――こんな感情、抱いている方が変なんだ。
バーナビーは分かっていた。だから彼と接する時には出来るだけ良い相棒として過ごすようにしていたし、気持ちが溢れ出しそうになる時は出来るだけ距離を取ったり、昔の彼に反発していた時の面倒臭いと思っていた事を思い出したりして自衛していた。
だが、その昔の記憶ですら甘やかなものと成り代わってしまっているので、タチが悪い。
それでもうまくやってきたつもりだった。
昼食や夕食を共にしたり、時折自分の家や彼の家へ訪れたり訪れられたり、そんな事で心を満たしてはバランスを取っていた。それで十分だったのだ。
だが、今日の夕食は少し酒を飲み過ぎた。暑くなり始めた季節のせいか辛いものばかりをオーダーしてしまい、つい酒が進んでしまったのだ。その結果、自分はまだマシだったものの虎徹はかなりの酔い方をしていた。なんとか自分で歩けるものの、何か喋っては笑い、よたよたとしている。
その軌道修正をたびたび行いながらも、心が浮き立つのを必死でなだめなければならなかった。彼が懐に入れた人間に対してとことん甘くなる性格だと言うことは良く分かっている。それでも、自分の前でここまで気を緩めてくれている事実がうれしい。
彼は相当飲んでいたようだが、自分はまだ飲み足りない。途中開いていたショップに入り、彼の家にはビールと焼酎しかないことを思い出して自分用のワインと、少しばかりのあてを買い求めた。
どうせ彼の家に訪れるのは今日に限った事ではないと、三本も買った。
彼の家にそれを置いておくのだ。マーキングみたいで自分もバカみたいだと思ったが、それでもそれほどに彼のことを欲している。普段なら向き合わないようにしている感情だけれども、肝心の相手がここまで酔っているのだから構わないかという気持ちになってしまったのだ。
彼の部屋に、自分の証があるのはうれしい。
既に着替えやそういうものが置かれていることも、心を躍らせる要因になる。
自分も、そう考えればそれなりに酔っていたのだろう。
アパートメントに到着すれば、虎徹はそれでも普通に鍵を取り出して酔っぱらいとは思えない程器用に一発で鍵穴にキーを入れ、部屋に入る。
「あー、このまま転がりてぇ」
「もうちょっとの距離も我慢出来ないんですか、あなたは」
苦笑しながら、ソファまでを引っ張る。テーブルの上に買って来たものを置いて、ひとまず虎徹をソファに座らせた。
「ビール!」
「はいはい」
今日はまだ平日だ。そこまで深酒しても大丈夫なのかと思いながらも、慣れ親しんだ彼の部屋で勝手に冷蔵庫を開けてビールを取り出す。自分の分も合わせて二本だ。まだワインと言った気分でもなかったし、最初くらいは彼に付き合ってあげても良いと思われたのだ。
大体彼の部屋で飲む時の座る場所は決まっている。だが酔っぱらいの彼はとにかく手近な場所に座ったようで、そこはいつものバーナビーの座る場所でもあった。
なので、いつもの虎徹の座っている場所に座ろうとした。
「なんでそんなに離れんの?」
「だって虎徹さんが僕の場所に座ってるから」
「いいじゃねぇか、こっち来いよ」
所詮、酔っぱらいの戯言だ。分かっている。だけど心臓がどくんと跳ねる。
ぽん、と傍らの席を手で叩かれたので、そこに座る事にした。近すぎる距離は隠している気持ちを幸福で満たすと同時に、隠せないような気がして心臓に悪い。だが、ここまで酔っている虎徹が悪いのだと全てを彼のせいにし、腕が触れあうかもしれないんじゃないか? という距離でビール缶での意味のない乾杯をした。
良く冷えたそれは、さっきまでも飲んでいたというのにひどく喉においしい。
しゅわしゅわと弾ける泡が目を冴えさせるようだ。
買い込んだ簡単な総菜のつまみを開くと、虎徹はフォークも使わずに手でつまんで食べるので、自分もそれに習った。どうせものは唐揚げだ。手が少し油で汚れるくらいだし、その程度構わない。
