また、この夢だとバーナビーはため息をつく。
それは幼い頃から見続けていた現実と言う名の悪夢ではない。情報を得られるかもしれないそれと違い、どこまでも輪郭の曖昧な非現実なそこは、夢としか説明がつかない場所だ。
世界に色がついている訳ではない。淡く霞かかった白い世界は、自分が足を降ろす場所とそうでない場所の境界すらもはっきりとしない。ただふみしめる場所が固くあるので、そこが地面だと知れるだけだ。
ヒーローになってから、幾度も見た夢だ。
ただ白い世界を茫洋と歩くだけの夢。
その世界に変化はなにもない。
目が覚めて意味があるのかどうか分からないそれに、ただため息をつくしか出来ない。別に歩き続けるだけの夢で、疲れる訳ではない。ただ無意味に歩く事が何かを示唆しているようで、バーナビーを憂鬱にさせるのだ。
まるで、今の自分がそうであるかのような思いにさせられる。
何もない場所を、ただひとりで歩く。
虚しい行為だ。
「バカバカしい……」
くしゃり、と寝乱れた髪をかきあげ、意味のない夢を意味のあるものにしようとしている自分へ吐き捨て、ベッドから降りた。
本当に、それこそ意味がない。
バカバカしい行為だった。シャワーを浴び、朝食を食べるための時間を考えればそうぼんやりしていられる訳ではない。
朝は弱い方だったが、そう自覚があるからこそ、バーナビーは自分を律するようにしていた。
ヒーローになって、既に一ヶ月。いまだウロボロスの手掛かりはどこにもない。
焦っているつもりはない。環境が変わったからと言って、劇的な変化を期待出来るほどバーナビーは子供ではもうあり得なかったからだ。
幾度も裏切られて来た過去があるから、簡単に期待し、心を疲弊させる事はしない。
そこにあるのは、諦念ではない。朝が弱い自分を律するのと同じ、経験から来るただの慣れだった。
熱いシャワーを浴びて、夢の余韻をさっぱりと流す。そして、今日も同じく忙しいスケジュールを脳内で再確認しながらいつもの衣服に着替え、部屋を出た。
今日は出動があるだろうか、と心の端をほんのすこし引っかけながら。
――白い夢は、まだ見る。
「おはよう、バニーちゃん」
復讐を終えてクリアになった世界で、現実の繰り返しであるあの悪夢を見る頻度は減った。
その代わりであるように、あの白い夢は繰り返して自分の眠りの世界を侵略する。
「おはようございます」
今朝もただ茫洋と歩くだけの夢を見て、何か意味でもあるのだろうかと、ほんのわずかな昔なら放っておいた疑問を引きずったまま、職場のデスクに座っていた。
いつものごとく、定時間際に駆け込んできた相棒は、朝だと言うのに元気過ぎる笑顔を振りまき席に着く。
端末を立ち上げ、今日のスケジュールを確認する。
あのセブンマッチ以降、熱くなりすぎているきらいのある世間に風はいまだおさまらず、スケジュール表は外部取材であるピンクで塗りつぶされている。この状態では、今日もトレーニングセンターには向かえないだろう。しかし体が資本であるヒーローをしているのだから、この状態は余り良くない傾向だ。
傍らの席に座る虎徹の分も確認すると、こちらもピンクの色が目立つ。
一緒の仕事が多いのは有り難いと、ほんの少し口元が緩んだ。
「十時十五分には出ないと間に合いませんね」
「え?」
端末を立ち上げたものの、まだログイン画面で放置したまま新聞を眺めていた虎徹は一瞬何を言われたのか分からないと言った顔でこちらを見る。きょとんとした顔だ。
「取材ですよ」
「ああ、また?」
「またもなにも……当分これはおさまらないでしょう」
露骨にげんなりした顔をする虎徹は、人助けと関係のないヒーローのお仕事が非常に苦手だ。カメラの前で顔を作る事も下手ならば、それ用の言葉を紡ぐのも上手くない。暑苦しいくらいにヒーローであるくせに、それを誰かに伝えるのを非常に面倒臭がるのだ、この人は。
少なからず彼に影響されている自覚のあるバーナビーは、その事に時折悔しいような気持ちになる。
自分ばかりがもてはやされているが、本当はこの人がいなければ今の自分は存在していないのだ。
その事を、誰も知らない。下手すれば彼すらも気付いていないかもしれない。何故ならバーナビーが自らそれを告げた事がないからだ。
