいだろ?」
そう言えば、一拍おいて彼は悲しい顔で笑い始めた。
力のない微笑みだ。
「違いますよ。やっぱりおじさんは、何も分かってないですよ、僕の事なんて」
そして、席を立つ。
「お先に失礼します」
髪はまだ生乾きだった。それでも彼は出て行ってしまう。
追いかけようとしたが、しかし訳が分からなさすぎて自分にはどうしようもない気がして、その場に止まるしかなかった。
なら、何故彼は泣いていたのだろう――?
オフィスの席に戻っても、バーナビーはそこに居なかった。
その事を女史に尋ねれば、彼はジムへ向かったと言う。
なるほどと思った。どうやら自分は避けられているらしい。ならば追いかけるのが自分の性だ。逃げるなら追う。気になるならとことんまで突き詰める。
面倒な事ならば放っておくだろう。だが、あの表情も崩さずただ涙だけを落とす顔と、悲しい笑い顔が頭から離れないのだ。面倒事かもしれない。だけど、追わずにはいられない。
「それじゃあ、俺もジム行ってきますから」
「あなたも? 分かりました」
簡単に許可が降り、虎徹は帽子を被り直してジムのあるフロアへと向かう。
ついさっき犯人を確保したばかりで、ジムへ向かう事はまずない。犯人捕獲にはそれなりの体力を要する。能力を使った後ならば尚更だ。
だから、彼がジムへ向かったとすれば自分から逃げたのだとしか理由が思いつかなかった。
せっかく逃げたのだから余地を与えてあげればいいのかも知れなかったが、自分の中に収まりの付かないもやもやがあるのがイヤだったのだ。だからこれは単なる虎徹の我が儘に過ぎなかったのかもしれない。
ジムのフロア、ガラスの扉の向こう側ではひとりでランニングマシンを使用しているバーナビーの姿が見えた。
テンポ良く弾む体、確実に地を蹴る足、きちんと振られる腕。フォームは完璧で、速度もかなり速い事が伺い知れる。
若いってのはいいねと思いながら、自分も中へ入る。
彼は集中しているのだろう。それにこんなタイミングで誰かが来ることはまずない、それに安心仕切っていたのかもしれない。そのことに気付いた様子はなかった。
ゆっくりと気配を殺し、彼の傍へと向かう。
そして、ぽんと飛ぶようにして彼の隣のランニングマシンへと乗った。
「……っ!」
ようやく気付いたバーナビーが、目を剥く。
「よっ」
こちらは出来るだけ友好的に、片手を上げにっかりと笑った。
「何をしてるんですか。こんなタイミングでトレーニングに来るバカはいませんよ」
「お前がいるじゃん」
「おじさんの歳を考えてください。僕とあなたとでは、また別です」
「――可愛くねぇのな」
思わず吹き出しながら言えば、冷たい声で「可愛くなくて結構です」と即座に返って来た。
彼は再びまっすぐ前を向いてジョギングの体勢に入っていた。一瞬リズムを崩したようで時速は落ちていたが、再び手がタッチパネルに伸びている。
同じように虎徹も時速の設定を行い、自分のトレーニングを開始した。
「だから、何をしてるんですか。犯人確保の後です。体を休めてください」
「バニーが気に掛かるんだよ」
「……っ、なに……」
「あんな顔で笑われて、泣かれて、放っておける訳ねぇじゃねぇか」
とん、とん、と定期的なリズムで虎徹も走り始める。最初はウォーミングアップ。緩い速度で併走する。
「あなたには関係のない事です」
「いいや、あるね」
「なに」
「お前は俺の相棒だろ? 心配くらいさせてもらってもいいと思うんだけど」
少しずつ、足下が早くなる、それに合わせて地を蹴るペースも速くなる。リズミカルな動きは呼吸さえしっかり整っていれば、気持ち良いものだ。
「それとも、それもイヤか?」
「――……」
彼はまっすぐ前を向いたまま、何も言わなかった。
肩を竦め、虎徹も正面を向く。そろそろ本ペースだ。意識を散らしていれば、足下のもつれる速さとなる。
「僕に、余り踏み込まないでください」
「どうして」
「――僕を、暴かないでください」
「だから、なんで」
ちら、と横を見る。
弱々しい細い声だったからだ。タッチパネルを操作して、若干速度を落とす。今はこれよりも傍らの存在の方が重要だ。いや、元より彼が気に掛かってここに来たのだから、トレーニングなんて別にする必要もない。
「暴かれては、困るからです」
走るリズムは変わらなかった。
だけど、消沈した気配は伝わってきた。無理をして走っている事は分かった。
「――それでも暴きたい、と言えば?」
何故こんなに意固地になっているのだろう、と虎徹は思う。
かたくなな青年の心を無理に押し開いてどうしようと言うのだろう。
だけど、その衝動は止まりそうになかった。
「お前を暴きたいって言ったらどうする?」
「――っ、あなたは」
タッチパネルを乱暴に押し、バーナビーはランニングマシンを緊急停止させた。
そして、わずかな隙間しかない隣にいる自分へ手を伸ばして来る。
自分も慌てて緊急停止させた。アラートが小さく鳴る。
だが、そんな事気にしていられなかった。