酔っぱらい特有の早いテンポの高いテンションで虎徹は色々と喋り始める。適当に相づちを打ったり、新しいビールを追加したり、一緒にいるだけで楽しいバーナビーとしては幸せな時間を過ごしていた。やがてビールよりもワインが飲みたくなったので、虎徹にお伺いを立て、自分はワインに切り替える。自分もかなり飲んでいて、状況もあってかひどく幸せな酔っぱらい気分だった。
それを。
ワインを一本も空けたその頃に、空気ががらりと変わった。
虎徹は焼酎に切り替えており、さすがに酔いが回りすぎたのだろう、目はとろんとしていて今にも眠ってしまいそうだった。
最初は三十センチは開いていたであろう距離がいつの間にか触れんばかりの距離になっていた。
「ねえ、虎徹さん酔ってます?」
「酔ってねぇよ」
「酔ってる人って大体そう言うんですよね。じゃあ、酔ってない虎徹さん?」
「ん?」
焼酎のロックを傾けながら、自分に向けて笑顔で小首を傾げる。
心臓がバクバクする。
「少しだけ、話があります」
ワインのグラスをテーブルに置き、彼に相対する。
思えば自分も相当酔っていた。
「好きです」
言うつもりなんてない言葉だった。それに彼の薬指には綺麗なシルバーが光っている。昔に交わされた約束の形であり、今も生きている約束の証明だ。
だから自分の想いなんて不毛過ぎて目も当てられない。
正直に向き合うだけバカなような気がして、それでも心から出て行ってくれることもなく、それどころか日々成長を続けるので時には辛いばかりになる想いだった。
「好きです、虎徹さん」
「――ああ、うん」
流されてしまった。
まあ、当然だなと自嘲する。少なくとも彼の目に軽蔑の色や困惑の色がなかっただけでもマシだったと思う事にした。
告げたから、もういい。この想いはまだまだ後を引きずるだろうが、酒の勢いであろうが一応の昇華を認められたのだ。
叶わない、そう思い知れて良かった。
心はすっきりとしていた。なのに、涙が知らず伝う。
酔っている彼だから気付きはしないだろうが、出来るだけ自然に眼鏡を直す振りをして、そのわずかに伝った涙を拭った。
その、瞬間に。
近かった距離を詰められる。
そして、自分の頬へと彼の硬い手のひらが添えられた。
「こっそり、そんな風にして隠すなよ」
「……だって、こんなもの」
彼はじっとまるで暖めるかのようにして持っていた焼酎のグラスをいつの間にかテーブルの上に置いていた。そのまま、抱きしめられる。
「好きだ」
耳元で囁かれる言葉に、反射的に嘘だと思った。
だが首筋に唇を落とされ、一度だけ強く吸い付かれる。ああ、色素の薄い自分の肌では簡単に跡になってしまう。そう思ったが場所が場所なので構わないと思った。長めの髪が隠してくれる。
それよりも、相手が誰だか彼は分かっているのだろうか。それとも自分の言葉に彼は同情したのだろうか? それとも絆された?
まさか、と思った。
そんな簡単に絆されてくれる筈がない。
だが一度強く吸われた場所がじんじんと体に響いて甘みをもたらす。
「好きです、虎徹さん……僕が誰だか分かってますか?」
「バニーだろ? 何言ってんだ、間違っちゃいねぇよ。俺もお前が好きだよ、バニー」
そのまま首筋にざりざりとする髭をすりつけられて、ぞくぞくとした。
髪が梳かれる。癖毛のもつれやすい髪は彼の手で優しく梳かれて、今度こそ自覚して涙がこぼれてくる。
「誰とも間違ってもいねぇし、代わりでもねぇし、俺はお前が好きだよ」
「同情でなく?」
むくり、と体を引き離した彼はそのまままっすぐに自分を見る。
「当たり前だろ!」
そう言って、唇が流れる涙を掬い取った。
そして、彼は正面を向いて再び焼酎のグラスへ手を伸ばす。
「キスしてぇし抱きてぇし、こっちがどんだけ今まで我慢してきてたって思ってんだ」
「それはこっちの台詞です」
彼にもたれかかるようにして、自分もワインのグラスを手に取る。
どうしたのだろうと思った。自分は酔いすぎて眠っているのだろうか。だって、こんな幸せな事が起きる筈がない。なのに心臓が踊り狂うこともなく心は平静だ。元からあったものを再確認した、そんな風な気持ちだったのだ。
ワインが一本空いてしまった。こんなんじゃあ足りないとばかりに二本目に手を伸ばす。
