シュテルンビルトはここ数日、猛暑に襲われている。
元から階層都市の上に周囲を川で囲まれているこの街の夏は、暑い。しかしここ数日はそれでも異常と言わざるを得なかった。黒のTシャツ一枚で出勤したバーナビーは、いつもと同じスタイルを貫いている虎徹に脱帽せざるを得ない。この暑さの中、ベストなど着たくない。シャツはさすがに濃色ではなく白に改められているが、それでも見ているこちらが暑い。
「それ……暑くないんですか?」
なので、つい尋ねてしまう。新聞を眺めていた虎徹は何の事やら、と言う顔でバーナビーを見て、首を傾げる。
「それですよ、ベスト」
「ああ、これ?」
ちらり、と彼の視線が下を向いた。
「まあ、慣れてるし。この歳のおじさんがまさかTシャツ一枚って訳にはいかねぇだろ」
若いっていいねーと付け足され、そう言うものなのかと思う。きちんと締められたタイといい、確かに彼は年相応でない振る舞いをすることが多いのに、そういう風なところだけはきっちりしている。アンバランスな感じだった。しかしそれも、悪くない。
あの薄いシャツ一枚下には引き締まった筋肉がついている事を自分は知っている。筋肉というのは熱を帯びやすい。なのに、それを苦もなくやり過ごしている彼のことを、ほんの少しだけ見直した。
「バニーちゃんは暑さに弱いの? 涼しげな顔してるけど」
「これは地顔です。暑いものは暑いですよ、好きにはなれません」
「へえ、意外。でもハンサムって得だよな、暑苦しく見えねぇんだもん」
「本当は髪も鬱陶しいです――切ろうかな」
「え、それはダメ」
ばさ、と新聞を机に置いて、彼は自分の方に身を乗り出してきた。
「どうせなら括るとかにしとけよ、俺、お前の髪気に入ってるんだから」
さらりと言われるが、バーナビーはつい赤面してしまう。彼がこの髪を気に入っているのは本当だ。夜、ふたりきりで一緒にいるときに良く髪を弄られる。彼のようにコシのある髪質ではなく、細く柔らかい癖毛は汗をかくと首筋にへばりつくからその感覚も好きではないのに、何故か切れないでいるのはそのせいだ。
交わっている時に、その汗にまみれた髪を愛撫するのも、彼は好きだった。
「僕の髪ですよ、好きにします」
「だーめー」
言外に、それは俺のでもある、と主張されている。
まだ朝の会社で、しかも他に人がいると言うのにこの人は何をしでかすのだろう。
ただでさえも暑かったのに、更に暑くなった気がした。いや……この場合は、熱いか。顔に血が昇る。
「顔まっか」
くくくと喉の奥で笑われ、憮然とする。そんなのは自分が一番良い知っている。
「煩いですよ、仕事してください」
「はいはい」
しかし彼はまだ笑ったままだ。新聞を折りたたみ、そのまま端末を起動させた。彼の提出書類はいつも山積みなのだ。とっとと片付けろ、と八つ当たり気味に思って、自分も端末を起動させた。
車で通勤しているから、それほど外気に触れる機会はない。オフィスも空調が効いているので、過ごしやすい。だが、首筋にはじんわりと汗が滲んで髪がへばりつく。全て、虎徹のせいだ。
ああ、鬱陶しいなあと思い、うなじに掛かる髪をかきあげる。
ひんやりとした空気が触れるのが、気持ち良い。彼には朝からしてやられたが、言う事ももっともだと思った。括ってしまえばいいのだ。
引き出しを開くと、輪ゴムが何本か入っている。そのうちの一つを手にして、首筋の毛束をひとつに束ねる。くるくると輪ゴムで括れば、ずいぶんとすっきりした。
「おい、バニーちゃんよ」
その様子をぽかんと虎徹は見ていた。
「括れとは言ったけど、なんでそんなもので括るの」
「そんなものとは? 括れれば何でもいいじゃないですか」
「良くねーよ、痛むだろうが、髪が」
「は?」
おじさんのくせに、何を言っているのだろうか。そんな気遣いをされるとは思っていなかった。
「せっかくの綺麗な髪なのに……えーと」
と、彼は自分の引き出しを引っ張り出して、ごそごそとしだす。彼の机の中は、彼の家と同じように雑然としている。きっちりトレイを入れて区分けしてある自分の机とは大違いだ。
性格なんだろうなと思わざるを得ない。
「ああ、あったあった」
と、彼が引っ張り出して来たのは、ピンクのハートモチーフの付いた髪ゴムだった。もちろんゴムの部分もピンクだ。
「は? あなた何持ってるんですか?」
「楓のだよ、前に忘れてったんだ。で、ついつい持って来ちまった。なんか嬉しいじゃねぇか、娘のものって」
「はぁ……」
そんなものか、と、実感なく思う。
