やたらと、視線を感じる。
今日はまだ出動要請もない、平和な一日だ。そういう日は当然のように書類作成に追われる訳だが、自分はかなり優秀な方なので差程忙しい訳ではない。問題なのは傍らの席に座る相棒の方なのだが、そちらからは何故か、さっきからずっと自分へ向けての視線を感じるのだ。
そんな余裕もない筈なのに何をしているのだろう、と思うと同時に見られていると言う事で少しばかり調子も狂う。
バディを組んで既に一年、つきあい始めて既にやっぱりほぼ一年。
いい加減彼の言動には慣れて来つつあるけれども、こうやってずっと見られていると落ち着かないのは当然のことで……
ためいきを、ひとつ落として彼の方を向いた。
「何をしているんですか?」
手はずっと止まっているのは知っている。
書類を溜め込む癖があるのだから、こういった平和な日に処理してしまわなければいけないと分かっているだろうに、キータッチの音がさっきからまるっきり聞こえない。
「ん?」
「だから、何してるんですか? と聞いてるんです」
自分もキーボードを叩く動きを止めて、きちんと相対した。
「あ、お前見てた」
「なに……」
「いや、綺麗な顔してるよなーと思って」
「なっ」
しれっと、この人は何を言うのだろう。バーナビーは頬に血が昇って行くのを感じる。
いかにも当たり前に、当然のように、表情一つ変えずに言うのだからこの人はタチが悪い。
「何を言ってるんですか、仕事してください、仕事」
「あ、……うん、そうだな。でもお前、顔赤いぞ? どうした?」
いかにも不思議そうに問われる。
どうした、ではない。自分が何をしているのか自覚がないのだ。舌打ちしたい気持ちになるけれども、ここは職場で事務の女性社員だっている。剣呑な空気にする訳にはいかないし、もっと言えば甘い空気になどしては決していけなかった。
「気のせいです、それより早く書類上げたらどうですか? 先ほどから全く仕事をしてる様子がないんですが」
「あー、バニーに見とれてたからなあ。ついつい」
「……っ、つい、じゃないでしょう。ここは職場です。仕事してください」
「あ、ますます顔が赤くなった」
「気のせいですっ」
「気のせいじゃねぇって……あ、照れてんの?」
「………っ」
照れてんの? ではない。そういう意図で見ていた訳ではないのだと知って、こっちが勝手に意識していたのだと気付いて、余計に頬が紅潮していくのを感じる。
この人はいつもこうなのだ。狙ってやっているかと思いきや、天然で自分を好きに転がす。
相手をしている自分としては、心臓が持たないこともしばしばだ。
「そっか」
と、笑い、彼はまたじっと自分を見る。
無視を決め込み、自分は再び端末へ向き直った。
今日中に仕上げたい書類は何通かある。その全てはさして手間の掛かるものではないのだけれども――傍らの存在が無言で意識を刺激してくるので、はかどらないこと甚だしい。
「なんだ、ごめんな」
と言いながらも、嫌がらせのようにまっすぐに自分を見ている。
まるで視線に力があるかのように、どこを見られているのかが分かる。最初はキーボードを打つ指先、そこから腕を辿って首筋、そしてそのまま横顔をくまなく見られて、おそらく真っ赤になっている自分の顔をまじまじと見られている。
落ち着かない。
本当に落ち着かなくて、さっきからミスタッチばかりしている。簡単な書類だと言うのに、さっきからほんの一、二行しか進んでいない。
「もう、いい加減にしてください!」
「え、別にいいじゃん」
「良くありません」
「別にそのままでいいからさ、仕事続けろよ」
「…………っ」
まさかあなたが見ているせいで、仕事になりません、などと口にするのは躊躇われた。
彼がにやにやと笑っているのも癪だ。きっと全て見通している。
たんっ、と強い力でリターンキーを押して、自分は立ち上がった。
視線でその姿を追われているのは分かる。だけど、無視だ。
この人の相手をすればするほど、自分は乱される。
ちょっと落ち着こうと思って、外に出る事にした。コーヒーでも買いに行こう。室内にベンダーはあるけれども、不自然だけれども、それでもいい。この視線から逃げたかった。
まるで全てを暴くようなそれに耐えられない。
「あれ、どしたのバニーちゃん」
「気になさらないでください」
