無気力でやる気が出ない。
ベッドに転がったまま、バーナビーはぼんやりとブラインドの閉じた窓の方向を見る。
眼鏡を掛けていないから、視界は不明瞭なままだ。だから余計にこんな無気力になるのかもしれない。
昨日から今朝に掛けて、大雨が降っていた。シュテンビルト内でも一番上の階層に住むバーナビーのマンションは、その雨音の激しさに眠りを邪魔された程だった。これが中級以下の層ならばまた少しは違ったのかもしれないが、だが好んでそちらへ住まいたいとも思わない。
このマンションはなにもない空間ではあったが、だからこそ好んでいた。
しかし、やる気が出ない。そろそろ起きなければならない時間だと言うのに、体が言う事を聞いてくれそうにない――いや、聞きたくない。
寝不足のせいだろうか? かったるい気配は体中に巻き付いて離れない。
もういいかと思って目を閉じた。
ぼんやりとした視界が遮断される。黒い闇が世界を支配した。
その中に浮かぶのは、一人の男性の姿。
――分かってる、もうそれはいい。
彼は関係ない。自分のだるさに彼なんて欠片も関係ない。自分の精神に影響を及ぼす存在ではない。
だから、構わないのだと目を閉じたまま、仰向けになった。
眠気がとろりとやって来る。
今日はこのまま、休んでも良いかもしれない。サボりだが、今まで優秀に過ごして来たのだから一日程度構わないではないかと思ってしまう。
しかし、定刻六時五十五分。
パチリと目は見開かれていた。
そして自動的に体は起きあがり、出勤の支度を始める。
ああ、こんな簡単に意志を裏切ってしまう体が恨めしいと思いながらも、苦いコーヒーを飲んだ。
「おい、どうした? なんかお前顔色悪ぃぞ」
「別になんでもありませんよ」
端末に向かっている所に、同僚――バディでもある虎徹がやってきた。いつも通り遅刻ギリギリの時間だ。九時丁度に席に座ると、セーフなどと言っている。
端末が立ち上がっていない、仕事の出来る状況ではない。それでは遅刻と同じだと思ったが、いつもの事なので億劫になってバーナビーは口を閉ざした。
端末で見ているのは、今日の新聞記事だった。家でもざっと目を通したが、めぼしい事件は起こっていないように思う。しかし一社だけの新聞では当てにならない。
傍らをちらりと見れば、どこかで買ってきたのだろう、虎徹はペーパーの新聞に目を通していた。
なんだやってる事は同じかと思うとどこか苛立つ。
まあ、実際に事件が起きたとしても新聞に掲載されるようなものは既に終わった事件か、自分達ヒーローの介入するものではない、警察の範疇のお仕事だ。
しかし一応のチェックは怠りたくない。バーナビーの場合、どこにウロボロスのヒントが隠されているか分からないから余計にだ。
些細な事件から大規模な政界の汚職事件まで。
それら全てに目を通して不自然なものはないかと頭を働かせながらチェックする。
虎徹はやがてばさりと音を立て、新聞を閉じると大きな欠伸をしながらようやく端末を起動させた。
彼にとってのめぼしい事件は見当たらなかったのだろう。
自分とは違う視点で見たら、ウロボロスについても何か分かるかも知れないが、彼はもう既にその存在を知っている。違和を感じたなら知らせてくれるだろうくらいの信頼は抱いていた。
しかし、今日はなにもなかったらしい。いや、正確に言うなら、今日も――だ。
彼の目が節穴なのか、それとも関連する事件が全く起きていないのかはさっぱり分からない。
だがバーナビーもやがておおまかな新聞各サイトを見終えて、それらのページを閉じて行った。特に引っかかるものは存在しなかった。
世間は何かと騒々しいが、手掛かりはこんなにもない。
焦れた気持ちは、反転してけだるさに繋がる。
しかし、こんな事は二十年間続けて来た事だった。
近頃の自分は緩んでいる、と思う。
