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Hold one's breath 息を詰める


 息が、詰まる。
 近頃ずっとそんな感覚を味わっていた。それは、自分の相棒を好きだと言う感覚を認めてしまったその時からだ。
 暑苦しい程の彼の好意やおせっかいは自分にばかり向けられていると思っていたけれど、それはとんだ勘違いだった。彼は、誰にでも優しい。そして笑顔を振りまく。下心やそんなものがなく、人としての裏表もなく、だからきっと誰もが表と裏を作って生きているなんて事、知ってはいても実感なんかせずにおおらかに人生を歩んでいる。
 もちろん、一度は崖っぷちとまで言われていた時期だってある。妻も喪っている。決して順調な人生を歩んで来た訳ではないだろう。それでも彼は誰もに笑顔を向ける。
 つっけんどんだった自分にさえも、いつも眉間にしわを寄せてるんじゃないと余計に感じたおせっかいを発動させ、笑わせようとしたり和ませようとしていた。そんな風にして自分に接して来た人なんていないから、きっと自分は誤解してしまったのだ。
 この人は――虎徹は、自分に特別な想いを抱いているのではないか、と。
 もちろん特別には思われている。他のヒーロー達と違い、自分達はバディだ。相棒として認めてもらっている事は知っている。だがそれ以上でも以下でもない。
 彼はパオリンの頭をくしゃりと撫でるし、カリーナに無茶言われても笑ってやっぱり髪を撫でる。
 イワンの事だって庇護対象のように扱うし、アントニオとは古い友達だそうで、良くふたりで飲みに行っているらしい。
 自分はと言えば、毎日職場で顔を合わせ、時に昼食を共にする程度だ。
 髪を撫でてもらった事もないし、飲みに誘われた事もない――いや、正確には昔にはあった。だが、自分がかたくなにはねのけているうちに、虎徹も諦めたのだろう。近頃ではめっきり声を掛けてもらえなくなった。

 好きだ、と思う心はそう感じるたびに増幅されていく気がする。

 だから極力考えないようにしないといけないのに、ふと彼の事を目で追い、じわりと心の奥底から『好き』と言う感覚が浮かび上がる。そして増幅されたそれを心で飼いならすには慣れていなくて、戸惑い、だから息を詰める。
 呼吸が近頃上手く出来ないなと思っていた。
 綺麗な空気が吸えない。
 自分の心は好きなんて純粋だろう想いを抱え込んでいるというのに、それに附随する嫉妬や苛立ちと言った醜いものも同時にふくれあがってどんどん手に負えなくなっていく。
 復讐だけに生きていた、バーナビー・ブルックスJr.と言う生き物はどこに消えてしまったのだろう?
 確かに復讐は成し遂げた。だからこれからは自由に生きて行っていいはずだった。
 だけどこんな自由を望んでいた訳じゃなかった。
 彼を、一度だけ名で呼んだ事がある。
 どうしても溢れ出した気持ちが口をついたのだ。
 そのとき、彼はひどく驚いた顔をして、全ての片が付いた心地よさも手伝って何もかもが上手く行く万能感に支配されていたと言うのに、今の自分はひどく鬱屈している。
「上手く行かないな……」
 心のままの声音で呟いていた。
「どうした?」
 それを聞きとがめられ、虎徹が酷く心配そうな顔で自分を見た。
「いえ……、なんでも」
 失敗した、と思い再び端末に向かった。
 とても新しい人生を踏み出した人間の出す声じゃなかった。彼がまだ自分を見ていることが分かる。柔らかな心配をにじませた視線が横顔へ向けられている。
 その事に幸福感と罪悪感と失望感とがないまぜになった複雑な感情を浮かび、マウスをクリックする指先に思わず力がこもった。
「なあ、すっきり体でも動かして来ねぇ?」
 ぐぅ、と虎徹は伸びをして、なんでもない風にバーナビーへと提案する。
 まだ退院して一週間も過ぎてない。トレーニングセンターへ向かうには早すぎるだろう。自分の怪我がまだ時折うずくように痛むのだから、それよりずっと重傷だった虎徹の体が万全な筈がない。
「いいですよ、まだ傷が痛みますので」
 ああ、どうしてこんな素っ気ない言い方しか出来ないのだろう。
 あなたが心配です。あなたが無理してどうするんですか。誰にでも向ける好意で自分までも抱え込み、あなた自身を痛めつけないでください。
 心はそう言っているのに、そんなニュアンスは欠片も出てこない。
 情けない、と思う。
 息が詰まる。
