休日の朝だ。いつもなら惰眠を決め込んでいる虎徹だったが、この日ばかりは出勤時間より前に起きだし身だしなみを整え、いつもの起床時間にさしかかる頃には車に乗っていた。
バンドが鳴れば吹き飛ぶような休みだけれども、今日ばかりは鳴ってくれるなよと祈るしかない。なにせ三日前に、珍しく娘からこの日は帰って来るようにとの厳命があったからだ。
日ごろ父親らしいことを何もしていない自分へのおねだりは、滅多にない。
今日は帰るからと連絡しておきながら帰れない日も続き、既に娘は諦めもしてるのかもしれない、我が儘を言う事はまずなくなってしまった。
それが寂しいと思うのは、仕方のない事だ。亡き妻の忘れ形見。目の中に入れても痛くない程愛らしい自分の娘に愛想を尽かされるのにはまだ早すぎる。思春期まではパパ大好きと言ってもらえるつもりでいたのだ。
もっともこの職業をしていれば仕方のない事だった。
いつ呼び出されても対処しなければならない。日夜問わず、曜日なんて更に関係ない。
誰もが自分の正義を持っているように、虎徹の場合の正義は持ち合わせた力もあってか、市民を守る事に徹底されていた。だから事件が起これば即座に駆けつける。脅かされる市民があってはいけないからだ。
だから、仕方がないのかもしれない。
土産のキッズストアの袋をサイドシートに置き、それでも今日は絶対ね、と画面越しに力んだ姿の娘を思い出すと顔がにやけてきた。
まだ、仕方なくはないのかもしれない。
放ったらかしにしている割に、娘はしっかりと育っている。それは偏に自分の母――安寿の力によるものだろうが、せめてと思い出来るだけ頻繁に電話だけは掛けている事も影響していてくれればいいなと思った。
順調に道のりは進む。橋を渡りシュテンビルトを孤立させている大きな川を渡りきれば、到着はまもなくだった。指定時間より随分早くなってしまったが、気持ちが急くので仕方ない。
今日だって本当はあんなに早い時間に起きるつもりではなかったのだ。
昨日は雨の中、みっつの事件を解決していた。体力的にも消耗していたので、高濃度酸素カプセルに入ったところでけだるさは取れなかったと言うのに、現金なものでぐっすり眠ると早朝に目覚めてしまったのだ。
娘に会えると思うと、それだけで心が浮き立つ。
所詮父親なんて人種はそういう生き物なのだ。
「もう、何時だと思ってるの、お父さん! 早すぎるよ」
「すまんすまん」
玄関先で、まず娘に叱られた。
だが久しぶりに生で見る娘はやはり可愛く、顔がにやけてしまうのを止める事が出来ない。
もっと幼い頃なら抱き締めさせてもくれたのだが、昨年辺りからどうも嫌がるようになってしまった。それは成長の証なのだろうが、なんとも寂しい話だ。
「あんたも早く来るなら、電話の一本でも入れなよ」
安寿がその背後で呆れた声を出している。
「こっちはまだ朝ご飯なんだから」
「あ、そうだったんだ? すまねぇ、食べててくれ。――あ、これ楓の土産な」
と、キッズストアの袋を差し出す。
中を見て、少し目が輝いたのを虎徹は間違いなく見た。今回の土産は気に入ってくれたらしい。
「ありがとう、お父さん!」
ぎゅ、と袋を抱きしめて、笑顔で見上げてくる。
その頭をわしわし撫でて、そのままダイニングへと向かった。
昔仕立てのこの家は、血の由来そのままの和風建築だ。
ダイニングと言っても居間を兼ねたちゃぶ台の置かれた空間だったし、そこに並ぶ朝食はだし巻き卵に納豆、干物魚と味噌汁という純和風だ。虎徹自身、これで育ってきた。しばらく食べていないものだった。
「お前も食べるかい?」
余程物欲しげに見ていたのだろうか?