けだるさも無気力さも感じていて良い筈がないのに、時折それが全身を支配するのだ。
今もそうだった。
無気力感が溢れている。幸いにもPDAの鳴る気配はない。
「トレーニングセンターへ行きます」
このままではダメだ、と思い席を立った。
横で虎徹が「お?」と言う顔をしている。
斜め向かいの席に座る女史が「分かりました」と了承するのを聞いて、自分は部屋を出た。虎徹と違い、急ぎやらなければならない仕事は特に存在していない。
体を鍛えるのもヒーローの仕事のひとつだ。無為に時間を過ごすのならば、そちらへ時間を割いた方がいくらかもマシだと思った。
だが、数歩も歩かない内に背後からばたばたと追って来る足音が聞こえる。
「おい、バニー。行くなら俺も行く」
「おじさんは書類がたまってるでしょう?」
「今更一日二日ずれたところで構いやしねぇよ」
はぁ、と息を吐く。
この人のこんなルーズな面は、自分の持ち合わせていないものだ。いっそ羨ましくさえある。
「まあ、どうぞ。ご自由に」
「え、送ってくれないの? 一緒に行こうぜ」
「誰が仲良しこよしで行かなきゃいけないんですか。あなたも自分の車があるでしょう?」
「せっかく同じ場所に行くんだし、バディなんだから構わねぇじゃんか」
理論の飛躍、良く分からない。
しかし今度吐いたため息はどこか諦めにも似た苦笑のため息だった。
どうせこう言い出したら、彼は話を聞きやしない。
返事をせずにいても彼はそのままついてくる。そしてキーレスエントリーをすると当たり前のようにサイドシートの扉を開き、彼は座り込んだ。
悪態を吐くのも面倒臭い。
「シートベルトしてくださいよ」
「あ、分かった」
しゅるり、と音を立ててシートベルトを引っ張り出すと、かちりと音をさせ、それを固定する。自分も同じようにして、出発させた。
自社からジャスティスタワーまでの道のりは、まっすぐだ。それに時間の掛かるものでもない。
渋滞が起こるような時間帯でもないので、ふたりきりの空間はすぐに終わってしまった。
到着し、車を降りる時にどこか詰めていた息をゆっくりと長く吐き出したのは、何故か知っているが告げるつもりはない。
彼の事が好きだった。
そして彼も自分が好きだった。
お互いの気持ちは分かっている。だが、何も出来ないのが今の状況だった。
告げ合った訳ではない。ただ、肌でそう言うものは感じる筈だ。少なくとも自分はそうだと思ったし、間違えではないと思っている。ならば自分より長く生き、経験も少なくはない虎徹ならば自分のあからさまな好意を感じていない筈がなかった。
緊張がそこには存在していた。
どちらが先に告げるか、と言う緊張だ。
惚れた方が負けとは良く言うが、既に互いが惚れている状況だ。男同士で惚れたも何もあったものじゃないが、だが明らかに純粋ではない好意が互いの中にあることはわかりきっている。
要するに、欲望を伴っている。
だけど、そこへ足を踏み入れるにはまだ少し怖いという緊張だった。
どちらかが踏ん切りをつければ、きっとそんなボーダーラインは簡単に消えてしまうのだろう。
だけどまだ自分は無理だと思ってしまう。
そして、いつもは無駄口ばかり叩く虎徹が車内では無言だったように、彼もまた同じ緊張を抱えているのだろう。
恋愛の駆け引きなど、知らない。
女性経験がない訳ではないけれども、それは例えば言い寄られた上、押し切られて付き合った相手だったり、もっと簡単なものだと一夜限りのものだってある。
だから、自分から好きになって自分からどうにかしたいなんて感情を抱くのは初めてなのだ。
なので持て余してすらいる。
気持ちの緩みの原因だ。心が緩んでいる。倦怠感はそんな緊張に疲れた自分への忠告だろうし、けだるさはそんな自分の疲れに違いない。
ジャスティスタワーの入り口を二人とも無言のままで通り、エレベーターに乗る。