つん、と視線を合わさずに顎を上げ、そのまままっすぐに部屋を出る。
外に出てガラスの扉から外れた場所につくと、ようやくほっと息がつけた。
本当に、困る。
無自覚なのだか、自覚ありなのかは分からないが、あの人の視線ひとつでどうにかなってしまう自分もいやだ。
相当好きだという自覚はある。初めて、好きになった人なのだ。
その人に興味を向けられて、平静でいれる筈がない。
想いを受け入れられて今は恋人同士ではあるけれども、きっと想いの比重は自分の方が高い筈で、だからいちいち全てに振り回される。それを虎徹は時折分かってやっているようなのだから、本当にタチの悪い人間だ。
だけど、好きになってしまった。仕方がない。
壁にもたれてためいきをつき、その場に座り込みたいところだったけれどもここは一応会社の廊下だ。この先にはヒーロー事業部しかないので人通りはほとんどないに等しいが、そんな場所でみっともない姿をさらすのは自分のプライドにも関わる。
なのに、だ。
ヒーロー事業部の扉が開いて、虎徹が出て来る。
さっと周囲を見回して自分の姿を見つけると、ほんの少しバツの悪そうな顔をしたかと思うと、まっすぐにこちらへやってきた。
「ごめんな、ちょっとやりすぎた?」
「ちょっとどころじゃありませんよ」
「でもさー、お前のまっすぐな顔って、つい見惚れるんだよ」
「――会社で、何を言ってるんですか。そんな事考えている間に書類片付けてください」
「そうつれない事言うなよ」
「つれない事じゃありません、常識です!」
いらいらいら、と分かっていない虎徹に対してどうしようもない苛立ちが積み重なって行く。
いっそ蹴ってやろうか、と思った瞬間に手首をとられた。
「なっ」
「ちょっとおいで」
「どこへ」
そのまま、ヒーロー事業部の前を通り過ぎて、廊下のどんつきにまで引っ張られる。
天井からの明かりは煌々とともっているが、どこか薄暗い気配がするのはこの先になにもないからだろう。
「悪かったって。機嫌なおせよ」
そして、くいと顎をもたれると、唇に柔らかな感触が訪れた。
「………っ」
なにを、この人は、いったい、どこで。
頭が一気にパニックに陥った。
その間を逃さず、何度も何度も柔らかな感触が降り注いで来る。
動揺が頭を支配していて、その柔らかな感覚を気持ち良く受けとってしまっている。
ああ、この人の事が好きだなぁ、などとまで思っている。きっとそんな場合じゃないのに気持ちはぐらぐらと揺らぎ始めていた。こんな甘やかすようなキスだけじゃ足りない。もっときちんとした、大人のキスをしたい。
薄く唇を開くと、その端をちろりと舐められた。
だが、そこまでだ。
「会社だから。な?」
などと言って軽く頭を撫でて来る。
なんて酷い人なんだろう、この人は。
さんざん人を視線で煽り、キスまでしておきながらここでおしまい、だなんて……。
満足したような顔をして、「さ、仕事戻るか」などと言っている彼の手を掴んで、そのまま部署へと向かった。
「すいません、これからトレーニングセンターへ向かいます」
「え? バニーちゃんどうしたの?」
「どうしたのじゃありません、行きますよ、虎徹さん」
「別に構わない……けど?」
女性社員の了承の返事を聞くや否や、そのままエレベーターへと向かった。
ふたりきりのエレベーター内で手を出したくなかったかと言えば嘘になる。手を出したいに決まってる。さんざん煽られて、こちらはすでにその気でいっぱいだ。
地下階まで降りるのを待ち遠しく思いながらも、掴んだ手はそのままだった事に気付いて慌ててその手を離した。虎徹がなにやら意味深に笑っている事が腹立たしい。どうせこちらの事などお見通し、と言うつもりだろう。
頭の出来は自分の方が良いつもりだけれども、こういった場面においては、いつだって彼の方が一枚上手なのだ。悔しい事に。場数の問題かもしれないし、単に自分の方が彼を好き過ぎるせいかもしれない。すぐに自分は余裕をなくす。
ようやく到着した地下階で、そのまままっすぐバーナビーは自分の車へと向かった。
虎徹は素直に後をついてくる。
何も聞いてこないのが、いやだ。悔しい。
見通してますよと言わんばかりだ。
「サイドシートでいいんだよな?」
「もちろんです」
キーレスエントリーすれば、助手席に彼は乗り込む。
