会社の席に座って、端末を見ている。
――ああ、これは夢だとはっきり分かる、奇妙な夢だった。
夢だと言うのにいつものように俯瞰した視点で見ている訳ではなかった。夢の中の自分と同じ視点でしかものを見る事が出来ない。その上、行動はなにもかも自分の自由にはならないようだった。
「僕はあなたを忘れた事すらも忘れています」
意味のないテキストの表示されている端末を眺めたまま、自分は喋っている。誰もいる筈がない傍らの席に誰かの気配がする。代わりに、いつもいる事務の女性社員はいなかった。
ちらりとでも横を見れば誰がそこにいるのか分かるのに、夢のなかの自分はまったく自分の思い通りにいかない。そもそも何を言っているのかすらも分からない。誰に、何を言っているのだ?
「だからあなたに会ったら容赦なく攻撃します、逃げてください」
軽く笑いの気配が傍らからする。
その事に、夢の中の自分がカチンと来ている事が分かる。
「笑っている場合ですか。最悪僕はあなたを殺すかもしれない」
「 」
相手が何かを告げた。だが声は聞こえない。
しかし、夢の中の自分には聞こえているようだ。
イライラとした感覚のみが流れ込んでくる。
「そんな筈ないでしょう。最初に言った通りです」
言葉を短く切る。そして、それでもやはり相手を見ることはせずに自分は強い語調で続けた。
「あなたを忘れている事も、忘れているんです」
奥歯を噛む。浮かべている表情はきっと険しい。何故こんなに自分は苛立っているのだろうか。
「だから逃げてください、僕はあなたを殺したくなんかないんです」
「 」
「だから!」
ぎゅ、とデスクの上で手を握りしめた。
「……覚えているはずがありません」
なにを、だ?
「あなたは無茶な事ばかりしようとする。お願いです、逃げてください」
「 」
「逃げてください」
「 」
かなり長い間があった。
相手が喋っているのを聞いているうちに、夢の中の自分は泣きたくなっているようだった。
イライラとした感情はそのままだ。
何に苛ついている? そして泣きたくなっている? ここまで夢の中の自分と同一化しているのなら感情全てまで手に取るように分かれば良いのに、そこまで親切な夢ではないらしい。気になって仕方がない。
そもそもそこにいるのは誰だ。
誰もいない筈のその席に、誰かがいる。その事がひどくしっくり来ている自分――夢の中ではない、夢を自覚している自分がいるのだ。
そんな筈はない。アポロンメディア、ヒーロー事業部に所属するのは自分とワイルドタイガーだが、お互いの接触はないに等しい。お互いに個室と事務員を一人与えられているのだ。だからこの部屋の事務員の席が空席ならば、自分はひとりきりの筈だ。
誰かが居れば違和感を感じるだろうし、まさかしっくりくるなどと言う事はあり得ない。
もしかしてワイルドタイガーが? とは思ったが、彼とは社内でも顔を合わせることはない。彼の正体については、相棒である自分にも秘密が厳重に守られている。事情は聞いている、家族がある人間だと言うのだ。どこからかでも情報が漏れ、家族が危険にさらされる可能性を心配をするのは人として当然の様な気がしたし、普段のワイルドタイガーを思えば意外にも思えたが、納得せざるを得ない理由ではあった。
コンビを組んで既に一年以上。出動の時にしかスーツ越しで顔を合わせる事はないと言うのに、それでも多分、今現在一番に信頼しているのは彼だろう。だから、そこにいるのは彼のような気がしてしまう。
しかし感じられる気配は、コンビを組んでいた彼とは違う匂いがする。
いや、そもそも彼とはこんな感情的な会話などしない。
「逃げて、ください」
自分は繰り返しそう言っていた。
笑いの気配が再びする。
そして告げられた言葉に、今度こそ泣きそうになった。
「 」
「やめてください……」
「 」
「無理です、やめてください。無理なんです……」
何が無理なのだろう。今の自分に無理な事なんてない。
キング・オブ・ヒーローになって既に時間も過ぎている。復讐も終えた。ああ、サマンサが殺された。その仇を討たなければならない。
だが、その犯人は既に誰だか分かっている。
どんな手を用いても必ず検挙すると決めている。
そう。
眠っている場合ではない。
自分はやらなければならない事がある。そしてそれは不可能な事ではない。
「お願いです!」
叫ぶように告げた自分は、ようやく傍らを見ようとし、そして……
「待って!」
自分の声で、目が覚めた。
目が覚める直前にようやく傍らの彼の声が聞こえた。
――お前はちゃんと出来る、信じてるから
どういう意味だ?
誰の声だった?
そして、あれは誰だった?