彼の家は家族写真に溢れているけど、そう言えばデスク回りは綺麗なものだった。
他のフロアに行けば、良く子供の写真を飾っている社員デスクは見掛ける。その辺りは区別を付けているのかなと思ったけれども、どうやらそうでもないらしい。
「ほら、貸してやるから」
と、当たり前のように虎徹はその愛らしいゴムを自分に差し出してきた。
クリアなピンクのハートモチーフ。
これを、二十四にもなった自分につけろと言うのか。
「結構ですよ、これで十分に涼しいですから」
さすがに遠慮したい。しかし虎徹は「髪が傷む」と言って頑として引き下がらなかった。
結局負けたのは、自分だった。
惚れた弱みだろうか、この人の押しには弱い自覚がある。
しかしこれは恥ずかしいなと思いながらも、髪を括り直した。
虎徹が満足な顔をしていたので、まあいいかと思ってしまう。
ああ、やっぱりこの人に、自分は弱い。
大人しく虎徹はその後、仕事に戻った。さすがに催促もされているのだろう。
先日の捕り物の報告書は自分はもう上げたが、彼はまだ欠片も書いていない事を知っている。だが最近はめっきり始末書の数が少なくなった。
自分と上手くコンビとしての立ち回りが回転し出してからは、さすがベテランヒーローと思わせられる貫禄で彼は立ち回る事が多い。その多くが自分をサポートしてくれるものだと言うのが若干心苦しいが、それでも彼はそれがいいと笑う。
前に立つ必要はないのだと。自分は、ポイントなどに固執するつもりはないのだと言う姿勢は一貫したままだ。
だが、自分も既にポイントに固執する必要はなくなっていた。名を売る必要がなくなったからだ。だけれども、虎徹はヒーローとして上手く自分を立ててくれている。元から人気はあったし、自負出来る程有能だった訳だからそんな事はしなくてもいいのに、何故か彼は自分を前に押し出して動くのだ。
まだ年若い自分に経験を積ませようとしているのかもしれない。
だが、戦闘で上手く二人の呼吸が合うようになったのは、とても喜ばしい事だった。その気持ちよさは、深夜ベッドの上で交わる感覚をすら凌駕する。
彼にとっての唯一は自分で、自分にとっての唯一も彼だと深く認識出来るからだ。
適当にあてがわれた、と思っていた相棒がこの人で良かったと今では心の底から思っている。
むしろ、彼以外は想像出来ないだろう。きっと虎徹でなければ今も両親の仇は討てていなかっただろうし――ウロボロス、彼等が姿を現したあの時だって自分は何も成し遂げられず敗北していただろう。
ズルいのだ、この人は。普段飄々としているくせに、いざと言う時はビシっと決める。
それだからこそ、ヒーローなのだろう。自分の正義に酔う事もなく、ぶれることなくまっすぐ前を向き続ける。
だから事を成し遂げた自分は空っぽにならず、今はヒーローという仕事に誇りを持って望めている。
復讐心や功名心でない。彼の正義に準じる形の正義を自分も抱いている。
それは、気持ちの良いものだった。
新しい、知る事もない世界だった。
「おい、メシ食いに行くか?」
時刻はまもなく正午になろうとしていた。まだ少し早いが、自分達は会社員と言っても書類提出の義務がある程度で、差程時間に縛られている訳ではない。それでも一応は他の社員と同じに定時に出社し、定時に退社する。ヒーローのお仕事がない限りは。
「はい」
特に何をやっていた訳でもない。ここ最近の報告書をまとめてフォルダ分けしていただけで、こんなものはいつだって出来るし、もっと言えばする必要のない事だ。
外へ出るつもりなのだろう、虎徹はいつものように目元を覆うマスクを付け、さすがにこの季節では暑苦しいのか帽子はないけれども、外出時のスタイルとなった。
「どこで食べますか」
「冷たいモノが食いてぇな、こう暑ぃと」
外に一歩踏み出せば、そこは灼熱だ。多分気温は四十度近くまで上がっているだろう。さすがの虎徹も辟易した顔をする。
「それにしても異常だなぁ、この暑さ」
あちぃ、と手をぱたぱたはためかせる。そんなもので風が来るわけでもないのに、と思わずその姿を見て笑みが浮かんだ。
「じゃあ、あなたの好きなソバでも食べますか?」
「ああ、いいな。混んでねぇといいけど」
並んで歩くのは、最早自然になっている。違和感もなにもない。時折街行く人が自分達の姿を見てざわめきはするものの、昔のように取り囲まれて身動きが取れない、と言う事はなくなった。人気がなくなった訳ではない。その逆だ。
