定時のベルが鳴ると、虎徹は上機嫌で席を立った。コメの酒を飲みに行くのだ。昼間に約束した。
自分も若干浮き足立っている事が分かる。それでもなるべく冷静を装いながら、帰宅の準備をする。
「なあ、バニー。俺んちの近くだからそのまま泊まりでもいいよな?」
「え? あ、はい」
あの甘い顔は、未だ続いている。自分は怖くなって名前を呼べないでいる。
心が溢れ出してしまいそうで、もうバレバレなのに貪欲な気持ちを知られるのが怖くて、彼の事を呼べない。
しかし、彼の家に泊まるのかと思うと動揺は激しくなった。
何度か虎徹の家には行った事はある。泊まった事だってあった。その時はまだ心が凍り付いていたから何とも思わなかったが、今思えばなんて勇気のある事をしたのだろうと思う。
今日、彼の家に泊まって自分は大丈夫だろうか。それこそ心臓が止まってしまうんじゃないだろうか。
まるで少女のようだと、自分の心境を鑑みて苦笑する。
「おい、行くぞ」
「は、はい」
とっくに帰宅準備を整えていた虎徹は、部屋の入り口に立ち自分を待っていた。
昼から、完全に虎徹には有利に立たれている。
うっかり名前を呼んでしまったのが悪かった。全てバレてしまったのだろう。
あの甘い顔は自分にばかり向けられていて心臓に悪い。きっと分かってやっているのだろうからタチが悪い。
お陰で午後は仕事がろくにはかどらなかった。報告書を何件か提出しなければならなかったのに、自分としてはあり得ない事に全て片付ける事が出来なかった。
明日、取り戻すしかないだろう。しかしこの浮き足だった気持ちのままで果たしてそれは可能なのだろうかと自分に疑問も抱く。
彼が中心に世界が回っている。
今まで復讐しか知らなかった心が最初に得たのが、こんな恋情だなんて報われなさすぎる。
しかし、彼の意図するところが良く分からない。
欲しい物を言え、と彼は告げた。
でも本当にそれを与える気はあるのだろうか?
彼は過去に婚姻している。至ってノーマルな性癖の筈だ。今更自分を受け入れるなんてことは想像出来ない。あくまでもバディとして最高の扱いをしてもらえるだけだろう――と、あり得ない期待を抱こうとする自分の心に重しを乗せる。
そう、また蓋をする。
車は置いて、メトロで店へは向かった。
虎徹の家の近くだとは言え、徒歩で帰れる距離ではないからだそうだ。さすがに飲酒運転はマズイとの判断はヒーローをやっている以上、出来る。
帰宅ラッシュ時の混み合った車内は慣れないもので、立ち位置を探すだけでも苦労する。それをさりげなく虎徹がカバーして、場所を確保してくれるのだから、ズルイ。彼は時折電車通勤もしているようだから、きっと慣れているのだろうが、こんな風に扱われてしまうと自分がまるで弱い女性にでもなってしまったような気がして落ち着かなかった。
コメの酒を出す、と言うバーは比較的こぢんまりとした、いつも虎徹が飲んでいる店の一回りは小さいであろう店だった。だが内装といい、客層といい、そう悪くない。
虎徹は身につけているものも含めて、基本的に趣味はいいのだ。ただ本人が台無しにしているだけで。
「静かなバーですね」
「ああ。俺のとっておきの隠れ家だ。人に教えるのは、お前が初めて」
え、と目を見開くと、虎徹はカウンターのスツールへと座ってしまった。顔なじみなのだろうバーテンダーと軽い会話を交わしている。
「おい、なにやってんだ?」
「あ、はい」
慌てて、彼の隣のスツールに腰掛けた。
「珍しいですね、ご友人ですか?」
「ああ、仕事の関係のな」
「へえ。仕事関係の人を連れてくるなんて、よっぽどですね。あなた、会社は嫌いでしょう?」
