「おはようございます」
珍しく今日は、バーナビーの方が会社に到着するのが遅かった。
と、言っても彼にはこれが定時なのだろう。単に自分の到着が早かっただけだ。
十五分前出勤とは、いかにもで納得する。
「何かあったんですか? あなたがこんなに早くにいるなんて珍しい」
「いや、ちょっと目が早く覚めちまってさ」
「あなたでもそういう事あるんですね」
心底意外そうな顔をされるのは、今までが今までだっただけに仕方がない。いつだって自分は遅刻ギリギリ出社だ。それも、ギリギリまで寝てたいから、全ての行動が後倒しになってしまうからにすぎない。
いつもより一時間も早く起きてしまった虎徹は、時間に余裕があるとこんなに楽なのかと感心してしまった程だ。だからと言って、今後、では早起きを――とは、思わないのが虎徹の虎徹たる所以であるが。
悪い夢をみた。
そのせいで、寝汗でぐっしょりになりながら、目が覚めた。
それがいつも起きる一時間以上前の時間。
大体夢なんてものは目が覚めればディテールは失われていくものなのに、いつまで経っても細部まで明確なそれを夢なんだと言い聞かせ、動けるようになったのが起床一時間前の事だったのだ。
冷や汗でびっしょりになったパジャマとシーツを洗濯機に突っ込み、自身は熱いシャワーを浴びた。
次第に、夢は夢だと納得させた筈だったのにまだ生々しかったそれが夢なんだとようやくなだめられていく。朝から大量のシャボンで体を洗って、丁寧に髪を洗い、夜の空気を払拭する。
「夢だ。大丈夫」
キュ、とコックを閉め、髪からしたたる雫を面倒に拭ってから、脱衣所で体を拭いた。洗濯は間もなく終わりそうだった。これはこのまま乾燥機に突っ込んで出社すれば問題あるまい。
ボクサーパンツ一枚の姿でキッチンに向かい、冷蔵庫から良く冷えたペリエを一本取り出して、一気にあおる。冷たさが心地良い。季節はもう夏に入っている、室内の温度は早朝と言う事もあってか、差程ではないが、今日も一日、また暑いのだろう。
季節が変わってから濃色のシャツはやめた。クリーニングから戻って来たばかりの白いシャツに袖を通し、ボトムを履き、小物は後回しにする。
トーストを焼いてカフェオレを作り、本当ならサラダでも欲しいところだけれども、ここは喫茶店のモーニングではないので我慢する。そもそもサラダになりそうな食材など家にはない。あるのは、せいぜいつまみの当てになりそうなものだけだ。
テレビを付け、朝の情報番組を見ながらのんびりとカフェオレとトーストを食べた。
随分時間がある。食事を終えてもまだ出社までに三十分以上もの時間があった。
こういう半端な時間は、持て余す。
情報番組を右から左へ聞き流し、ぼんやりしている。眠気はいっこうに来ない。しかし、今眠気が来たとしても、夢の続きを見そうなので必死で抵抗するだろうことは想像に難くなかった。
「ま、早く行くかね」
ひとりでぼんやりもしているのにも、飽きた。
いつもの出勤時間よりもまだまだ早かったが、途中で新聞を買い、席で読んでいれば良いだろう。その方が余程有意義に思えた。
決めれば、虎徹の行動は迅速だ。
タイを結びベストを着、お守り代わりの数珠と腕時計をすれば、残り二十分。
鍵を掛け、自分の車へと向かった。
そして、珍しく職場への一番乗りを果たしたのだ。
「それより、ちょっと顔色悪くないですか?」
「そうか?」
バーナビーは自分の席に座り、端末を立ち上げながら問うてくる。
「ええ。いつもよりは」
「なんつか――夢見が悪くてさ」
「夢?」
驚かれてしまった。
「おじさんだって夢くらい見る…」
「いえ、そういう意味じゃなくて……あなたがそんなものに左右されるとは思わなかったので」
「そう? 意外と繊細なんだよ、おじさんは」
「自分で言うと台無しですね」
「んだと」
じゃれたやりとりをしている間に、もう一人の女性社員が現れた。彼女もまた、虎徹が既に椅子に座っている事に驚いた様子だった。
「おはようございます」
「おはようさん」
「おはようございます」
だが、声にまでは出ない。多分勤続数十年近くに渡るだろう女性だ、さすがに多少の異変では動揺もしないし引きずりもしない。いつも通りの挨拶で、少しばかり拍子抜けした。
「一体何の夢を見たっていうんですか」
