雨が続いて、鬱陶しい。
ただでさえ癖毛なのでそれが乱れるのが気になるし、湿気はじんわりと胸に沈んで憂鬱な気分にさせる。雨音だけは聞いていればそれなりに心地良いものだが、一歩外に出れば衣服が濡れて気持ち悪い。
雨に果たして良い効用があるのだろうか。
などと、社内の席で窓に叩きつけるように降る雨を眺めながら、バーナビーは小さくため息をついた。
つい最近、大きな事件が終結した。
自分の胸のつっかえも取れたのだと思う。
しかし心境が晴れないのは偏にそれから降り続くこの雨のせいに他ならないと思う。
それとも、心の真ん中にぽかりと穴が空いてしまったせいだろうか。
「おい、サボりならこそこそしろよ?」
隣の席から声を掛けられてしまう。
「僕の仕事はもう終わってますよ」
堂々と窓を向いていた自分には、咎められる理由がない。ちぇ、と虎徹――相棒が舌打ちすると、彼はプリントアウトした数枚の書類を取りに行き、まとめるとこの部屋唯一の女性へと渡していた。
「遅くなってすんません!」
「本当に」
始末書の束だ。
それでもまだきっと追いついていないだろう。
別に手伝ったところで構わないのだけれども、そこで甘えを生んでも困る。
要するに、今後もガンガンぶち壊してもらっては困る、と言う事だ。
彼の略式裁判出席率はヒーローの中で群を抜いている――と、言うか彼くらいしか出席したことがないだろうし、その度にすまんだのごめんだの言っているけど、反省の印は見た事がなかった。
だから、自分は彼の「ごめん」の言葉を軽いものとして扱った。
――あんな事に、なるまでは。
彼の動きはいまだに少しぎこちない。退院したはいいものの、完治した訳ではないのだ。
退院だって無理を言って早めに切り上げたと言う。
まったく、と思う。
我が身を省みない人が傍にいると、自分が乱される。
彼へ好意を抱いてると気付いたのは割と早い段階だったと思う。明確にそうだと思ったのは、誕生日のサプライズの時だ。
あのときにははっきりと、彼が好きだと思っていた。
バカだと思っていた、無謀だとも、無茶だとも。
だが、傍らに立てるバディならばそれでいいと思っていたのに、ああやって自分の為に結局無茶をするのだから卑怯だと思った。
心は日々進化する。
ずっと凍っていたものが溶け始め、それが完全に解凍しきってしまうと過去のわだかまりは去り、そしてそれを支えてくれた相棒がそこにいた。
さあ、この気持ちはいつまで自分の中に留めておけるのだろうか。
彼がノーマルなのは知っている。自分だってそうだと思っていた。過去の経験は、女性しか存在しない。彼だって左の薬指にはまるのは婚姻を結んでいた証拠だし、妻は既に他界していると聞いているが、彼の中では生きているのだろうと思う。
そんな相手を想うなんて、本当にバカらしすぎる。
だけど、乱されてしまうのだ。自分自身が。
この心はこのまま、埋もれるまで心の底に沈んでいればいいなと思っていた。
日の目を見る機会などなくて良い。
自分は最高のバディとして彼の傍というポジションを得れている。それだけで十分に心の充足は得られていた。
だから、これ以上心よ進化するなと思った。再び凍っても良いから、この思いは成長させてはいけなかった。
雨の窓ガラスに叩きつけれられる雨粒は、哀れだと思う。
大きな雫の形を作るのに、次々と襲いかかるそれに上書きされてすぐに消えてしまう。
ああ、そうだと思った。
あんな風に自分の心も上書きしてしまえばいいのかもしれない。
――もっとも、そのような存在が、今の周囲に存在していなかったけれど。
今までずっとバリアを巡らせたような生活をしていた。
彼のように、ノックもなしに踏み込んでくるような人間などいなかった。
そんな人間に出会えるまで、後どれくらいの時間が必要だろうか。
次々と生まれたは消えて行く雨粒を眺めていると、いつの間にか時間が過ぎていた。