「まあな。でもこいつは特別」
がし、と頭を抱きかかえられ、わしわしと髪を撫でられる。
動揺することばかりをこの人はする。
「へえ」
その様子を見て、一体バーテンダーはどう思っただろうか。可愛がっている後輩と見ただろうか。それとも同性の恋人とでも見ただろうか。どう考えても今の接触は過剰だ。
「あれ、出してくれよ。日本酒。こいつが飲んで見たいって言うから」
「ええ、何にします?」
「まあ入門編だし――上善で。俺は久保田」
「万寿?」
「まさか。そんなもん飲めるかよ。千寿でいいよ」
何を言っているのかさっぱり分からない。少なくとも酒の銘柄なのだろうが、ジョウゼンだとクボタだのと言う酒の名前は聞いた事がなかった。
「ジャパニーズの酒だ。漢字の名前が付いてる。お前のは入門編ですっきりした飲み口のやつな。俺のはそこそこ」
「はあ……」
やがて出されたグラスは四角の木箱に入れられた透明なグラスで、酒は箱の中にまで溢れている。
これをどうやって飲めばいいのだろうと困惑した。
「そうやって、グラスから溢れるまで注ぐのが礼。取りあえずグラスで飲んで、升――ああ、その木箱な、そこに残ったのはまたグラスに移して飲んでもいいし、そのまま煽ってもいい」
「なんか、難しい酒ですね」
こんな出され方をされた酒など今まで一度もないし、そんな作法がある酒も知らない。
酔えれば良いとばかりにショットグラスやストレートの洋酒ばかりを飲み付けていた自分には随分ハードルの高い世界に思えた。と、同時に虎徹の奥深さのような欠片を知った気になる。
この人はこうやって誰も知らない場所で、こんな時間を持っていたのだと思うと悔しい。
しかし今、自分をその内側に入れてくれているのだと思えばひどく嬉しかった。
「じゃあ、乾杯」
今にも溢れ出しそうなグラスをまさか持ち上げる訳にはいかなかったので、口頭でだけ告げ、虎徹の飲み方を見る。口から迎えに行く飲み方は決してお行儀の良いものではなかったけれども、この状態だとそうするしかないのだろうと思えた。
邪魔な癖毛をかきあげ、自分も真似して飲んでみる。
無色透明な液体は、テキーラやジンとは違って、少しの甘さと芳醇さがあった。
「へぇ……」
「旨いだろ」
「ええ」
いくらでも飲めそうだった。口当たりが良いし、簡単に酔いそうな気配がない。
グラスの中の酒を飲み干し、升の中の酒は、虎徹に言われた通りにグラスへ移した。まさか升から直接飲むのは、なんとなくバーナビーのマナーに反したからだ。
「ペース早いな。言っとくけど、飲みやすいけどその酒結構強いからな」
「そうなんですか?」
「ああ。さすがにジンやテキーラほどじゃないにしても、飲み口がいいから女の子を口説く時に良く使われる」
「――まさか、おじさん」
「してねぇよ」
両手を挙げて、彼は無罪を主張した。
苦笑してバーナビーはそれを受け入れる。
彼を見れば、まだグラスの酒は半分ばかりも残っていた。
確かに、少しペースが速すぎるのかもしれない。そんなに酔う酒なのだとすれば、コントロールしなければいけない。なにせ、自分は心の中に蓋を持っている身だ。酔いなんてのはそんなものを吹き飛ばす良いきっかけにしかならない。
自重をしなければならない。例えもうバレバレでも、求めてはいけない。そんな浅ましい真似をしてはいけない。
彼が例えあんな事を告げたところで、――我慢なんかしなくていいと言ったところで、虎徹は自分を与えるような真似はしないだろう。
残酷な人だ、と思った。
とびきりの甘い顔で、人の心臓をぶち壊すような真似をしておきながら何も与えてなどくれない。