立ち上がった端末に向けてパスワードを撃ち込みながら、バーナビーは尋ねて来る。
だが、虎徹は夢の内容を言うつもりはなかった。
口にした途端、それが本当になってしまいそうな気がしたからだ。
「ないしょ」
とだけ、だから言っておく。
「かわい子ぶらないでください、いい歳なんですから」
大仰にため息を吐かれたが、追求されるよりもその方が良かった。
彼とは恋人同士の関係にあるが、余り自分のパーソナルスペースへと踏み込んで来る事がない。きっと自分がしている指輪や、部屋中に飾られたままの家族写真について思う所はあるのだろうが、それも口にしない。ただ刷り込まれたように、「虎徹さん」「虎徹さん」と、自分を追う。
本当の所、自分は卑怯だったかな、と思わないではない。
彼に好意を抱いたのは、彼の過去を知った時だ。
それから、彼には甘えてもらいたくて自分はなにかと彼に口を挟んだ。どれだけ邪険に扱われようとも、ひとりで巨悪に立ち向かおうとする姿が痛々しかったのだ。
痛烈で冷ややかな物言いには時折本気で腹を立てたが、大体そういう時は彼が煮詰まっているか、「そういう甘え方」しか知らないのだと思えば、十分に許容出来た。
要するに、随分早い段階から自分はバーナビーのことを心の中で認めていたし、認めて寄っ掛かって欲しいと思っていたのだ。
徐々に自分へと傾き始める彼の状況は、心が喜んだ。
例えそれが父親に向ける親愛のようなものであったとしても、それでも構わないと思っていたのだ。
しかし、ある酔った夜に自分は踏み越えては多分ならなかっただろう一線を軽く踏み越えてしまった。腕を掴み、驚いた顔をした彼へのキス。
目は見開かれ、翠の色が薄く色づいたレンズ越しに良く見えたが、抵抗はされなかった。
最初から、自分が抱いていたのは欲だったのだ。庇護欲ではない、そんな綺麗なものではなかった。
だから、驚いた顔をして見られても自分は止まる事が出来なかった。
重ねるだけのキスを、より深いものにしてしまえば見えていた翠の色がゆっくりと隠されて行った。相変わらず、抵抗はなかった。期待してしまうのは仕方のないことだろう――? そしてその期待は間違えていなかったと、そのすぐ後に知る事が出来た。
それから、彼とは公私共にパートナーとして存在している。
もしかしたらずっとお互いが越えたかったかもしれない一線だったのかもしれない、とも思った。ならば年長でもあった自分が踏み越えて正解だった。
いずれ何かがあって別れが来た時に、責任は全て自分が負えばいいのだから。
今では、家族と並んでかけがえのない存在になっている。
失う事を知っている自分だからこそ、失えない自分の一部だ。もうあんな思いはしたくない。
――だからこそ、あんな夢を見てしまった。
「虎徹さん、やっぱり顔色が悪いです。医務室へ行きましょう」
「いや、だからちょっと…」
「そんな状態で緊急招集が掛かっても、出動出来るんですか?」
なんとも痛い所を突かれた。
体調が悪い訳ではない。若干の寝不足と、後は心の問題だけだ。
だが、今の自分は多分緊急招集に駆けつける事が出来ない。物理的には可能だろうけれども、心が追いついて行けない。それでは、ヒーロー失格だ。
「分かった、行くよ」
「一緒に行きます」
そこまでしなくていい、と咄嗟にでかかった言葉は飲み込んだ。
今は、傍にいて欲しかった。なので素直に受け取った。
多分夕暮れ時だ。
鈍い色の雲が空を早く流れて行き、雨がバタバタと音を立てて降っている。
がれきの中で自分は犯人を追っていた。何故か一人だった。近頃、傍らにはバーナビーが居て当然だったのに、彼はいない。
酷く焦った気持ちで犯人を追う。
そんな場合ではないと心は叱責しているのに、ヒーローとしての本能が犯人を追い続ける。
腕から伸ばしたワイヤーが、犯人を捕縛する。そして、自分の元へとたぐり寄せると、急ぎ警察車両へと向かった。
何故か他のヒーロー達はいない。いてくれれば、問題なんて起こらなかったはずなのにと彼等を責める心が生まれている。
警察へ犯人を引き渡すと、虎徹はそのまま急いで元の場所へ戻った。
元の場所――バーナビーの居る場所だ。
がれきの山に埋もれるようにして、彼はヒーロースーツのまま、横たわっていてぴくりとも動かない。能力は完全にきれている。眩しい輝きはそこにない。