「おう、昼飯行くか」
「え?」
時間の感覚のなさに驚いてしまった。慌てて時計を見れば、正午を少し過ぎている。
「外まで出る気ですか、こんな日に」
「社食に決まってんだろ、今日はさすがに出たくねぇよ」
ざざぶりの雨は、虎徹ですら辟易するものらしい。
「色気ないですね」
「まあ、お前に色気出してもしょうがねぇし?」
ほら、行こうぜ――などと簡単に先に歩いて行ってしまう。
確かに自分は相棒で、同僚だ。色気など出してもらえる相手ではない。
些細な言葉に傷ついている自分がイヤだった。
彼の後をついて、社食へと向かう。
この会社はメディア系であるだけあって、社食も広く、設備も良い。時に俳優や女優なども使用すると言うのだから味の方もお墨付きだ。
ただし、こんな天気の日に混むのは目に見えている事であって、自分と虎徹が到着した時には、既に席が全て埋まっていた。
「あちゃー」
「まあ普通、こうなりますよね」
はぁ、と小さなため息をつく。自分の心にばかり向き合って、この事態を想定していなかった自分にも腹が立ったのだ。
「しゃあね、外行くか」
「え?」
「だって腹減ったろ?」
「――それは、確かに」
正直を言えば差程減っていなかったのだが、虎徹の傍にいたい気持ちがそう答えさせていた。
「じゃあ、ちょっとくらい濡れてもいいじゃねぇか。行こ行こ」
と、手を引く。
そのことにドキリとした。
「お、おじさん。手を引っ張らなくても!」
「おお、悪ぃ悪ぃ」
ぱっと離された手が、少しだけ寂しい。自分で言ってやめさせたのに、なんて事だろう。そして、そんな事に左右される自分が少しだけ悔しい。
彼にとってはなんてことのない仕草なのだ。
ここに一喜一憂している存在がいることなんて、気付いてもいない。
胸の奥にずんと大きな石が沈んだ事に気がついた。
胸が鬱ぐとはこういう事を言うのだろうか。
仇を取るまでは、と自分のあらゆる心に蓋をしてきたので、色んな事を自分は知らない。
バーナビーはそのまま虎徹の後をついて、エレベーターへ向かう。
やがて到着した箱は空っぽで、二人きりの空間になってしまった。
地上までの数秒間、自分は息を詰めていた。
バカバカしいと思う。何をしているんだとも思う。
こんな思いは今までと同じに蓋をして見なかった事にすればいいのだ。
そうしている間に、地上階へと到着した。
彼の名を呼びたいな、と急に思った。
彼の妻は当然のように彼を名で呼んでいただろう。彼女の真似をする訳ではない。ただ、それが羨ましいと思っただけだ。
雨はやはり大粒で、地面に叩きつけられ大きなしぶきを上げていた。
「これ、本当に出るんですか?」
幸いにも傘は受付で貸してもらえた。しかし跳ね返りまでは傘で防げない。
「まあ、どうにかなるだろ。濡れたところでどうにでもなる訳でもなし」
「――はぁ。まったくあなたって人は」
おおざっぱな人だ。
衣服はそれなりに良いものを身につけているというのに、頓着しない。
彼の部屋に行ったこともあったが、床はビールの空き缶と脱ぎ捨てられた服で散乱していたのを、あわてて片付けていたのを思い出す。
ふと、笑みが頬に浮かんだ。
ああ、この人のプライベートを自分は知っているのだと今気付いた。
「行くぞ」
「はい、しょうがないですね」
跳ね返りはあきらめた。彼が濡れると言うのなら、自分も濡れてやろうと思った。
そして一番手近なカフェへ入る。
たったそれだけの距離で、パンツの裾は絞れそうなほどにぐずぐずだった。
どうせこれだけ濡れてしまったのなら、もっと遠くでも良かったなと思う。
彼と傘を並べて、つまらない話をして。
駆け足なんかでたどり着いたカフェではなく選んだ店に入ってみたかった。
「ま、腹の足しになればいいか」
「僕は構いませんよ」
思いとは裏腹な返事をし、オーダーを取りに来た店員に、自分はクラブハウスサンドを、虎徹はグラタンをオーダーし、それぞれアイスコーヒーも追加した。