自分達は既に顔パスだ、司法局も数多いとは決して言えないヒーローの顔くらいは全て覚えている。
そのまま浮遊感の中も無言の緊張に耐えながら、トレーニングセンターのフロアへ到着した。
誰か来てるといいな、と思った。だがこの早い時間、トレーニングセンターは無人で二人を待ちかまえていた。
「なんだ、誰もいねぇのかよ、なってねぇなあ」
と、虎徹は言いながらロッカールームへと向かって行った。自分もその後に続く。
ふたりきりか、と言う事実にじわりと喜びが沸き上がると同時に、言い知れない不安感のようなものも訪れる。
ロッカールームでは早くも虎徹はシャツを脱ぎ、用意してある自分のTシャツを手にしようとしていた。
何度だって見ている、彼の半裸だ。
そんな物に今更何も感じる筈がない。なのに、バーナビーはロッカールームの途中で足を止め、その姿をまじまじと見てしまった。
そんな事はお構いなしに虎徹はTシャツを被り、袖を通す。
彼は着痩せする。ぴったりとしたTシャツ姿になれば、彼の体にはしっかりとした筋肉がついている事が良く分かった。むき出しになった両腕は、筋肉がきちんと付き盛り上がっている。
「おい、どうしたバニー?」
「え、ああ……別に」
まさか見惚れていました、とも言えない。
曖昧な返事をし、彼の隣のロッカーへと向かう。
その途端だった。
腕を取られ、そのままロッカーへと背中を押しつけられる。
「なんで、見てた?」
「――………」
反則だ、と思った。
このタイミングで何を言い出すのだろうこの人は。
「だんまりじゃあ分かんねぇぞ。何で見てた?」
語尾だけふわりと柔らかかった。そんなの反則だと思った。
表情は厳しいようでいて、口元だけがわずかにほころんでいる。
「見てた、訳じゃ」
「いや、見てただろ?」
「――……見て、ないですよ」
まっすぐの視線に耐えきれなくなって、視線を逸らす。最悪のやり方だと思った。こんなのじゃあ、自分が嘘をついていると認めているも同然だ。
「俺は見ててもらっても構わなかったけど」
まさかここでラインを越える気なのだろうか?
不意打ち過ぎて動揺する。
「なに、言って」
「俺はバニーになら、何見られても構わないよ」
だがこんな物は不意打ちだと相場が決まっている。誰も予告して告白などしない。
大人になればなるほど、呼び出しのラブレターや思わせぶりなメールなど、なくなっていく。
それにこれは、予め知っていた事だ。
自分が彼を好きな事。
そして彼も自分を好きな事。
予告期間なら、十分にあった。ありすぎたくらいだ。
肩を押さえつけられ、至近で彼は自分を見つめる。
その視線が怖くて、バーナビーは視線を上げる事が出来ない。
「俺の勘違いだったのかな」
かたくなに見上げようとしない自分へ向けて、決してそんな事を思っていない声音で彼は言う。
ずるい人だと思った。
ずるい、大人だ。
「反則ですよ」
「何が?」
「こんな、やり方……」
「でも、いつかってのは分かってたろ? お互い子供じゃねぇんだ」
「――……」
「ほら、こっち見ろ、バニー」
言われて、おずおずと視線を上げた。
彼の声音がそれまでと違い、あまりにもいつも通りだったからだ。
そこには、笑顔の虎徹がいた。
「今更、だろ?」
に、っと笑われるとこちらはもうどうして良いか分からなくなった。
近づいてくる唇を受け入れる。
目は反射的に閉じた。
柔らかな口付けは、緊張も緩和も倦怠もけだるさも、全て奪い取るような、それでいて新しいなにかを自分の中に植え付けるような、そんなものだった。
「――好きです、おじさん」
「ああ、俺もだ、バニー」
行動は先に取られてしまった。せめてもの意趣返しにと、自分から告げてやる。
今までの時間は一体なんだったんだろう? と思わせるほど彼はあっさりと受け入れ、そして再びキスを落として来た。