グラスに移した酒を、一気に飲み干してしまった。
「おいおい、バニー。今言った所だろ」
「あ、ああ……すいません。失念していました」
「今の今じゃねぇか。もう酔ってる?」
「まさか」
酔っているとすれば、この傍らの存在に、だ。
目眩がする程酔っている。彼さえ手に入ればそれでいいとさえ思ってしまう。それともいっそ酔ってしまおうか。蓋を外してしまおうか。
彼は一体、どんな反応をするだろう。
自力ではそんな事をする勇気がない。だから、酒に頼ってみる気になった。
「すいません、この人と同じものを」
「え、久保田飲むの?」
「ダメですか?」
「いや……構わねぇけど。高いんだよ」
「なにもおじさんにおごってもらうつもりはありませんよ」
「そういう訳に行くか。ここは俺の行きつけの店。お前は今日はビジター。な、今日はそういうことんしておじさんに甘えとけ」
ヒーローは年俸制だ。昨年度の成績の良くなかったワイルドタイガーは決して裕福な生活をしていないだろう。それに家族への仕送りだってしている筈だ。
「逆じゃないですか? 僕があなたの行きつけの店にお邪魔してるんです。だから僕が支払います。いいでしょう?」
「いや、なんかヘンだってその考え。誘ったのは俺だし」
「いいえ、僕ですよ」
「あれ? そうだっけか?」
昼の記憶であると言うのに、既にもう曖昧らしい。
酔っているのはどっちだと言いたい。
笑いが浮かび、そして同じ形式で持って来られた久保田という酒を口にしてみた。
こちらの方が味がきつい。しかし芳醇さは比べようもなく豊かだった。
これは一気に飲む事が出来ないなと思いながらも、グラスの半分程度を口に含む。
「おいおいおい、だからそんな一気に飲むなって。そういう飲み方する酒じゃねぇんだよ、日本酒は」
「日本酒って、コメの酒の事ですか?」
そう言えばさっきから気になっていた事を、問いかける。
「ああ、そうだ。そんな事も言ってなかったっけ」
「ええ」
ああ、しかし強い酒だと言うのは本当のようだ。
頭の中身がくらくらとし始めるのを感じる。
しかしその感覚は決して気持ちの悪いものではなかったので、もっとと求めてしまっていた。
「お前、次は上善に戻せよ。そんな飲み方されたら久保田がもったいねぇ」
「これ、そんなに高級なんですか?」
「ああ」
ようやく虎徹もグラスの酒は飲み終えたようだった。彼は升の酒をグラスに移すような事はせず、升から直接飲んでいる。
おいしそうに鳴らす喉が、ひどく魅惑的に見えた。
ああ、自分は酔っていると思う。
蓋が外れている。
彼をそんな目で見てしまっている。
彼を真似て、グラスの酒を飲み終わると升から直接飲んでみた。木の匂いがして、心地よかった。
「こいつには上善! な?」
「はいはい」
バーテンダーに告げると、苦笑されていた。
そんなに勿体ない飲み方をしてしまったのだろうか、自分は。
「コメの酒っておいしいですね。こっちの方が好きかもしれません」
「お前、そういうのは飲み方を覚えてから言え。それに日本酒は後に残るから、明日ひどい二日酔いになっても知らねぇからな」
そう言いながらも、杯を重ねた。結局虎徹はそれ以降、上善しかバーナビーには飲ませてくれなかったが、それでも十分過ぎる程に酔いはまわっていた。結局何杯飲んだのか分からない程だった。
会計は、いつの間にか虎徹が済ましていた。気がつけば路上を歩いている。
もうすぐここは、虎徹のアパートメントだ。電車に乗った記憶もなかった。なんとなく、車に揺られた記憶はあったのだが、結局タクシーを使ったのだろうか?