「なんか今日のお前、憂鬱そうじゃね?」
「まあ、雨ですからね」
「あれ? お前雨の日にトラウマでもあったか?」
両親殺害の日は良く晴れた日だった。その事を虎徹も知っている筈だ。
「いいえ、気鬱になりませんか、こうどんよりして気圧が下がってると」
「そうか? ……ちょっとは涼しくなっていいなぁとは思うけど」
この人とはどうも感性が合わない。
そのことに笑えてくる。
「なに笑ってんだよ」
「いいえ。湿気が満ちて蒸し暑くなるだけですよ、雨なんて」
「降ってる間はそうでもないだろ? 俺は雨を全面的に擁護する。そうじゃなきゃ、コメとか作れないんだぜ?」
「なんですか、それ」
「コメだよ、コメ。ライス」
「ああ」
彼は日系人だ。ライスをこよなく愛しているのは知っている。
和食店に入りたがる事もしばしばで、時折付き合ってもいた。
「今日、それじゃあコメの酒を飲みに行きましょうか?」
誘ってみれば、虎徹は目をまんまるにした。
「どうしました?」
「いや、バニーからのお誘いなんて珍しいお話、って」
「僕だって気鬱になれば、酒にでも逃げますよ。たまにはそういう事だってあります」
「へぇ」
コメの酒があると教えてくれたのも、虎徹だった。
普段行きつけの店には置いてないけど、とっておきの店があるとも言っていた。
そのとっておきに連れて行ってもらえるだろうか。
「あなたの知ってるお店に連れて行ってもらえますか?」
「そりゃあもちろん」
と、運ばれてきたクラブハウスサンドとアイスコーヒー二人分が、合間に挟まる。
「構わねぇよ、でもありゃ強いからバニーには無理かな」
「それは飲んでみないと分かりません」
「じゃ、ちょっと飲んでみっか」
「ええ」
些細な約束を取り付けた事に、心が歓喜している。
お手軽だなと思っている間に、遅れて虎徹のグラタンが届いた。
ふたりで食事を取る。
考えてみれば、良くこうやって食事を共にする機会はあるけれども、食事という行為は性的だなと思った。
なにせ欲望をそのままぶつけている姿で、無防備になる。
思わず自分のサンドウィッチをくわえながら、彼が食べている様子を見てしまった。
欲しい、と思う心には蓋をした方がいい。
だけど溢れそうになるそれにどうやって蓋をすればいいのだろうか。
余程重い石を乗せなければ蓋なんて簡単に破って出て来てしまう。
些細な約束ひとつで歓喜する心は、蓋を簡単に弾いてしまう。
彼が自分をじっと見ている事に気がついた。
「どう、しました?」
「いや」
サンドウィッチを食べる。その姿は余り見られたくない。さっき自分が見た視線と似たような目で彼も自分を見るからだ。
「旨いか?」
「ええ。一切れ食べます?」
「ああ」
と、言うと自分の腕を掴んで、食べさしのものを彼は口に含んだ。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
そして、半拍ほど置いて、かっと顔に血が昇るのを感じた。
「――お前さ、もういいんだから。欲しいものは欲しいって言えよ。物欲しそうに見てるだけとか我慢しなくていいんだぜ?」
彼は何を言っているのだろう。
音がわんわんと鳴り響いて上手く脳に伝わらない。
「俺は、ただじっと待たれてるのなんて、イヤなんだけど。聞いてる? バニーちゃん」
「………聞いて、ます」
聞いてはいるけれども意味が上手く把握出来ない。
そもそもこんな会話は昼間に行われるものなのだろうか?
「まあ、続きは今夜にね」
と、掴まれた腕に残っていたサンドウィッチを全て食べ終えると、指まで舐られた。
「――っ」
もう食事なんて気分じゃない。
雨? そんなもの知った事じゃない。
気鬱な気分も吹き飛んだ。蓋なんて弾け飛んだ。
「虎徹、さん」
「ん?」
彼はとびきり甘い顔で、自分を見た。