曖昧な目覚める直前の風景。勢いを付けてそちらへ向いたから流れる視界の景色の一部でしかない。誰かどころか、そこに人がいたかどうかすら怪しい。
なのに、その言葉が胸に落ちて響いた。
あたたかい、声だった。
「どうした、バーナビー」
寝室の扉が開く。サマンサを殺され、少しばかり情緒不安定になっていた自分は再びマーベリックに世話を掛けてしまっている。
別荘の一室を借り、そこで休ませてもらっていたのだ。彼の持ち家の中では小さな部類に入るのだろう、すぐ隣がリビングになっていた。だからさっきの声を聞きとがめられたのだろう。
「あ……すいません、マーベリックさん」
「どうしたんだ? 泣いているじゃないか」
「え?」
心配気な声音で覗き込まれる。自分の頬に手を触れて、ようやく彼の言っている事が事実だと分かった。確かに自分は泣いている。頬が涙に濡れている。
泣くような夢だっただろうか?
既に輪郭は曖昧になっている。誰かと喋っていた夢……だっただろうか?
「もしかして、サマンサの夢でも見てしまったのかい?」
「……――」
「待って、と言っていたように思う。彼女が逝ってしまったのは、本当に辛い事だったね」
「いえ……」
違うんです、と言おうとした口が何故か閉じられた。そして、そのまま頷くようにうつむいた。何故か表情を見られたくなかった。
「無理はしなくてもいいんだよ、バーナビー。私の前ではヒーローである必要はないのだから」
「ありがとうございます、マーベリックさん」
少しだけ顔を上げる。笑んで彼を見た。
まだ眼鏡を掛けていないから少し離れた場所に戻ったマーベリックの事は、輪郭程度しか見えない。
――違う、と思った。
何が違うのだろう?
そして何故素直にサマンサの夢ではなかったと言わなかったのだろう?
ああ、何かを告げられた。夢の中で、誰かに。
その言葉で自分はきっと泣いたのだ。
だがすでに夢の形は曖昧で、なにをしていたのか、そしてあれだけ明確だった告げられた言葉が何だったのかも、既に失われていた。
「朝食は食べられそうかい?」
「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。もう……休んでいる訳には行きませんから」
かたり、とベッドサイドに置いてある眼鏡に手を伸ばして、掛ける。
クリアになった視界でマーベリックを見ると、やはり心配そうな顔をして自分を見ていた。
なので、安心させるように笑顔を向ける。
「大丈夫ですよ、もう。子供じゃないんです、ちゃんと正当に復讐だって出来る。両親の復讐だって無事遂げられたんです、今の自分は無力じゃない。サマンサおばさんを……殺した男も、僕が自分の手で捕まえます」
言葉の通りだった。夢なんかに振り回されている場合ではなかった。
「そうか、頼もしくなったな」
そう笑む彼に、少しだけ違和感を感じた。
その違和感は歳だとすぐに知れた。忙しくしていたからだろうか、こうやってゆっくり顔をつきあわせて過ごすのは久しぶりの事だ。随分、いつの間にかマーベリックは歳を取ってしまっている。顔に刻まれた皺と言い、表情の作り方と言い、老けてしまった。
時間が掛かってしまったのを今更ながらに知る。
そんな相手に心配ばかりを掛けられない。今まで育ててもらった恩だってあれば、こうやって仇を取れた現在の自分のステージを準備してくれた恩人でもある。
ちゃんと自立しなくては、と思いベッドから降りた。
「すいません、シャワーお借りしても?」
「ああ、もちろんだとも」
違和感を感じる。なんだろう、と思う。何も妙なことはない。昨日もここで起き、忙しいだろうにマーベリックが作ってくれた朝食を食べ、落ち着くようにと休息を取っていたのだ。それが今日は出動になるだけのこと。
なのに、何故だろう。
こうやって朝食を用意してくれているのは、彼ではない気がしてしまう。
まとわりつくような些細な違和感が気持ち悪い。
ベッドで起きてすぐに見る姿は誰だった? いや、誰もない。ずっと自分は一人暮らしを貫いていたし、恋人らしき恋人も持った記憶はない。朝起きて誰かがいると言う事態が既に常と違うのだ。
違和感を感じても当然だろう、とその感覚はそこに捨て置く事にした。
泣いた後の残る顔はみっともないだろう、早くシャワーを浴びてしまうに限る。
何の夢を見ていたのだろう? 泣いてしまうような夢? やはりサマンサの夢だったのだろうか。
シャワールームに行き、そこで夜着を脱ぎ、熱めに設定したシャワーを浴び意識を芯から目覚めさせる。
――「 」
誰かの声が、耳に響いた気がした。
だがそれは水音に紛れて、すぐに消えた。
気のせいだ。
今朝の自分は、少し取り乱してしまっているようだ。よりによって出動を決めた日になんてことだろうか。それとも、出動を決めたからこそ再び不安定に陥っているのだろうか。
ああ、知っている。
自分は本当は弱い人間だ、だからこんなに簡単に乱れてしまう。誰かが傍で支えてくれればいいのかも知れないが、それは過ぎた贅沢だろう。
苦笑して、ソープを泡立てた。
涙の跡は丁寧に顔を洗ったので、もうすっかり消えてしまっているだろう。