そして、自分も同じように助手席に乗り込み、彼に覆い被さった。
「あなたが悪いんですからね」
一言告げて、唇をぶつけるように合わせる。
そのまま薄く開き、舌で彼の唇をなぞるように舐めた。
されるがままになっていた虎徹は、少しばかり驚いた顔をしたけれどもすぐに直前までのにやにやとした顔に戻っている。腹立たしい。
彼の唇を割り、中へと舌をもぐりこませれば、その瞬間に荒く舌を絡められた。
「……っん」
え、と思う。決して能動的でなかった彼の突然の動きに、動揺する。
舌を絡められ、強く吸われて、吐く息すらも飲み込まれてどうしようもなくなる。濃厚なキスのまっただ中にたたき落とされて、力が抜けていく。
「は……ぁんっ」
強く抱きしめられ、逃げ場も封じられる。
どういう事だ? 自分が仕掛けた筈なのに、今主導権を握っているのは間違いなく虎徹の方だ。
そして、狭い車内でぐるりと体を入れ替えられた。
シートに押しつけられ、至近の距離に見える彼の目は欲情に濡れている。思わず背中が粟立った。ぞくりとした感覚が走る。
「お前が挑発すんのも悪いぞ」
「あなたが……っ、ん、いた」
首筋へ、かぷりと噛みつかれた。
思わず文句を言いかけた唇が止まる。
見える場所へ痕はつけるなと日ごろ散々言っているのに、この人は全く学習しない。
「こっちだって、結構せっぱ詰まってるんだけど。バニーちゃん?」
「知りませんよ、そんな事!」
腹を立て、こちらからも唇を彼の耳元へ持って行く。耳朶を舐め、そしてちゅくちゅくとそこを食むようにしながらしなやかに筋肉のついた、着痩せするこの人の体を衣服の上から撫で、そしてシャツの引っ張り出すと背に手を入れる。
高い温度の肌に劣情が刺激される。
自分がされているように背を撫で、骨の上を指で辿ると、ふっと虎徹が笑った。
「な、なに……」
「お前、へたくそ」
「なんですか!」
「こうやるんだよ」
と、ジャケットのジッパーを一気に引き下ろしたかと思うと、シャツの裾から手を入れられる。そのまま彼の手の動きのまま、シャツはまくり上げられていく。
「ちょ、だって……そんなの、全然……ちがっ」
背中と前では全く違う。
手はするすると肌を滑り、慣れた手付きで腹筋を辿り、脇を撫で、そして胸元にまでたどり着く。性急な動きに、こちらもついていけない。
「……虎徹さん、余裕ないんですか?」
「ああ。当たり前だろ」
「なっ、んで」
「お前がさっきから煽ってばっかだし。こっちだってその気になって当然だろうが」
「煽ってなんか」
「あれで煽ってないなんて言われたら、この先おじさんどうしたらいいの」
「元はと言えばあなたが、僕の事……」
「あー、うん。そうだな。でも見てただけだぜ?」
「その後だってあなたがキスして来たから」
「キスだけだろ? こんな風なのはしてなかったと思うけどな」
と、再び唇を合わせられ、濃厚なキスを与えられる。
「……っ、んんっ」
尖り、主張している場所を指で刺激されながらの濃厚なキスはかなり苦しい。
ぱちぱちと弾けるような感覚が全身にしびれをもたらし、そして鈍い知っている重みが下腹へとたまる。
「だから、お前のせいな?」
「そんな…っ、ひど、い…こてつさんのせい、です」
「俺のせい? ずるいなバニーちゃんは」
そして、再びさっき噛まれた首にやんわり歯を立てられ、そしてその場所を舐められる。ひくり、と体が震えるのを止められない。
こんな狭い場所でどこまでも出来ないと分かっているのに、先を期待してしまう。
「なあ……本当にトレーニングセンターに行く?」
「………」
この人は、本当にずるい。
「俺、結構限界」
「そうやって僕のせいに、またするつもりですか?」
「いや? 今度は俺のせいにしてもいいけど?」
にやり、と彼が笑う。
携帯を取り出した。
そして、職場へとコールする。
「すいません、虎徹さんが体調を崩したので、このまま直帰します。……ええ、送りますから」
簡単な返事を受け取って。二つ折りの携帯は再び閉じられた。
「あなたのせいに、なりましたからね?」
「ああ、望む所だ」
ぐい、と首に腕を回して再びキスをせがむ。
ひとしきり口付けを交わした後、
「がっつくなよ、この後がお楽しみだろ?」
と、彼は言って珍しくこの車の運転席へと向かって行った。
向かうのは彼の家だろう、きっと。