「そか、バニーも結構な重傷だったもんなあ。俺もまあ、正直まだちょっと痛む」
「なら、無理はしないでください」
 カチ、とマウスを無意味にクリックする。
 声に温度が全くこもっていなくて、自分ですら愕然とする。
 こんな風に声をかけられても誰も嬉しくないだろう。ああ、どうして欠片でもいいから想いを伝える――いや、そんな贅沢は言わない。隠さず匂わせる程度の事が出来ないのだろうか。
「心配させて、スマンな」
 だが彼はそうやって笑うのだ。
 心臓が痛くなる。鼻の奥がツンとした。
 泣きたくなる前兆だとは知っているが、だが実際に自分は涙を流す事などない。
「心配なんかしていませんよ、ただいざと言う時に困りますからね」
 かわいげのない言葉しか出てこない。
 マイナスのスパイラルに陥ったようで、胸の痛みと鼻の奥のツンとした感覚は酷くなるばかりだ。
「なんだ、かわいいのなぁ、ほんっとお前は」
「は?」
 思わず、彼を見た。
 この人は今、一体何を言ったのだろう。
「素直じゃないとこ、全く変わらねぇんだから。かわいいよ、ホントに」
 顔全面に笑みを浮かべて、虎徹は自分を見ていた。
「変わっちまってもそれはそれでいいんだけど、ほんっとぶれないお前っていいわ」
「何……言ってるんですか?」
「そのまんまの事。なんだバニー? 気ぃ抜けてパーになったか?」
「失礼な人ですね」
 ああ、こんな言葉は反射的に出てくるのに、彼の本当の言葉には動揺してしまって何を感じていいのかすらも分からない。
 何を言っているのだろう。自分は冷たい態度しか取っていなくて、まるで昔に戻ってしまったかのように彼に対しては素直な態度が取れなくなっていると言うのに、不感症のように今まで通りの時の流れのまま、自然に接してくる。
 あの、「虎徹さん」と一度だけ呼んだ時、取り乱した彼以外はずっと虎徹は虎徹のままだ。
 ぶれないのはどっちだと言いたい。
 なにも変わらない。
 その事が嬉しくて,悲しい。
「お、おいどうした?」
「いえ、何でもありませんよ」
 多分自分は今、不機嫌な顔をしたのだろう。彼が慌てたように言うのだからきっとそうだ。機嫌を取るような優しい声音だ。
 そんな顔を彼に見せたい訳じゃない。そう思って、自分は再び端末に向き直した。
 その途端に鳴る、昼休みのチャイム。
 そんな時間だったのかと驚くと同時に、逃げるチャンスだと思った。
 だがそんな事を虎徹は許してくれなかった。自分が席を立つよりも早く彼は帽子を被り、自分の肩をぽんと叩いたのだ。
「一緒にメシ食おうぜ」
「…………」
 咄嗟に言葉が出てこない。
 遠慮します、失礼します、嫌です、なんだって言葉はあったのに唇が上手く動かない。
「そんなバニー、ひとりにしとくのおじさんイヤだわ」
「どんな、僕だって言うんですか……」
「んー。悲しそう?」
「は?」
 マウスを持っていた手がぐっと強くそれを握り込んだ。
「どこを、どう見れば僕が……」
「いやだって、さっきすんげー寂しそうっつか悲しそうな顔してたろ。何があったかは言わなくても構わねぇけど、相棒として傍に居てやるから、そんな顔すんなよ。そんで、そんな事忘れちまえ」
「――残酷ですね」
 既に、この部屋にいるたったひとりの女性社員は席を外しふたりきりになっていた。
 不用意な自分の言葉は、だから虎徹の耳にだけ届く。
「え?」
 彼はえらくきょとんとした声を上げた。
 自分の声は決してボリュームが大きかった訳ではない。聞かせるために出て来た言葉じゃない。反射的に出て来てしまった言葉だったからだ。聞こえなかったとすれば、好都合だと思った。
「結構ですよ、僕は今日、ひとりでご飯を食べたい気分です。昼休みなくなりますよ、おじさん早く行った方がいいんじゃないですか?」
 今度は思った通りにつらつらと慣れた言葉が出て来た。
 しかしそれは、彼を鬱陶しいと感じていた時に慣れて使っていた言葉の羅列だ。
 そこまで退化させなければ、自分の心は守れない。
「なに言ってんだよ、ほら、行くぞ」
「離して下さいっ」
 肩を引く手を、思わず振りほどいた。
 マウスを握っていない方の手まで硬く握りしめられてしまっている。
「ばーか、離すか」
「なに…」
「だから言ってんだろ、そんなバーナビーは放っておけないんだよ。ほら、準備しろ」
「なっ」
 名前を、なぜ呼ぶのか。こんなシーンで。
「準備出来ないのか? なら俺もここで一緒にいるけど」
