もぞり、と寝返りを打つ。意識がぼんやり覚醒しているけれどもまだ殆どが眠っていて、まだまだ泥のように深い場所まで引きずり込まれそうだった。まだ朝じゃないとは思う、だから眠ってても良い筈だと、もぞもぞとケットを引っ張ると、妙な感覚がした。
「誰…」
ぼそり、と口をついて出る。
その言葉に、ん? と無自覚な意識が首を傾げる。誰も何も、妻を失ってから五年。虎徹は独り寝が当たり前だったからだ。ブロンズステージにあるこのベッドには自分以外の誰も上がった事はない。
「え?」
そこで意識が覚醒した。泥のようにずるずると引っ張り込もうとする眠気が霧散する。
「誰?!」
慌てて目を開いた。若干重かった瞼を引き上げると、そこには――相棒が、寝ていた。
困った。記憶がない。何故こんな事になんているのか。
シングルの狭いベッドで、ほぼ抱き合うようにして眠っているのは間違いなく自分の相棒だった。ウロボロスによる大規模テロ事件から十ヶ月。その間に自分達の関係はとんでもなく好転していたし、お互いの息も合い、バディとして最高の日々を送っている。
飲みに出掛けたり、お互いの家で夕食を食べたりと言う事は何度もあるが、それでもお互い立派な成人男性だったし、酔い潰れるような真似もなかった。泊まる事もあったけれどもその時は、どちらの家でも客人がソファに眠るのが普通だった。
こんな風に同じベッドで眠っていた事なんてない。と、言うか互いに周囲から「変わりすぎ!」と良く言われるようになったコンビ仲だが、さすがに同衾というのはあり得ない。
なのに、昨日の記憶がすっぽり抜け落ちている。
深酒をした記憶もなかった。だが眠る段の記憶がない。
背中を向けて、だがその髪が鼻先に触れそうな距離にある相棒というのは新鮮すぎて動揺するばかりだ。まだ相手はぐっすり眠っているようだ。枕元の時計を視線だけで見てみれば、午前六時前。まだ起きるには早い時間で、彼が眠っているのも仕方ない。
しかし、この動揺のまま自分が起き出してしまえば、きっと彼だって起きてしまうだろう。なにせこの距離、そして自分は壁際に横になっている。
バーナビーを起こさず飛び越えて起きる、なんてのは至難の業だ。
昨日、昨日はなにをしていたか……。
思い出そうとするが、事件が二件起きて、そのどちらも出動の意味があるのかと言いたくなるほど簡単に片付いた事件でしかなかったのと、なのにその報告書の書類が発生してしまったので、二人仲良く残業になった。ので、仕方なくそれらを仕上げればかなり良い時間で、腹も減っていたので一緒に食事をとりに行った筈だ。
飲みたい気分だと言えば、お互い車だったので、そこから近かった方――虎徹の家に来る事になった。
さて。
そこで記憶がぷつんと途絶える。いや、曖昧になる。
酒を飲んだのだろう、と思う。
その記憶は数が多すぎて判然としないが、間違いなく昨日の記憶だと言うものが出てこない。
なので、当然のようにこんな風にして眠っている理由が分からない。
ふわ、と目の前のバーナビーの髪が揺れる。それと同時にベッドのスプリングが揺れて、彼は寝返りを打った。無防備な緩みきった顔でこちらを向く。
内心、うわああああと虎徹は叫び出しそうになっていた。
近いのだ、距離が。
寝て、乱れた髪が顔に触れそうだ。
若干寒い時期だからだろうか、もぞりと彼は自分に近づいて来る。