降りしきる雨の中で、ずぶぬれになって彼は痛々しくそこに転がっている。
自分もヒーロースーツを着たまま、その場に膝をつく。
怖くて手を差し伸べることも出来ず、頭を抱えてただ絶叫する。
――バニー、と。
何度も名を呼ぶけれども返事はない。
昔のように「バニーじゃありません、バーナビーです」という冷たい声音でも良いから聞きたかったのに、彼はぴくりとも動かないまま。
鈍い色の世界の中で、彼のヒーロースーツの赤とピンクだけが色彩を持っていた。
「バニー」
医務室は空っぽだった。
取りあえず寝不足かもしれないから、寝てくださいとベッドに押し込められた虎徹は、彼を呼び止める。
「ここにいてくれないか」
「……何を甘えた事言ってるんですか」
彼は、柔らかな顔で苦笑する。
「夢を見たんだ」
「言ってましたね――僕に、関係ある夢ですか?」
「ああ」
彼の手が伸ばされ、ベッドに横たわった自分の手を握る。
「僕はどこにも行きませんよ」
「――だよな」
「どんな夢だったんですか?」
「お前が死んじまう夢」
「酷いな」
「酷いのはお前だよ。俺がどんだけ呼んでも返事しやがらねぇ」
「似合いませんよ、虎徹さんがそんな、弱気なのって」
「知ってるよ」
だが、声のトーンは落ちる。
細微に渡って記憶から抜け落ちてくれない。
雨がスーツを叩く音、鉄さびの浮いた鉄骨が重なり合った場所、その凹んだ場所の真ん中で横たわったままのバーナビー。
失う怖さを知っている。
愛するものが二度と目を覚まさない、自分の名を呼ばない、この世のどこにも存在しない――そんな怖さを知っている。
「僕たちはヒーローですからね、不慮の事態がないとは言い切れません。ですが、僕は死にませんよ」
「言い切れるかよ」
ああ、弱っちいな、俺、と、自嘲が浮かぶ。
「言い切りますよ。あなたが望むのなら、意地でも生きます。這ってでも血反吐はいても生き続けます、あなたをひとりぼっちにはさせません」
「――バニー」
「あなたも、もう失わなくても良い筈だ」
そしてバーナビーは、ベッドに横たわった自分へとキスを寄こした。
「僕ももう、失いたくはありません。あなたも絶対に死なないでください。そんな死にそうな顔をして、不調のまま出動なんかしないでください。無茶をするのはあなたの癖だから今更どうしようもありませんが、マズいと思った時には僕の事を思い出してください。死ねば泣く人間がいると言う事を思い出せば、ストップが掛かる筈です」
「――おまえは、そうしてるのか?」
「ええ」
静かに、バーナビーは虎徹の手を握ったまま答える。
「どんな凶悪犯が相手でも、窮地に陥ったとしても、あなたがいる限りは死んではいけないと思ってます」
そして、彼は愛おしそうに自分の左手にはまる指輪を撫でる。
「もう、同じ思いはさせたくありませんから」
きゅ、とその手を握り込んで、穏やかに彼は自分へ向けて笑みを浮かべた。
「だから、信頼してください。あなたの傍にずっと僕はいます。夢なんかに惑わされないでください」
「………ああ」
不覚にも、虎徹は泣きそうになっていた。
ここまで愛されていたなんて、思ってもいなかった。
「でも、少しだけ嬉しかったです」
「ん?」
「僕が死ぬかもしれない夢で、そこまで虎徹さんがダメージを受けてくれる事が」
「ああ……。二度と見たくねぇよ、あんな夢」
「僕が傍にいます、もう見ませんよ。少し眠ってください」
「……俺も」
「はい?」
「俺も、死なねぇから。お前と一緒にいる限り」
「当たり前です」
笑いながら、それでも手を握るつよさはぎゅっと強くなった。
「因果な仕事をしているんです、常に危険とは隣り合わせ――でも、僕たちは支え合えるバディヒーローです。だから、お互いにお互いを守って行きましょう」
「そうだな」
理路整然としたバーナビーの言葉に、虎徹の頬にも笑みが浮かんだ。
「さあ、寝てください。いつ招集が掛かるか分からないんですからね」
「分かったよ」
そして目を閉じる。
手のぬくもりが気持ち良い。
いつも甘やかしてきたつもりだったが、今はバーナビーに虎徹は甘やかされている。
こういうのも、悪くない。
その感覚だけを追い、その先で微笑んでいるだろう彼の表情を思い浮かべれば、自然に眠気はやってきた。
悪い夢は、もう見そうになかった。