「おいおい、あんま飲みすぎんなよ」
「あなたに言われたくないです」
「ま、そりゃそうか」
笑いながら、彼も氷が少なくなったグラスへ焼酎をつぎ足している。
寄り添って、酒を飲む。
じわじわと心を浸食していっぱいになっていく幸せがたまらなかった。
ああ、彼も自分が好きだったのかと思えば、このまま目をとじてこの夜で世界を閉じてしまいたかった。この先なんてなくてもいい。この幸せをここで凍らせて永遠に大切に抱きしめておきたかった。
それからの時間、その話題には触れなかった。お互い静かに飲みながら、ぽつりぽつりとつまらない話をしていた。寄り添っている体温が気持ち良い。時折絡められる指が嘘のように甘やかなのに自然で、心が満たされていた。
旨いのか? 言われたのでワインのグラスと焼酎のグラスを交換して飲みもした。彼は満足そうに残りを飲み干していたが、飲み慣れない焼酎は自分にはちょっと合わなかったようで、よほどの表情をしていたのだろう、虎徹には笑われた。
ワインも結局三本空いてしまって、彼の焼酎のボトルも空になる。
彼はいい加減、酔っぱらいの度合いも酷くなったようだった。眠そうな顔をしているので早くにベッドに向かう事を促す。
「一緒に来る? バニーちゃん」
さすがに、心臓がドキリと跳ねた。
その後ドッドッドッと酷く跳ね踊る。
ああ、そうだ。互いに好きだという事は、そういう事でもあるのだ。
今までに恋愛経験のないバーナビーにとって、恋人というのは絵空事にしかすぎず、まさか自分がそんなものになるだなんて思ってもいなかった。
「すまん、ちょっと性急過ぎだよな」
そう言って、彼はロフトに掛けた足を戻しこちらへ歩いて来る。
そして、立ち竦んだままの自分を抱きしめた。
「好きだよ、バニー」
「………っ」
言葉が上手く出てこない。好きです、好きですと心の中で繰り返しているのに、抱きしめられた暖かさに再び涙が溢れそうで、この幸福が現実だと体中に突き付けられて、胸がいっぱいになる。
そのまま彼の手のひらが、背中のシャツをたくし上げて素肌に触れた。
「虎徹、さん……」
「ん」
柔らかく背を撫でられているだけなのに、ぞくぞくと知らない感覚がせり上がってくる。抱き返す事も出来ていなかった腕が自然に彼に回り、きゅっと彼の背のシャツを握った。ベストはとおに脱ぎ捨てられていた。
「好き、好きです。好きです」
「うん」
「好きです。虎徹さん、好きです」
バカのひとつ覚えのように、今度は同じ言葉しか出てこない。
ちゅ、と軽いキスが壊れた唇に落とされた。
言葉がぴたりと止まる。
再び、ちゅ、とキスが落とされる。
触れるだけのキスが幾度も落とされ、幸福感が増幅される。
そして最後に、背中全体をざらりと撫でられ、唇に軽く噛みつかれた。
「……っん」
「お前、可愛過ぎるだろ」
こん、と額を合わされ、至近過ぎてぼやける顔がにやりと笑う。
そしてくるりと彼は背中に回ると、ちょうど背骨の中央に暖かな感触と、ちりりとした痛みを感じた。
「これ、俺のっていう証拠な?」
「……そんなもの、付けなくても僕はあなたのものです」
「俺が付けてぇの。本当はもっとしてぇけど……今日は我慢する」
「もっと……?」
「真っ白なバニーちゃんに性急に事を進めるつもりはない、って事だ。ゆっくりとな」
とん、と額を再び合わされて、もう一度キスされた。
「一緒のベッドで寝たいけど、俺の自制心が持つ自信ねぇから……どうする? お前ベッドで寝るか?」
「自制心? いえ、いいですよいつも通りにソファで寝ます」
自分の言葉に彼は笑いを浮かべ、そしてそれじゃあと彼はロフトへと上がって行った。
残されたリビングは惨憺たる有様だ。
しかしこれ以上もなく心が満たされていた。
もうこのままでいいかとケットを引っ張り出してきて、ソファの上に横になる。ケットにくるまればやはり相当酔っていたようで、目を閉じたら世界がぐるぐる回った。その真ん中で幸せを思い、そのまま眠りに飲み込まれた。
翌朝は、散々だった。