「おい、しっかり歩け?」
「はい」
若干ろれつが上手く回らない。
そこまで酔ってしまったのかと、自虐的に苦笑する。
でも蓋を外すにはそれくらいの酒が必要だった。
アパートメントの鍵を外して、虎徹が中に入る。追って、自分も入るとすぐにその背中へと抱きついた。
「どうしてこんなに甘くしてくれるんですか」
やってしまった、と苦い思いがしないでもない。
はねのけられてしまえばそこでおしまいになる。
せっかく築き上げてきたバディの関係も、全て白紙に戻ってしまうかもしれない。
「僕の気持ちなんて、知っているくせに。何故、こんな事をするんですか」
虎徹は黙ったままだった。ひどい男だと思う。
応える気がないのなら、最初から放っておいてくれれば良かったのだ。今にも弾け飛びそうな蓋だったけれども、それでもそれを必死で死守しようとしたのに。いや、していたと言うのに。
こんな手を使ってくるなんて反則だ。昼間からこの人はずるすぎる。
「虎徹さん。答えてはくれないんですか」
名を、読んだ。
甘い響きではなく、どちらかと言えば責める色合いになってしまった。
そんな声音で、彼の名を口にしたくなどなかった。
「虎徹さん」
だから、改めて呼び直す。自分の好きな響きで。心が溢れ出すような呼び方で。
その瞬間に、虎徹の体がくるりと腕の中で反転し、強く抱きしめられた。
「お前……それ、反則」
「反則なのはおじさんでしょう」
「おじさんとか言うな、名前で呼べ」
「………虎徹さん」
「ああ」
「虎徹さん、分かっているんでしょう?」
「――ああ」
そして、口付けを落とされた。
嘘だ、と思った。
そのまま手を引かれるままにベッドへ導かれた。まさかと思う。彼はノーマルだ。自分に引きずられているだけだと思う。
途中で醒められでもしたら、自分はどうしていいのか分からなくなる。
「やめてください、こんなことして、後悔するのはあなたなんですよ」
「やめられるかよ」
言いながら、彼はベストを脱ぎ、シャツを脱ぐ。
彼の体は決して綺麗なものではない。今まで戦ってきた後が体のあちこちに残っている。
綺麗な筋肉の上に残る、幾筋もの傷。それは、ジェイクと戦ったときに付けられたものもあるだろう。きっと市民の為と自分の為に戦ってくれた傷跡だ。
目がくらみそうだった。
自然に、手が伸びた。その傷跡を指で辿る。
そうしている合間に、虎徹はバーナビーのライダースジャケットを脱がせる。傷を辿る腕を無理に放されて、脱がされたそれは放り投げられた。
「虎徹さん」
「バーナビー、俺は後悔しねぇよ」
「――嘘、ばかり」
「嘘はつかない。すまない、分かってたのに今まで放っておいた」
「………」
「お前が俺の名前を呼ぶ度、響くものを知っていた」
ああ。
蓋なんて、とっくに役目を果たしていなかったのだ。
なんのために躍起になっていたのか、自分の努力がバカバカしくなる。
だが、そうならばもう遠慮しなくていいのか、と思った。
知られた上で、こんな行動を取る以上、彼にも覚悟があるのだろう。
「いいんですね?」
最後に確認をする。
「ああ」
彼はこれ以上もなく、真面目な表情をして答えをくれた。
唇を重ね合わす。
自分には経験が少ないから、こういう時はどうすればいいのかが咄嗟に出て来ない。
だが虎徹はその合わさった唇を割って、舌を差し込んで来た。
その舌がバーナビーの舌を捏ねる。生々しい感覚に、ぞくりと背筋に寒気のようなものが走った。だが寒気じゃないのは分かっている、それは下半身に直結するようなものだったからだ。
欲しくて欲しくて欲しくてたまらなかったものが、今ここにある。
嘘じゃないかとまだ自分は疑っている。
酔ったせいで眠って、夢を見ているのかもしれない。