「バ、バニー?」
この状態で彼が目を覚ましたら、多分間違いなくパニックに陥る。自分と同じように。
だが、このままの状態だと自分の動揺が去らない。
もぞもぞとしながらも、虎徹の体には触れないながらも、空気感は伝わるであろう場所でバーナビーは落ち着いてしまった。
これは、無理にでも起こしてしまった方が良いだろうか。
自分が先に抜け出し、こんな状態だと知られないままに混乱してしまった方が良いだろうか。
近すぎる距離で目を開いたら自分がいると言う状況よりはマシな気がする。
――うわ、睫ばっさばさ。
おろおろしていたが、近頃さっぱり毒気の抜けたバーナビーだが寝姿は更に無防備にも程がある。その伏せられた睫の長さと量に、虎徹はつい見入った。
鬱金の色をしているそれは、ぴくりとも動かず安堵した眠りを享受している人間そのものだ。
しかし、整った顔立ちをしているとは思っていたが、これほどまでだったとは。
多分、女の子である娘の楓より睫は長いだろう。美形というのは本当に完全なのだ。比較対象として妻の記憶を引っ張り出そうとしたが、それは上手く出て来なかった。きっと自分は彼女の睫をあまりちゃんと見た事がなかったのだろう。
つるりとした肌といい、なんだか無性に舐めたい気持ちになった。
だが、その異常性に気がついて、自分に対し突っ込みを入れる。
もぞり、とバーナビーがまた動く。
「さむ…」
殆ど聞こえなかったが、そんな事を多分彼は言った。そして本当にそうだったのだろう。熱を求めてもぞもぞすると、今度こそ自分へとぴったり張り付いてしまった。
「………っ」
ヤバイ、と思った。今度こそ逃げられない。
さっきの時点でやはり起こせば良かったと思う。いや、起こす結果になろうとも、ベッドから出ていればと思った。
確かに今朝は冷え込んでいる。夏もとっくに終わり、秋も通り過ぎてあのテロ事件の季節が通り過ぎようとしている。
バーナビーが自分の事を「虎徹さん」と呼ぶようになり、見るからにほぐれて行き、柔らかな空気を纏い始めた季節の始まりの頃だ。信頼を寄せて来た季節。
あれから一年近くも経とうとしているだなんて、そうは思えないような、だが長かったような、不思議な感覚に陥る。
――自分の体にある爆弾を、そんな頃になって知ってしまうなんてな。などと虎徹は間近な相棒を眺めながら薄く嘆息する。
彼と並んで走るのは、気持ちが良かった。
ヒーローとしてバディを組む、その呼吸が合う事、出動の度に気持ちが良かった。彼が相棒で良かったと心の底から思っているし、バーナビーもそう思っていてくれているのがひしひしと伝わる。
他のヒーロー達にも心を開き、なかなかに良い付き合いをしているようだけれども、群を抜いて自分を信頼しきってくれている事も分かっている。
幸せな日々だった。
それが壊れるかもしれない予感はなによりも怖かった。自分はヒーローでいたかったし、このバーナビーという青年の信頼を裏切りたくなかった。
もぞり、と彼は自分の胸に顔を寄せる。
髪を撫でたくなったが、ぐっと我慢した。
それは不安の現れだっただろうからだ。
この青年を手放したくないと思う気持ちの発露だ。
それにしても何故こんな状況になっているのだろう。
良く良く思い返せば、バーナビーの目元は赤くふっくら腫れていた。
泣いたのだろうか? 昨日泣かせるような事をしたのだろうか?