二日酔いの上に、昨晩あれほどの幸福をもたらした相手は酔い過ぎて記憶が全くないと言う。
上手く、ごまかしたつもりだった。
ない記憶へ向けて、あなたはこう言ってくれたのにと縋るような事は自分は出来ない。結局今まで通りを貫くと言う選択しかなく、自分へは平常心を必死に告げるしかない。
時折沸き上がるどうしようもない苛立たしさを自分がバカだったのだと諦めるように告げ、なだめ、心を平らにしてゆくしかない。
それでも幾度も彼が昨日の事を尋ねて来るのには、腹が立った。
所詮あの幸福だった気持ちも、夢でしかないのだ。彼はしこたま酔っていた。きっと好きだと言った言葉も勘違いに違いない。自分がそう言ったから、彼がそう返しただけにすぎないのだ。
ひどく自分がみっともなくみすぼらしい存在になってしまった気がした。
シャワーを浴びる時間もなく出社したので早めにトレーニングセンターへ向かった時に、彼は彼自身がつけたキスマークに酷く驚いていたけれども、そんなものは今更だ。見せてしまった自分の迂闊さを悔いた。
そのまま、まだシャワーの水音がするのを確認して、自分は手短に髪も完璧に乾かさない間にシャワールームを出てトレーニングルームへ向かう。
心を強くして行かなければいけない。一度緩んでしまった気持ちを再び引き締めねばならない。
こんな気持ち、抱いている方がおかしいのだ。
ネイサンが朝早いにも関わらず顔を出していたけれど、自分はまともに取り合おうとはしなかった。わずかな付き合いでも分かった事がある。あの人はとても鋭い。真面目に会話をしてしまえば、自分の乱れなど簡単に見破られてしまうだろうし、それは決してされてはいけないことなのだ。
結果として酷くつっけんどんな対応になってしまったが、気配りを出来るだけの余裕が今の自分にはなかった。
ランニングマシンの設定をする。
たどり着いたのは、別に割り振りされている訳ではないのにいつもと同じブースの同じマシンだった。そう言えば他のメンバーもそれぞれ自分固定のブースと言うのを持っている気がする。
ここは、自分と虎徹のブースになっている。せっかくシャワールームから逃げて来たというのに、結局彼はここへ来てしまうだろう。会社からここジャスティスタワーへ向かう道のりで、自分も昨晩の記憶がないとごまかしていた嘘が見破られたも同然の自分に取っては、たまらなく不利な場所だった。解放空間ではあるが、左右は高いパーテーションで区切られ、そして壁を向く自分に取っては横に転がるであろう彼の事を意識せざるをえない。そして、きっといつも通りの彼も自分を意識するだろう。
車中と同じやりとりが繰り返されては、これ以上平静を保つのは苦しいと感じる。
どうしてこんな感情を抱いてしまったのだろう。最初からなければ楽だったのに。
信頼出来るバディだと、先輩だと、それだけを思えれば良かった。下手な恋情など抱いてしまった自分がバカだった。
案の定、虎徹がネイサンとしばらく会話を交わした後、このブースへやって来る。ちらりとだけ視線が合った。揺るがないようにするのが必死だった。
こんな状況だと言うのに、彼は平静そのものだ――いや、それは当たり前なのだろうか。如才なくネイサンと喋り、失った記憶に対し困惑はしているもののそれが自分へ致命的な傷を与えた事も知らず、珍しくトレーニングを開始する。
彼はここへ来てもほとんど昼寝しているばかりだ。マシントレーニングならともかく、腹筋など始めるのを見るのは初めての事だ。
だが自分は出来るだけ無関心を貫いた。
ランニングマシンの速度を若干速くする。呼吸を整え、ただ地を蹴る動きを繰り返して行くうちに頭が真っ白になり、余計な事を考えなくて済むようになってゆく。――なのに。
視界の端で、上下する体が無心を邪魔するのだ。
いつまで経ってもこれでは自分は彼から解放されない。
この裏切られたような感覚からは逃げられない。
スピードを緩め、やがて、マシンを止める。
「なにやってるんですか、珍しい……。今朝二日酔いだった人がやる事じゃありませんよ」
「だったらお前もだろ。汗だくじゃねぇか、せっかく洗ったのに台無し」