ああ、夢ならば好都合だ。自分の好きに出来る。
捏ねられた舌を絡めるようにして動かせば、虎徹はゆっくりとベッドに押し倒して来た。
今まで座ったままでキスをしていたのだ。彼は前屈みに立ったまま。
足はベッドの下に残され、上半身だけがスプリングに沈む。
虎徹の片手が自重を支えながら、もう片方の手でシャツをめくり上げて来た。そのまま素直に従って、自分でシャツを脱ぎ捨てる。こんなもの、自分の欲求には邪魔なものでしかない。
ベッドの下へ投げ捨てると、彼はたまらなく甘い表情で、微笑む。
つきんと胸が痛む。
これは夢なのだろうか。こんなに幸せなものが夢なのだろうか。
もしそうなら、きっと目が覚めた時自分は立ち直れないだろう。
そんな笑顔のまま、再び唇を重ね合った。
虎徹の空いた片手はバーナビーの晒された素肌の上をはい回る。それはとても不埒な動きで、酔いで鈍くなっている筈なのにびくりびくりと跳ねそうになるのを必死で押さえなければいけなかった。
「バニー」
耳元で呼ぶ声は、とびきり甘い。
きっと彼を名で呼ぶ時、自分もこんな声を出しているのだろう。
「嘘なら、もうやめてください。これ以上して、やめられたら僕はもう立ち直れません」
「ここまで来てやめろってのか? そりゃねぇだろ」
甘い声の余韻を漂わせ、まだ先があることを彼は告げる。最後のあがきだった。自分を守る事だけには長けている。バリアを張り巡らせていた頃の記憶は、今もまだありありと残っているのだ。今一度同じ事をしろと言われればすぐにでも可能な程に。
その向こう側に彼を押しやるのは――非常に、難しそうだったけれども。
彼は行為をやめようとはしなかった。キスをしていた唇は、そのまま素肌へ移って行く。首筋、鎖骨、肩口、そして、乳首。
男なのだからそんな場所で感じる筈がないのに、既にそれ以前の唇の動きだけで、バーナビーは感じ入っていた。小さく尖った場所を食まれ、舌で転がされると、ぞくぞくとした感覚が下半身へと流れ込む。
「……ぅんっ」
「いいか?」
「……は、い」
彼だって男との経験などないだろう。探り探りの行動だ。こうやって尋ねてくるのも仕方がない。
だが気持ち良いと答えるのは、非常に気恥ずかしい。
だがそこがいいと知った虎徹は、舌で転がし、甘く噛み、そしてまた柔らかく舐めてと繰り返すので、バーナビーは徐々に声を抑えられなくなってきた。
こんな場所が感じるなんて知らなかった。
「……ぅあ、ん」
もぞもぞと、彼が自分のベルトを外しに掛かっている事が意識の端に引っかかる。今はダメだと思った。きっともう勃起してしまっている。
それを見られるのは恥ずかしい――だが、こんな行為自体が既に恥ずかしいものなのだ。
「ぁああっ」
かり、と強めに噛まれて、思わず高い声が漏れた。
一体誰の声だと自分でも思ってしまった。
「はっ、いい声」
「虎徹さんっ」
「悪ぃ悪ぃ……でも、悪い訳じゃあねぇんだろ?」
答えられる筈がない。
だんまりを通していると、逆側へと攻略対象は変わって入った。ベルトのバックルはかちゃかちゃと音を立て、外されてしまった。そしてボタンを外し、ジッパーを降ろされる。
そこはもう窮屈でしょうがない場所だった。
ほっとした開放感を得る。
「お前がさ」
唇や舌で乳首を弄びながらも、虎徹が何かを言い始める。
「俺の名前呼ぶの、すげぇ好き」
「…………」
「初めて呼ばれた時、ドキっとした」
「なんですか、その表現。女子高生ですか」
「可愛くねぇなあ」
と言いながら、彼は笑う。
「だってしょうがねぇじゃんよ。お前ってば俺のこと、『おじさん』としか呼ばないし、それがもう普通になってたから、まさか名前を呼ばれるなんて思ってもいなかったんだよ」
