静かな時間が過ぎていた。
午後を過ぎてから、珍しく虎徹が真面目に書類と格闘している。もっともそのキータッチはとても慣れている人間のものではないので、聞いてしまうと苛々としてしまうたぐいのものだったが、それでも彼はこれ以上もなく真面目だ。
水を差してはいけないと思い、たどたどしいキータッチ音を我慢して聞いていた。
そこに鳴り響く、休憩時間のチャイム。
三時からほんの十五分だけれどもティタイムがこの会社では許されている。
「うわー、これすげぇ肩凝るわ」
「いつも真面目にやってないからですよ」
伸びをして、はぁああと大きなため息を漏らしながら虎徹が言うのを苦笑して返す。
「真面目にやってたら毎日肩凝りじゃねぇか。そんなのやだね」
「やだね、じゃないですよ。これも仕事の内なんですから、真面目にやってください」
そう言う自分も、今日は少しばかり書類に追われている。
なにせ、一ヶ月近くも入院のため休んでいた。例のテロ事件の顛末は報告書として上げなければならないのだが、どうしても私情が交じってしまう。なにせ相手は長年追い続けていた両親の仇だった訳だし、あの頃の自分は冷静でいようとしていながら、やはり冷静ではなかった。
虎徹にも酷い八つ当たりをした。 ――信用しようとしていたのに、だなんて。
笑えてしまう。とっくに信用なんてしていたから、あれだけ裏切られたと思う気持ちが強かったのだ。それも、今になれば彼が自分を心配してくれての行動だったと言う事が分かっている。
思い返せば恥ずかしい。そして、そんな彼のサポートがなければ自分は仇を討つ事が出来なかった。
彼はICUに入る程の負傷だったと言うのに。
彼の事が、好きだった。
信頼どころの騒ぎじゃない。恋情を抱いている。
そして、きっとその思いは叶うだろうという楽観的な思いだってある。
彼はきっと自分を振りほどかない。もう自分という存在を受け止めてくれている。それが相棒に対するものなのは分かっているけれども、だがそれ以上に特別に自分を思ってくれているのだとは、そこまで鈍感ではないつもりだ、理解しているつもりだった。
「虎徹さん、今夜空いてますか」
あの事件より以降、自分は彼を極力名で呼ぶように努力していた。
実はひどく緊張する。思いがあふれているのなんてきっと分かっている。最初に呼んだ時は、彼をひどく慌てさせて、愉快な気持ちになった。
だがそれから回を重ねるにつれて、彼はそれに慣れて来たようだし、逆にこっちの思惑を全て読んでいる気がする。名を呼ばれるたび、彼はほんのり笑みを浮かべる。
「いっつも空いてるぜ。どうせ帰ってビール飲んで寝るだけだしな」
「じゃあ、夕ご飯でもどうですか」
出来るだけ、さらりと言ってみた。
だがこんなのは不自然だなんて事、分かっている。自分は今まで極力他人との接触を避けて来たし、彼からの誘いだって跳ねのけて来たのだ。
動悸が激しくなっているのが分かる。多分,顔だって赤い。
どうせバレバレだとしても、これじゃああんまりだ。ここまで自分がバカだったとは思わなかった。どうせなら帰り際まで待てば良かった。この後終業までの時間をどう過ごせば良いのだろう。
「あ、いいよ」
だが、彼はさらっと答えただけだった。
「どうせなら飲みに行こうぜ」
とまで言う。こちらの不自然さをなに一つ指摘してこないのは優しさだろうか、鈍さだろうか。いや――彼の事だ、きっと優しさに違いない。
なんだかんだ言いつつ、彼のおせっかいは全てその優しさに起因している。
人を放っておけないと言うただの彼の傲慢もある。
だが、その傲慢さは嫌いじゃない。いや……好きだ。そんな彼に、多分自分はずっと助けられて来た。鬱陶しいと思っていた時期だってあったのに、彼はめげずに自分に関わってこようとしてくれていた。だからこそ自分だって知らず彼に寄りかかってしまっていたのだ。
そして、今もそれに寄っかかっている。
「そうですね、それじゃあ仕事、終わらせましょう」
「う……。今日中はこれ、無理だと思うんだけどなぁ」
「まあ、まだ僕たちはリハビリ状態のようなものですし。それほど急ぐ必要はないと思いますよ。僕もまだですし」
「え、バニーもまだ?!」
急に彼の声のテンションが上がった。
「よっしゃ、お前がまだなら俺もまだでいい。はー、気ぃ抜けた」
「ちゃんとやってくださいよ、僕を基準にしないでください」
「だっていっつもバニーがさっさと書類上げちまうから、俺は嫌味言われるんだぜ?」
とっくに休憩時間終了のチャイムは鳴っていた。だが一度緩んだ虎徹の集中力は戻って来る気配がない。
見慣れた、端末の存在なんて知りませんと言った顔で椅子の背もたれに体重を預け、のびのびとしている。
ああ、そう言えばまだこの人は怪我人なんだと、思い出さされる。
空いている、と言っていたけどそんな筈がない。時折早めに会社を出て、病院に通っている身なのだ。
「あの、お酒とか大丈夫なんですか?」
不意に気になった。怪我に響かないものなのだろうか?