バーナビーは虎徹の肩を掴んだかと思うと自分の方へ向かせ、そして乱暴に襟元をひっつかむとキスをしてきたからだ。
「――こういう、ことです。だからもう暴かないでください」
唇どうしが押し付け合わされるだけのキスだった。
だけど、そこから彼の想いが流れ込んで来るかのようだった。
しばし、虎徹はぽかんとする。
そんな虎徹を放って、バーナビーはジムを出て行こうとした。
完全に出て行く前に、ようやく虎徹は我を取り戻す。
ひとまず、彼をひとりにしてはいけないと発作的に思った。駆け足で追いつき、肩を掴む。
「離してください」
しかし虎徹はそんな言葉を無視して、こちらを向かせる。
涙が頬を伝っていた。
さっきと同じだ。ただ静かに、流れる涙。
――ああ、あれは。自分の為に流された涙だったのか。
知って、心臓がどくんと脈打つのを感じた。
「離さねぇよ――いいか、キスってのは、こうやってやるもんだ」
そして、自分から彼の顎を持ち、若干顔を傾けさせると唇を合わせ舌をバーナビーの口腔へと挿入させる。そこで縮こまった舌を舐め、愛撫し、歯列を舐め上あごを舐め、再び舌を舐めるとようやく弛緩しだしたそれがおそるおそると言うように、自分の愛撫に応えたきた。
「……っん」
ぞくん、と痺れた感覚が走る。
バーナビーはされるがまま、自分に口付けられている。そしてゆっくりと応え、涙のまだ残る頬を光らせながら、目を伏せていた。
鬱金の色をした睫が、長い。
至近の距離でそんな事を思う。
久しぶりの人のぬくもりに、また虎徹も興奮していた。
彼の口の中はとろとろと暖かく気持ち良かった。このままどうにかしてしまいたい程に、劣情を刺激される。生意気な青年がこんな殊勝な態度を取っている事自体が、自分を崩してしまっている。
「……んぁ」
ようやく口付けを解くと、少しだけ甘い声を上げてバーナビーはふらりと体をよろけさせた。
慌てて虎徹は手を伸ばし、彼の腰を抱く。
反射のようにして、バーナビーの腕は虎徹の背中に回された。
まだ距離が近い。
ぼうっとした瞳で見つめられ、虎徹はたまらない気持ちになった。
一度だけでは足りない。
自然と、唇が引かれ合う。
二度目の口付けはバーナビーの舌が虎徹の口内へと呼び込まれた。
甘く噛み、舐め、そして吸う。
腰に回していた腕の片一方を伸ばして、彼の髪を撫でた。やはりまだ湿気がのこっていた。
――逃げたのは、そんな理由だったからか。
何故か安堵する自分がいた。
「…ぅんっ、ん」
甘く噛む度に、彼の喉奥からは甘いうめきが漏れる。
薄く目を開けば、睫がふるふると震えていた。
こういった行為自体に慣れていない気がした。
もしかしたら初めてなのかもしれない、とも思う。彼の過去を思えば、女性との関係を持つ心の余裕などなかっただろうとしても不思議ではない。
初めて意識したのが自分だったと言う事だろうか?
だとすればなんて幸せな事なんだろう、と心の奥からふつふつの泡のように幸福感が沸いて来る。
髪を撫でていた腕を背中に回し、強く抱きしめる。
すると、彼は一瞬驚いたように目を開いた後、自分と視線が絡み合う事に気付いて慌てて視線をそらし、再び目を閉じた。
彼の抱きしめてくる力も、強くなる。
――ああ、なんか悪い事をしてしまったな
などと虎徹は思った。
暴いた末の結果がこれだ。
何故もっと早くに気付かなかったのだろう。
あんな泣き方をするまで放っておいたのだろう。
あんな笑い方をさせるようになってしまったのだろう。
不思議と、自分の中へバーナビーの存在はすとんと落ちて来た。
何を言われるよりもずっとずっと深く重い真ん中の場所へと、入り込んできた。
妻の存在を忘れた訳ではない。ただ、椅子が二つに増えただけだった。
彼女の隣に彼の席がある。そして――彼女の席は、今は空白だった。
口付けを解いて、耳元で囁く。
「ごめんな、バニー。気付かなくて」
言えば、驚いたようにバーナビーが硬直した。
そして慌てたように、抱きしめられた腕の中から逃れようと必死になる。
本気を出せば簡単に脱する事は出来ただろう。でもそうしないのは、彼なりの希望と期待だと受け取る事にした。
往生際の悪い相手の唇を、無理にもう一度重ね、そしてすぐに外す。
「お前の席は、俺の中にあるよ」
「――……っ、なに…」
「いつの間にか、お前が俺の中にいるようになってたみたいだって言う事」
「………」
訝しそうに見られる。
しかし、微笑んだまま彼の顔を見ていたら、一度くしゃりと表情が崩れて、再び涙がこぼれ落ちた。
さっきのような泣き方ではない。顔をくしゃくしゃにして、せっかくのハンサム顔が台無しな泣き方だ。
「おじさ……」
ぎゅう、と抱きついてくる。そして肩口へと彼は顔を埋めた。
ぽたりぽたりと染みこんでくる涙が、あたたかい。
「好き、です」
「ああ。俺も、どうやらそうみてぇ」
「好きです」
「ああ」
「好きです」
何度も何度も、バーナビーは壊れた人形のように、その言葉だけを繰り返した。