自分だって、彼の事を名前で呼ぶ時が来るなんて、思ってもいなかった。
「だから、ああこいつの事大事にしねぇとなーって思った」
「は?」
論理が飛躍している。意味が分からない。
「名前呼ばれただけでドキっと来るんだぜ? そりゃあ……もう、分かるだろ」
そして、胸元に優しいキスを落とされる。ちゅ、と可愛らしい音を立ててそれは離れて行った。
今まで行われていた愛撫よりも、それはずっと気恥ずかしいものだった。
「お前が名前を呼ぶ度に、含まれるものも。俺が時々バーナビーって呼ぶのも、同じ意味だと思ってた」
「――そう、ですね」
「勇気いるんだぜ? バニーのこと、バーナビーなんて今更呼ぶの」
「それは僕もですよ」
勝手に自分だけ、苦労しているような事言わないで欲しい。自分だってどれだけの勇気を持って告げているか。大事にその名を転がしているか。そんな事は、――いや、きっとお互い様なのだろう。
「だから、我慢なんかもうして欲しくなかったんだよ」
言って、固く屹立した性器を取り出された。
「……んぁ」
「もう我慢する時期は終わった。お前はお前の欲しい物を欲しいだけ手に入れていいんだ。俺も含めてな」
そして、その場所を口に含まれる。
そんな強烈な快感には慣れていない。
シーツを掴み、必死で我慢する。
じゅぷじゅぷと唾液の音が響くのが恥ずかしい。だがそれよりも、より成長していってしまう自分の欲望が恥ずかしい。
たまらなく気持ち良かった。粘膜のこすれ合う感覚や、尖らせた舌が縊れや裏筋を舐めて行く事。そして、すぼまった唇がまるで性器のように自分に吐精を促す。
「も……っ、あ、あ、だめ、です……やめっ」
あっという間の事だ。あっという間に追い詰められた。
こんなに持たない事なんて、一人でしたときですらあり得ない。
いや、一人じゃないからこそ、だからだろう。
欲しくて欲しくてたまらなかった人の施す愛撫だからこそ、耐えられない。
「ん」
そして、虎徹は口を離して手に切り替える。
ごつい手のひらが全体を刺激しながら先端を弄り、更に吐精を促す動きを加速させる。
「や、ああ、あぁあああぁっ」
びくん、と背が反った。彼の手を濡らして、白濁が飛び散った。
パンツは脱いでいない。きっと汚してしまっただろう。だけれども、頭の芯からしびれるような快楽はたまらなかった。
一瞬でおさまらず、まだこぽり、と精液が再び溢れ出す。
「すげ、良く出たな」
「……言わないでください」
顔が羞恥に染まる。
そんな事は自分が一番分かっている。きっと濃い液体が大量に溢れ出してしまっただろう。
だが、そこで彼は終わりにする気は当然ないようだった。
ボトムを本格的に脱がせ、自分を完全にベッドの上に横たえる。
「ま、お前が下でいいよな?」
軽く言い、両足を立てられ大きく広げさせられる。
素っ裸の状態でそれはひどく恥ずかしい。だが、その羞恥にすら感じる自分がいる。
もしかして自分にはマゾの素質があったのだろうかと勘違いしてしまいそうになるくらいだ。
だが、それは違う。相手が虎徹だからこそ、こうなる。
いつの間にか手にしていたチューブから白い軟膏を手に取ると、虎徹はそのままバーナビーの後背へと手を伸ばして来た。誰にも触られた事のない場所。男同士のセックスについて知識などなかったが、普通に考えればそこを使うしかないのだろうとようやく気がついた。
ゆっくりと揉み込まれ、慎重に指を挿入される。
違和感はひどかったが、痛みはなかった。そんな場所に何かを入れるなどとは想像もしていなかったから、痛みを覚悟していたのに余程彼は丁寧に扱ってくれたのだろう。
「バーナビー」
甘い声。
ああ、そんな声で、きちんと名前を呼ばないで欲しい。