「ん? 毎晩飲んでるけど?」
「………傷の治り、遅くなりますよ」
「平気だろ? 今までだって平気だったんだし」
「今までと今回じゃあ話は違うじゃないですか」
自分の知らない時から彼はヒーローをやっているが、だが多分、ICUへ担ぎ込まれる程の怪我など負った事はないだろう。
「自分の事、もっと大事にしてください」
「おお、ありがとな。心配してくれて」
直球を返されて困った。
心配なんかしてない、と言えば嘘になる。でも肯定するのは恥ずかしい。
「あれ、ホントに心配してくれてる?」
素の間が空いてしまった。それを彼は都合良く取る。いや都合良くもなにも、それが事実なのだが。
「し、んぱいとか……してると……」
「してるだろ、その顔」
にやりと彼が笑っているのが分かる。声がにやけている。
たまらなく落ち着かない気分になった。
逃げ出したい。ああ、誘ったりなんかしなければ良かった今すぐ帰りたい、彼の前から姿を消したい。
「してたら、悪いんですか!」
「お?」
「あんだけの大怪我だったんです。なのに無茶してまた現場にまで出て来たりなんかするし、心配くらいします!」
ああ、逆切れした、と自分でも思った。でもストップなど効かない。
多分赤い顔をしているだろう。それでも、キッと彼を睨みつける。
「へーえ」
しかし彼は、想像通りのにやけた顔のままだった。
にらみつけてもさっぱり効きやしない。むしろ、笑みは濃くなって行く。
「ま、平気だから。今日のみに行くの楽しみにしてるぜ、バニー」
にぃっと彼は笑う。いたたまれなくなって視線を外したのは、自分の方だった。
全く、なんて事をしてしまったのだろう。
その後、当然のように仕事にはならなかった。もっとも、あれから仕事の時間なんて一時間程度のものだった。するすると砂が落ちて行くように過ぎて行ってしまう。
自分も今日中の書類作成は諦め、終業のチャイムが鳴るととっとと端末の電源を落とした。
「で、どこ行く?」
「え?」
「連れてってくれるの? それとも俺の知ってるとこ行く?」
「えっと……」
しまった、と思った。そこまで考えていなかった。
「まあいいや、俺の知ってる店行くか」
簡単にこっちの逡巡など無視して、虎徹は決めてしまう。その方がありがたかったけれども、また甘えてしまったと言う気分に陥ってしまう。
それはあまりにも心地良いものだから、癖になってしまう。
伸ばした手はきっと受け取ってもらえるだろうと思っている。彼が優しく甘やかすたび、その思いは増す。
だから、万一その手を振り払われた時の事を考えると、怖い。
「おい、バニー? 行くぞ」
「え、ええ」
思わず自分の中に沈み込んでしまっていた。
仇を討って、自分にはもう怖いものはないと思っていたのに、もうこれだ。自分は決して弱くないと思っているが、たまに非常に脆いのではないかと危惧してしまう。
飲みに行くと決めた以上、車を使う訳には行かない。
慣れないモノレールに乗り、楽しそうに喋る彼の言葉に相づちを打ちながら、自分の何も無さに気付いてぞっとする。
仇を無事討った後の事なんて何も考えていなかった。
その後、ヒーローを続けて行くのだろうなと漠然とは思っていたけれども、目的のない人生はさぞや味気ないものになっていただろう。
だが、今の自分には虎徹という存在がある。
そこで辛うじて均衡が保たれている。
「聞いてる? バニーちゃん」
「え?」
はっと彼を見た。
怖い考えに行き当たってしまって、思わず彼の声すらも耳を素通りしていた。