安寿は既に台所へ立ち、昔から虎徹の使っていた茶碗を手に持っていた。
「あ、うん。朝食ってねぇんだ、頼むわ」
「ダメなんだよ、朝ご飯は食べないと一日元気に動けないんだからね」
と、楓が座布団の上に座り一人前の事を言う。
「はは、駄目な父ちゃんだよな」
帽子を取り、後ろ頭をかしかし掻くと、
「ホントだよ」
と、決して本気ではなかろう声で、それでも肯定されてしまった。
「いっつも約束は破るし、電話でだってでれでれしてるし」
「すまん、ホントすまん」
「そう思ってるなら、早く座りな」
「はーい」
安寿が自分の分のお茶碗と味噌汁、干物を持ってきた。
楓の向かいになる座布団の上に座り、あぐらをかくとそのまま久しぶりの匂いにぐうと腹が鳴る。
「お父さん、格好悪い」
「はは」
苦笑を浮かべて、箸を手に取る。
そして久しぶりの味がする朝食を食べ始めた。
この家に帰ってくるのも、数ヶ月ぶりになる。娘は元気だし、母も元気そうだ。電話で確認はしていたけれども、やはり実際に目にするのは違う。
同じ空間で食事を取れる事がなによりも嬉しかった。
些細な学校で起きた話を楓はしてくれるし、自分は食べながら相づちを打つ。自分の仕事は単身赴任の会社員という事になっているから迂闊に話は出来ないが、娘もあまり聞きたいようではなかったのでそれにはほっとした。
しかし、毎日何を食べてるの? ちゃんと部屋は片付いてる? などと言い出すのはさすが女の子と思わざるを得ない。
まあ、片付いているとまでは言えないがそれなりに落ち着く空間にしてあるし、食事は時間があれば自分で作る事もあるし、そうでなければデリで購入。それで問題はない。
それをそのまま伝えれば、「全然なってないよ!」と、楓は言い出した。
「どうせ作るって言っても得意なチャーハンくらいでしょ?」
「い、いや……オムライスとかも、作れるよ?」
「おんなじ! 一度私が行って、お父さんの部屋チェックしちゃおうかな」
「おいおい、俺もそう決まった時間に帰れる訳じゃないんだ。一人の部屋に楓を残しておくのは心配だ」
「――その心配は有り難いけど、私はお父さんの方が心配。こんなのにしなきゃ良かったな……はい」
そして、薄っぺらい箱を渡された。
「知ってる? 今日って父の日なんだよ?」
「え?」
六月の第三日曜日。つまり今日十九日は、父の日にあたるらしい。そう言えばそんなものがあったなと思ったが、記憶からはすっぽり抜け落ちていた。
「ああ、だからか……ありがとな、楓」
嬉しくなる。自分すらも忘れていたそれを、娘は覚えていてくれた。
いそいそと包みを開けると、中に入っていたのはネクタイだった。それも虎徹の好みに合わせてある。
「すっげ、お前良く分かったなあ、楓。これってパパの好きな感じだぞ」
「当たり前でしょ、これでも私、お父さんの娘なんだよ?」
「そうかー、ありがとうな。明日から……いや、今から俺、こっちのネクタイで出勤するわ」
「やだ、毎日ちゃんと変えてよ? そういう細かなおしゃれって女の子はちゃあんと見てるんだから」
一人前の女のような事を言う。
だが嬉しくなった虎徹は、今していたタイを抜き取ると、新しいそれに交換した。
今の服装にもぴったり似合うし、普段に服装にも合うだろう。
黒がベースのそれはそう安価なものではあるまい。きっと小遣いを貯めてくれていたのだろう。安寿がそういう事に口を挟むとも思えない。そう思えば、喜びは倍増す。
「ありがとうな、どうだ? 似合ってるか?」
「うん。私が選んだんだもん、お父さんに似合わない訳ないよ!」
「そっかー、ありがとうな、楓。すげぇ嬉しい」
頭をわしわしと撫でる。それをくすぐったそうに受ける彼女が可愛くて可愛くて、本当にもう抱き締めて家まで連れて帰りたいくらいだった。
しかし、そうこうしている内に、時間はどんどんと過ぎて行く。
楓は今日一日を父のために裂いたようで、それにも虎徹は感激していたが、それでも夕刻になれば家を出なければならなかった。
幸いにもバンドは鳴らなかったが、今も明日も自分にはヒーローとしての仕事がある。
彼女達を守るためにも、自分はヒーローであらねばならなかった。
「んじゃ悪ぃ、そろそろ帰るな」
「うん」
「さっきの楓じゃないけど、ちゃんとした物を食べなさいよ。そして不養生はしないこと。いいわね?」
安寿から釘を刺される。
「はぁい」
帽子を被り、せっかくだからともらった箱に元々のタイを収納して片手に持つと、そのまま外へ出る。母と娘の二人は家の外まで出てきて見送ってくれた。後ろ髪を引かれるように帰るのが惜しい気持ちになるが、これはいつもの事だった。
実家へ帰る度に、家への帰路が寂しくなる。
もう五年も住んでいる家だ。慣れているし愛着もある。だが、家族のぬくもりというのには縁遠い。
そこで、ふと思い出した人物がいた。