「同じ言葉をお返ししますよ」
彼は全身汗だくだった。そう言う自分も同じだ。互いに運動にのめり込もうとして失敗した――そんな有様だ。
意識すると急に汗が気持ち悪くなったので、タオルを手に取り首筋を拭う。
虎徹の視線がずっとこちらを見ている。そこで、はっとした。
ここにも昨晩の虎徹が付けた跡がある。
慌ててタオルを引っかけて隠すが、二度の失態は致命的だっただろう。
案の定、虎徹は考え込むようにしてうつむいている。
思い出して欲しい気持ちと、忘れていて欲しい気持ちが鬩ぎ合う。
思い出して、また抱きしめて欲しい。
思い出して、気持ち悪いと正気に返られるのが怖い。
忘れていて、なにもなかった事にされるのが辛い。
忘れていて、いつも通りに戻れるかもしれないと期待する。
どうしたいのか分からない。
自分の中はぐちゃぐちゃだ。
彼に咄嗟に背を向けて良かった。今の表情は見られて良いたぐいのものではない。
「――っ」
そこへ、背後から温度が被さって来た。ひどく動揺した。
「虎徹さ……」
「お前、覚えてるだろう? 昨日の事」
再び問いかけて来た。
「ここ、公共の」
与えられた温度と言葉に、動揺する。だがそんな場合ではない。さっきまでここにはネイサンがいた。傍らの存在にばかり意識が向いていたせいで、他のヒーローが来ていたとしても自分は気付いていない。
だが即座に虎徹は「誰もいねぇよ」と言い切った。
逃げる手段を失う。
背後から抱きしめられて、身じろぎひとつも出来なくなる。
「覚えて……いません」
「なあ、あのとき俺らは何を話してたんだ。あんな距離で」
必死で絞り出した声だが、即座に虎徹に返される。
その言葉で、彼が記憶を取り戻しかけている事を知った。
途端に怖くなった。怖くてたまらなくなった。
「……あなたこそ、嘘を」
「さっき思い出した」
唇の端を噛み、目を固く閉じる。
「そのまま忘れてていれば良かったのに」
「お前が何か言ってた。なあ、何を言ってたんだ?」
「………………」
言える筈がなかった。何を思いだしたのかは知らない。
だが、好きですだなんて、もう一度言える筈がない。
もうお互い素面だ。そんな状況で告げられる言葉ではない。いっそなかった事にしたいものなのに――こうやって背後から抱きしめられて、泣きたいような気持ちになっている。
「二度も、言わせないでください」
それが精一杯だった。
思い出さなければいい……思い出せばいい……気持ちはどちらへ振り切れるのか分からないままぐらぐら揺れる。
「お前は、俺だけを見てればいいんだよ」
固く閉じた瞼の裏に、昨日の優しく口付けて来た彼の姿がフラッシュバックした。
「……っ、卑怯です」
そして、腕をふりほどく。真正面から彼を見る。
心臓が止まりそうな程に痛い。
「好きだ。昨日、俺はそれを言っちまったのかと思って焦ってた――お前は?」
「――……」
本当に、心臓を止められてしまうかと思った。彼は両手を広げ、自分を正面から抱きしめようとする。
もうそれに抵抗する気力などどこにもなかった。
「好き、です。告げればあなたは受け入れてくれた。なのに、記憶がない、なんて……」
「悪かった。酔い過ぎてた」
「本当ですよ、本当にあなたは酷い」
涙がこぼれそうになる。それを見られたくなくて、抱きしめ返した。彼の肩口に顔を埋める。
ここで泣き出してはダメだと思った。これ以上の醜態など見せたくなかった。
なのに、彼はずるい。
自分の体を少し引き離し、至近の距離からまっすぐに目を見る。
「泣くなよ」
「泣いてなんかいません」
「眼鏡、取ってやろうか」
「イヤです……このままでいてください」
――離さないでください。今度こそこれは夢ではないのだと、事実なのだと教えてください。
キスが落とされる。
それは彼はいまだ記憶は失っているだろうに昨晩与えて来た優しくついばむような、同じキスだった。
自分もそれに応える。
最後に噛みつかれて、目を見て彼はにっと笑う。
悔しくて、なのに幸福感で胸が痛くて、耐えていた涙が頬を転がり落ちて行った。