あり得ないとは思ったが、念のため確認してみるけれども自分は服を着ているし、バーナビーも脱いでいる気配はない。
ああ――そういう意味で。
彼が欲しくないか、と問われれば自分はだんまりを通さなければならない。
咄嗟に出てくるものではない。だが……否定も出来ないからだ。
彼の全面的な信頼は嬉しいものだったし、幸せなものだった。
一緒に酒を飲んでいる時に見せる笑顔がたまらなくて、その唇に目を奪われた事は一度や二度で済まない。
嫌いではない。だが、好きと言っても良いのかどうか迷う、曖昧な感覚。
自分がまだ思春期の子供だったとすれば、間違いなく恋と勘違いしてしまいかねない幸福感と好意を彼に対しては感じてしまっている。
だが自分はもう大人なので、そんな誤解が出来ない。いや――まだ、分からない。
今この瞬間にバーナビーの髪を撫でたい、抱きしめたいと思ってしまったのは、意識してしまったせいだろうか。それとも、元から持ち合わせていた感情だろうか。
良く、分からない。そんなことばかりだ。
「こてつさん…」
もぞりと胸元で声が聞こえる。そして、彼が胸に頭を押しつけて来た。
心臓が跳ねる。
彼はまだ完全に眠っているだろう、そんな声音だ。だが、だからこそ余計にくるものがある。無意識で自分を求める彼という存在に、心臓を破られてしまいそうになる。
深酒の気配はない。
宿酔いの気配もない。
なのに昨日の記憶が一切ない。
衝動的に腕を、回してしまった。
彼を抱きしめてしまう。
そして、目を伏せる。万一バーナビーが目を覚ましても、これなら寝ぼけた人間のしでかした事と誤解してくれるかもしれない。
腕の中に閉じこめた体温は、鼓動を跳ねさせる程に、あったかい。
ああ、この存在が傍にいてくれる事がどんなに幸せな事か――と、思えてならない。
「バニー」
小さく唇だけを動かす程度で、彼を呼ぶ。
「こてつさん…」
聞こえたのか、それともただそんなタイミングだっただけか。彼からも名を呼ばれて動揺した。
抱きしめた事によって、感情が増幅される。
目を閉じた事によって、感覚が増幅される。
触れた場所から与えられる熱を勘違いしそうになる。と、同時に自分が何を考えているのか良くわからなくなる。
すきだ、と思うのは勘違いだろうか。
今までの人生で人を好きになったのは、後にも先にも一度だけで、それが酷く自然に心に滑り込んで来たものだったから、自分には恋に落ちる瞬間というのが良く分からない。良い歳をしたおじさんが何を言ってるんだと思うが、情けない程に恋愛経験値というものはおそらく低い。
子供時代の恋愛なんてものは、妻に抱いた恋情を思い返すと勘違いに過ぎなかったんだなと思えるのだけれども――ならば、今のこの感情はどうだろうか?
少なくとも妻に抱いたものとは違う。庇護欲のようなものが最初から彼には感じていた。それがジェイクを倒してしばらくしてから、みるみるうちに変わって行く彼を見ている間に取っ払われて行った。
背中を預けても良い安心感。と、同時にその陶酔感。
命を預けても構わないと思うのは、バディという関係性ならではのものなのだろうか?
今までだって市民を守るためならば多少の無茶はして来たし、おそらくそこで命を落としても本望だっただろうと思える。
今は? と考えると――彼になら命を奪われても構わないと思うと同時に、絶対に死んではならないとも思う。自分が死ぬような事になれば、間違いなくバーナビーは自分を責める。バディとしての落ち度を死ぬまで悔やみ、抱く。
「バニー」
どうしたらいいんだろうか。抱きしめた事にたいする充足。そして、不安感。
うっかり自分が命を落として、彼が一生自分を抱き続ける事を考えたら、その事にぞくぞくするような感覚を覚えた。そんな幸せな事があるのだろうかと思えてしまった。
と、同時に、残された側の気持ちを知っている自分としては、二十年もその感覚と連れ添って来たバーナビーへそんな哀れな事をさせてはいけないとも思ってしまう。
目を、見開く。
抱きしめているから、見えるのは乱れたバーナビーの頭頂付近の鈍い色をした金髪だけだ。
胸に寄っかかる重さと体温は相変わらず鼓動を跳ねさせる。
――なあ、どうしたらいい?
この回してしまった手が解答だと思っていいだろうか。
それとも、ただの勘違いなのだろうか。
この状況に陥った記憶が戻って来れば、せめてすっきりするのに。
もぞり、と自分も少し動く。彼との合間に挟まっていた手を抜きだし、バーナビーの体の下に通す。きっと痺れて痛くなるだろうし、もしかしたらこれで彼は起きてしまうかもしれなけいれども、それでも本格的に抱きしめたくなった。
ぎゅう、と抱きしめると、胸が幸福感で満たされた。
なあ、この感情に名前を付けるとすれば、何がいいんだ――?