「やめてくださいよ、なんでそんな事をするんですか。誰にでも優しい顔をするのは辞めた方が良いですよ――虎徹さん」
「誰にでもすっかよ」
 お、ようやくこっち見たと呟き、彼はにかっと笑う。
「なんだ、拗ねてたのか?」
「ち、違います」
「そんな区別も付かねぇの? それとも俺がダメだったのかなー」
「区別? 何を?」
 好きに言われているのに動揺して、自分の声がひどくぶれている事には気付いていた。みっともなくて仕方ないのに、会話を中断する事が出来ない。
 いっそ彼を放って部屋を出て行くくらいの事をした方が良いことくらい分かっているのに、体は硬直したように動いてくれない。
「お前と他のヤツが一緒でたまるか」
「僕が相棒だからですか」
「ああ」
 なんて残酷な人なんだろう。
 やっぱり、思った。
 そんな言葉が欲しい訳じゃない。まるでその心まで見透かしたかのような事を告げたくせに、やっぱり期待にトドメをさすよう呆気なく放り出される。
「唯一の、大事な人間だ。――そんなヤツを、放っておけるか?」
「相棒なんて誰だってなれますよ。気に入っているホアンやカリーナとでも組めばいいんじゃないですか? もう僕には相棒を組むと言うメリットはなくなってるんです。ウロボロスをおびき寄せるため、名を売る必要もなくなった。ひとりでやって行けますし、それ以前にヒーローなん」
「バカか、お前」
 つらつら流れる言葉を、ぶつん、と切られた。
「どんな顔してるか、分かってんのか? 鏡貸してやろうか?」
「結構です!」
 ようやく、体が意思についてきた。
 席を立つと、そのまま彼を一瞥もせず、部屋の外へ向かう。
 その肩を、再び掴まれた。
 強い力で振りほどこうとしたのに、彼の腕はびくりともしない。
「誰とも組む気なんてねぇよ。お前以上に気に入るヤツなんかいるか。気付け、バーカ」
「なに」
「バーナビー。お前は、今から新しい人生を歩ける。その傍に俺がいちゃ邪魔か?」
「…………っ」
「バーナビー」
「名前っ、呼ばないで下さい」
「なんで。いつもバニーって呼んだら怒るくせに」
「なんででも、です」
「じゃあ、俺の事も虎徹さんって呼んでくれねぇの? ついさっき聞いた気がしたけど」
 唇を、くっと噛んだ。
 多分無意識で呼んでしまっていたのだろう。自覚がまるでない。
「お前が呼んで、俺が呼んで悪い訳ってなに? なあ、理由は?」
 ぐいと肩を引っ張られ、無理に彼の方を向かされる。
 昼休みはもう何も食べる時間なんて残されないだろう。
 でも、何も食べれるような気がしなかった。
 意地でも彼の顔を見ないよう、視線を下に落とした。
 どんな顔をしていると言うのだろう。自分はきっと退化した彼を馬鹿にしたような冷たい無表情を浮かべている筈なのに。
 なのに彼にはどんな顔が見えているのだろう。
――怖い。
「言ってくんねぇの?」
「………」
「じゃあ、俺が言ってもいい?」
 彼は、ぐいと無理に自分の視界に入って来た。
 驚いて、目を見開く。
「お、顔変わった」
「なに……バカな、事」
 体を折り曲げ、自分を見上げる姿勢だ。
「……ん、結構これ傷に響くな」
「やめてくださいよ、それじゃあ」
「いーや、やめねぇ。その情けねぇ顔やめない限りな」
「そんな顔してま」
「してるよ。それか、全部ゲロっちまえば? その方が楽になれると思うけどな、おじさんは」
 そしてにぃっと彼は自分を見上げて笑った。
 傷が痛むくせに、何をしてるんだろうこの人は。
 何を促しているのだろう。
 そんな事させて、バーナビーという存在をぶちこわしたいのだろうか。
「絶対に、言いません」
 きっ、と睨みつけてやった。
 なのに、彼の笑みは更に濃くなる。
「おー、元のバニーに戻ったね」
 ぎりぎりとにらみ付けているのに、彼と来たら暢気なものだ。
「ま、そんな顔の方がまだしもマシだ。まあ時間はあるんだ、じっくりやろうぜ――バーナビー」
 す、と彼は立ち上がる。彼と視線は重なったままだ。
 そして、くしゃりと髪を撫でられた。
 柔らかい手のひらの感覚が、自分に残されて、もうどうしていいのか分からなかった。
 残酷な人だなあ、と、やはり思う。
 再び、息を詰めた。
 好きだなあと思う心がぷかりと浮かび上がり、また増幅されていく。
 何故、こんな人の事を好きになってしまったのだろう。
2011.7.5.
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