――もしかすると、自分は生きる理由のために虎徹を利用しているのかもしれない。
空っぽになってしまった自分を埋める為に、彼を用いているのかもしれなかった。なんてことだと思った。そんな不純な思い、彼に対して抱いて良いものではない。
「すいません、ちょっとぼーっとして」
「……なんだ」
ぼそ、っと彼が言う。
その声音が、虎徹らしくない。
「え?」
「いや、なんでもない。まあ、気乗りしないんだったら中止にしても構わねぇんだぜ? お前もまだ本調子じゃないだろ」
「いえ、もう全然。大丈夫です」
ここで帰れと言われるのは、正直辛い。
だが、この気持ちに気付いてしまった以上、帰った方が良いのかもしれない。
この感情は、彼を??虎徹を、汚すものだ。
「そっか? さっきからなんか上の空だから、傷でも痛むのかと思った」
「いえ、傷はもう全然……それより、すいません。つい考えごとしてて」
「そうだろうな。難しい顔してた」
表情にまで出てしまっていたのかと、自分の迂闊さに愕然とする。
「気がかりな事があるんなら、仕切り直しでもいいぞ?」
「いえ、そんなの……僕が誘ったのに」
「そんな理由で無理するんだったら、俺は帰るぞ」
「え」
きっぱり言われて、バーナビーは焦った。
「お前が俺と食後も一緒に過ごしたいって思ってくれたんだと思って、俺期待してたんだけど」
耳元に口を寄せられ、小さな声で告げられる。
「な……っ」
そんなやり方は反則だ。それに、期待ってなんだ。
「そんな、理由じゃないですから。いえ、あの。無理に行きたいとかそういうんじゃなくておじ…あっ、虎徹さん、と、一緒に過ごしたいと思ったからだからあの」
「お前、てんぱりすぎ」
ぽん、と頭の上に手を乗せられた。
そして、彼は元の距離に戻ってひどく優しげに微笑む。
「分かってるよ」
「わかっ…え?」
「お前がそんな適当な気持ちで誘うヤツじゃないことも、期待してもいいことも、分かってる」
「………………」
それは、どう取れば良いのだろう。
バレバレだと面と向き合って言っているのだろうか。
だとすれば、なんて残酷な人なのだろう。今、ここで言うなんて。
「返事、ナシ?」
「……………」
唇の端を噛んだ。
こんな、帰宅ラッシュのモノレールの中で、彼は何を強いて来るのだろう。逃げ場を完全に潰して――本当に。
この人は聖人君子ではない。
急に気がついた。
汚すもなにも、自分の想いだってそんな純粋なものじゃない。邪念だって混じってる。あわよくば抱きしめてもらいたいし、抱きしめたいし、キスだってしたいしされたい。
その根底にあるものが何かなんて知らない。
そんなものに気を取られても意味がない。
たとえ、どんな理由であろうとも、彼を自分は選んでしまったのだ。
「そんな事してると、唇に傷が付く」
手が伸びて来た。そして、唇をそっと撫でられる。
噛んでいた場所を硬い指先が触れて、思わずびくりとする。
「返事、帰りまでによろしくな」
そして、その指が頬に伸び、手のひらで一瞬ふわりと撫でられた。
「………ひどい、大人ですね」
「ああ。おじさんだしな、俺」
「開き直らないでください、全部お見通しの癖に」
「さあ、どうかな。俺はバニーじゃないから、バニーの考えてる事なんて、分かる訳ない」
「ズルい」
「この歳にもなれば、ズルさも身に付くよ」
はは、っと彼は笑う。
こんな混み合ったモノレールでする駆け引きじゃない。
だが、このまま混んでいる事を利用して、彼の胸に飛び込んでやろうかと思った。
ちょうど、モノレールが揺れる。
さあ――、どうする?