家族に最も縁遠くなってしまった、人物だった。
彼は今日が父の日だと言う事を知っているだろうか。何かをしているだろうか――いや、あのリアリストがそんな事をするとは思えない。
だから、ちょっと寄り道することにした。
途中でデパートに寄り、酒を一本購入し、適当にデリで見繕った総菜を買った。
きっと酷く迷惑そうな顔をするだろう事は目に見えていたが、それでも自分が追い返されない自信はあった。
喧嘩ばかりではあったが、近頃それなりに良い関係性を築けて来ているとの自負があったからだ。
そして、案の定の対応を受けた。
オートロック式のゴールドステージ、最上級とも思えるマンションに住んでいるバーナビーは、防犯カメラで自分を認めると、酷く嫌そうな顔をした。そりゃああんまりじゃないか、と思えるような顔だったが、時計を見てそれも頷けた。もうすぐ日付が変わろうとしているような時間だったのだ。
『酔っぱらいはゴメンですよ』
「ばーか、ヒーローが酔っぱらい運転なんかするか」
『その物言いがすでにおかしいんです、あなたは……迷惑になります、早く入ってください』
よっし、と心の中で快哉を上げた。
やはり望み通りに物事が進んだ。
こんなに思い通りになる日なんて、滅多にあるとは思えない。今日の自分はついているという気持ちでいっぱいになる。
ロックが外された証拠に自動ドアが開き、エレベータが目的の階を指し示して扉を開いて待っている。なんて無駄なセレブ空間だと数少ないながらも来る度に思うのだが、便利なのも確かだった。
自分一人乗って、あとは扉が閉じるのを待てば良い。
そのまま目的のフロアへとマンション内の小さな箱は自分を運んでくれる。
そして、絨毯敷きの床を進んで、目的のドアをノックした。
鍵は開いている。それはもう学習した。
「おお、こんな時間にすまん」
「本当ですよ、常識考えてください。明日は仕事ですよ?」
相変わらずの小憎らしい言い方だ。だが彼の扱いには、もう慣れた。
「はいはい、悪かったな。でもギリギリ今日中に着いて良かった」
そう告げ、ラッピング包装された箱をバーナビーへと渡す。
「ほら」
「え?」
「今日、父の日なんだってよ。ほら見てみろ、俺なんてこれもらっちゃったんだもんね」
と、自慢げに胸を張ってみせた。見慣れないタイに彼はすぐ気付いたようだった。
「楓ちゃんにですか?」
「他に誰がいるっつうんだよ。楓ってばすんげー可愛くてよ、今日久しぶりに会ったんだけど、なんつーか、会えなかったからこそ更に増す愛情っていうか? そういう…」
「開けますよ」
バーナビーは無情にもまだまだ語りたかった虎徹の言葉を遮った。
そして、丁寧に包み紙を剥がしていく。
1957年ものの、白だ。それは酷かとも思えたけれども、その年代しか選ぶ事が出来なかった。
「すまん、それくらいしか選べなかった」
「いえ――いいんです」
意味する事が分かったのだろう。
ラベルを見て、バーナビーはじっと動かなくなった。嫌な記憶を呼び起こしてしまったかもしれない。その年代は、彼が父を失った年だった。
「ありがとう、ございます」
「いや。逆にすまない」
「――いいえ、ありがとうございます。きっと父も喜びます」
微笑むと言うには微弱な笑顔で、彼は虎徹を見た。
じわり、と胸が切ない気分になる。
「よし、飲もう」
「え?」
「それ、飲んじまおうぜ。つまみも買ってきた。一緒に飲んで、お前の親父さんの話でもしようや。それともそれが辛ければ、なんでもいい。適当に話して過ごそうぜ」
「何を……明日は仕事ですよ?」
「一本くらい平気だろ?」
「まあ、そうですが」
父性が刺激される。彼を庇護対象として見てしまう。
さっき彼が自分に向けてきた視線は、まるで幼い子供のようだった。
手を差し伸べずにはいられなかった。
「ほら、コルク抜きコルク抜き。こっち用意しとくからさ」
「余り散らかさないでくださいね」
この家にはソファやダイニングと言ったものがない。だから直接デリの袋から取り出したいくつもの総菜を、デリの包み紙を下に敷き広げて行った。
置いて行かれたワインと、小さな机の上に飾られた家族写真を見る。
「――なあ、あんたも心残りだったろ?」
あんな子供を残してあの世へ行ってしまうなんて。
その分、自分が甘やかすからさ、などと心の中で告げると、コルク抜きを持ってきたバーナビーからそれを受け取った。
彼は、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
きっと酒は一本では足りないだろう。だがこの家には大量のワインが眠っている事を知っている。
たまには、親子で酒を飲むような気分で飲み合うのもいいか、と思った。
例え明日の朝、宿酔いで辛い事になったとしてもそんな日が存在してもいい。