指を差し込まれた場所が、きゅっと締まるのを感じる。
心の動きと同じように、真ん中の場所が痺れて、締まる。
「虎徹、さん」
だから、自分も同じように呼んだ。溢れ出す物を隠す事などせず、気持ちのままに口にした。
くしゃり、と彼は笑う。
心臓が痛いくらいだった。
指は内側を広げ、やがて一本だった物が二本に増やされ、三本目までを入れられる。違和感は相変わらずだったが耐えられないものではない。
時折降ってくるキスが、更にその違和感すらも散らしてくれた。
軟膏だったものが溶けて液体になり、ぐちゅりといやらしい音を立てている。
その指を一気に抜かれると、彼は自分のボトムを全て脱ぎ捨てた。
屹立したものを見て、何故か安心する。
そして、それがぴたりと今まで指の入れられていた場所に当てられると、ゆっくり挿入された。
「あぁああっ、あ、ああっ……あっ」
ひどい快感だった。
まさかこんな場所で快楽を得られるなんて考えてすら居なかった。
彼が自分で興奮している。汗をぼたぼた落としながら、必死で抜き差しを繰り返し、そして自分の感じる場所を余す所なく拾い上げ、同じ物を分け与えようとしている。
心の充足は例えようもなかった。
それが快楽の後押しをしているのは間違えない。だがそれを差し引いたとしても、こっぴどい快楽が頭の芯まで痺れさせ、飽和させて行く。
思考がぐずぐずに溶けてゆく。
「あ、あぁああっ、あ、ああっ」
彼が動く度に、声帯は勝手に震え自分のものとは思えない甘ったるい喘ぎを吐き出す。
それが彼を萎えさせるどころか、ますます猛りを増しているのだから、その事が幸福感を呼ぶ。無限の循環だった。
性行為にこんな意味があったなどと初めて知った。
愛情を確認するのに、こんな幸福な方法があるなんて今まで生きてきて知らなかった自分はバカだと思う。だがそんな思考もぱちぱちと弾ける快楽に邪魔をされてかき消されて行ってしまう。
「は……すげ、バニー」
「あ……ああぁあっ、ああ」
虎徹さん、と呼びたい。だが声帯は壊れたように喘ぎしか漏らさない。
彼の掠れた欲情した声が、ずくんとまた体の真ん中を刺激する。
いきたくなかった。ずっとこうしていたかった。
だけど、絶頂感は徐々に近づいてくる。動きの速くなった虎徹とて同じ事なのだろう。
「……は、いいか?」
「ぁあ、あ、あ、は、……ぃっ」
小刻みに、良い場所ばかりを突いて虎徹は動き始める。それは達しようとする動きだ。
かろうじて返事が出来た自分にももう余裕などありはしなかった。
前など挿入されてから一度も触られていないのに、先走りの液でぼとぼとだ。ぐ、と精液のせり上がってくる感覚がする。
「……………っっ」
「ああぁああ――ッ!」
とくん、と精液がこぼれだした。だがいつものような勢いのあるものではない。
内側だけで行ったせいだろうか。
だが思考が快楽に掻き乱され、内側に広がる熱に浸食され、意識が遠退いて行く。
「虎徹さ……」
「ああ、バーナビー」
甘い、甘い声だった。
意識がとぎれる瞬間に耳にしたのがそれで幸せだと思った。
気がついたのはまだ夜の時間だった。自分は虎徹に抱き込まれている。彼は健康的な寝息を立てていた。
夢じゃなかった。体に残る倦怠は、限りなくリアルだ。
起こさないようにしながら、もぞりと姿勢を変えて自分も彼に抱きつく。
そして小さく唇だけを動かして、彼の名を呼んだ。
欲しがっても構わないなら、もう蓋なんて必要ない。
そんなもの、もう捨ててしまおう。
目を閉じれば、再びとろりとした眠気がやってくる。
自分より高い体温にくるまれて眠るというのはなんて幸せなのだろうと思いながら、その眠気にバーナビーは身を任せた。