虎徹と息が合い出してからは、自分達は高いポイントを弾き出している。元々コンビヒーローというのが物珍しかったのもあるが、それが本格的に機能し出して、人気は鰻上りだ。傍らにいるのがワイルドタイガーだと気付いている人も多いだろう。だから、逆に声を掛けづらくなっていると言うのが現状だった。
近頃はどこへ出向くにも二人一緒の事が多い。
それは偏に、自分が彼と共にいたがるせいもあるし、彼が自分といたがるせいもある。
だからこそ、お互いがお互いの防波堤になっているのだ。
「まあ、大丈夫じゃないですか? いつだってガラガラじゃないですか」
「お前、バカにするなよ?! ソバってのは日本食で体にもいいんだぞ!」
「分かってますよ、散々聞きました。僕も好きですし、だから行こうって言ってるんじゃないですか……拗ねないでください」
また笑いが漏れる。この人は、きちんとしているかと思えば、やはり子供っぽい。
「まあなー。ああ、でもあの良さがシュテルンビルト市民には分からないのかね」
「おかげで僕たちがゆっくり食べれます」
「そうだけどさ、でも万一潰れてみろ? また探すの大変だぞ」
「まあ……そうですね」
他愛のない会話をしながら、会社から徒歩五分少々の場所へと向かう。
その途中だった。
久しぶりに、声を掛けられる。
「あ、あの。バーナビーさんとワイルドタイガーさんですよね。写真、いいですか?」
「へ?」
「ええ、構いませんよ」
「おい」
今までにも幾度か経験している筈なのに、虎徹はこういった事にいつまでも慣れない。自分なんかが被写体でいいのかと思っているのだ。
自分は完璧な営業スマイルで対応してしまったものだから、結局まごつきながら虎徹も付き合う事になった。
パシャ、と一枚。
ああ、その写真を自分にも分けてくれないかなと思う自分はかなりのバカだと自覚している。
彼と一緒に写る写真は少ないのだ。それこそ雑誌か何かの撮影で撮ったようなものしかない。なにせ、ふたりが付き合っている事は誰にも秘密だ。プライベートを切り抜いた欠片を持つのは至難の業だった。
彼女はにこやかに笑んで、礼を言う。そして、
「珍しいですね、バーナビーさんが髪を括ってるなんて。それも可愛いゴムで」
と告げて、頭を下げて去って行った。
そこでようやく思い出した。
「………!」
「どうした?」
足を止めて赤面した自分に、虎徹が不思議そうな声音で振り返る。
「この、ゴム……忘れてた!」
「ああ、可愛いし似合ってるからいいんじゃねぇの?」
「そんな訳ないでしょう!」
慌てて髪を解く。しかし午前中いっぱい括っていたせいで、ヘンな癖がついてしまっている。
「そっちのがヘンだって」
「……だから僕は、輪ゴムでいいって言ったのに!」
手のひらにあるのは、愛らしいピンクのハート。
およそ成人男性が身に付けるものではない。
「輪ゴムはダメだって言ったろ!」
「こんなピンクのハートならいいって言うんですか!」
「可愛いじゃねぇか、楓にもすげぇ良く似合ってたんだぜ」
「楓ちゃんと僕を一緒にしないでください」
「いや、それとは別に良く似合ってた。まー……なんつうか、うなじが見えるってのはいいもんだね」
「……っ」
何を言い出すのだろうか、この人は。真っ昼間から。
「あ、また顔赤い」
「誰がさせてるんですか」
「俺!」
「嬉しそうに言わないでください!」
まあまあ、となだめられ。
結局、髪はそのゴムで再び括られる事になった。出来るだけピンクのハートを隠しながら、だけれども。
ああ、でも今の自分の状態がこんなものかなとも思った。
ピンクのクリアなハート。ある意味お似合いだ。だからこそ恥ずかしい。
「帰り、ドラッグストアに寄りますからね」
「なんで?」
「普通のゴム買います。それならいいんでしょう?」
「え、それじゃあダメなの?」
「ダメです!」
多分まだ真っ赤な顔をしたままで、彼を睨みつけた。
虎徹は、その視線を受け止めると途端ににやにやし出した。
にらみつける目の力を強くするのに、全然堪えた風じゃない。むしろ、この様子を楽しんでいるようだ。
「その顔やめてくれませんか、虎徹さん」
「いや、だってよ」
「帰りますよ」
「どうせ帰らないくせに」
「か、え、り、ま、す!」
「ちぇーっ、仕方ねぇな」
しかし、完全には笑みは消えない。
むしろ、今度はくすぐったい気持ちになった。
「恋人の可愛い姿見て、にやにやするのなんて当然だと思うけどなぁ」
しれっと彼が言うので、その足を蹴り付けてやった。
帰らなかっただけでも、マシだと思えばいい。
この人はやっぱり、まともじゃない。見直した自分がバカだったと思った。
それでも、好きなのだけれども。
――悔しい事に。