彼へ向けて心が動かされている事は、気恥ずかしくて告げる気になれないでいる。
ただ自覚出来るほど無意識に態度が軟化している事だけは知っている。
「まあ……そうだよなぁ」
取材が嫌いな虎徹は頭をかしかしと掻きながら、それでもセブンマッチ以降のヒーローに対する世間の目がどう変わっているかくらいは理解しているのだろう。
そして、相棒である自分がどれほど英雄扱いされているのかも、分かっている。
「お前も大変だよな」
「まあ、仕事ですから。付き合わされるあなたがお気の毒ですよ」
「いや、まあ仕事だし」
へにゃり、とどうにも気の抜ける顔で微笑みかけられて、こちらも思わず力が抜けた。
「珍しいですね、あなたがそんな風に割り切るなんて」
「そうでもしなきゃ、やってらんねぇだろ? お前もそうなんだろうし」
「確かに」
穏やかに笑みを浮かべ、彼を見る。
最早自分の顔を売る必要などなくなった、と知っている彼なりの気遣いが心に優しい。
「最近のバニーちゃんは柔らかいよな」
「え?」
「空気が丸くなった。いい傾向だよ」
「そう……ですか?」
「ああ」
ふわり、と伸びて来た手が、デスクを乗り越えてバーナビーの頭を撫でる。
心がじんわり温かくなる事に動揺しながらも、表情が崩れる事は止める事が出来ない。
「だとしたら、あなたのお陰ですよ」
「俺?」
「ええ」
それ以上は今、言うつもりはなかった。
なになに? なんで? と繰り返し尋ねられるが、さあ、としらを切り通す。その理由に気付いていないのだとすれば、彼は相当に鈍いと思った。
あの復讐を遂げる事が出来たのは、彼のお陰なのだ。自分一人では無理だった。
冷たくその直前に切り捨てた事も忘れ、彼はほうほうの態であるにも関わらず自分へと駆け寄ってくれたのだ。その事に感謝をしている。いや、感謝なんて言葉では足りない。
この感情の名前を、自分は知らない。
ありがとうと百回告げても千回告げても足りない。
もっと傍に行きたくて、だがためらってしまう心の名前を、知らない。
それを知ってはいけない気がしていた。
「しょうがねぇな……ったく、兎ちゃんは」
なにが仕方ないのかは分からないが、追求の手は収められて、虎徹はようやく端末を操作しはじめた。自分のスケジュールを確認したのだろう、おそらくピンクの締める割合にげんなりとした顔をしている。
それをくすくす笑いながら、自分も再び端末へと向かい合った。
――あの白い夢の中に、彼が並んでくれたらいいのに。
ふと、そんな事を思った。
曖昧な白の世界は、自分一人の空間だった。
孤独を昔は感じていたのかもしれない。今は、だが違う。
「……あなたと、一緒にいれて嬉しいんですよ」
いつかに望んだように、この世界はひとりきりではなくなった。
いて欲しい人が、傍らにいる。一緒に歩いている。
「バニーちゃんがそんな事言うなんて、珍し」
くすくすと笑いながら、バーナビーの髪をくしゃりと撫でるその人は、相棒だ。
現実の空気そのままに、傍らを歩き、過剰なスキンシップを取る。
現実では動揺して上手く対応出来ないのに、ここでは素直にバーナビーは微笑む事が出来る。
「いつも思ってるんですよ」
「へえ」
少し体を前屈みにし、自分を覗き込むように見上げる彼の視線がくすぐったい。伺うような視線には少し戸惑った視線を返し、それから意識的に笑みを浮かべる。
「好きなんです、あなたの事」
いつかに名前を知れなかった感情は、既に明確に自分の中にそうとして存在していた。
名前を知った。だが、現実には何も動けていない。
「へぇ、そうなんだ」
だから、この穏やかに笑って気持ちを受け止めてくれるように見える彼の姿は、限りなく自分の妄想に近い。
知った感情は自分に幸せももたらしたけれども、同時に不都合な事も多く知ってしまった。
彼の傍に居たいと願っても、そこには既に美しく輝くプラチナが存在し、その願いは叶わないと突き付けられる。そんな痛みも知った。
「あなたの事が、好きなんです」
「うん、俺もバニーの事が好きだよ」
好き、と簡単に言えるだろう彼の事も知っている。
軽く告げてさえしまえば、きっと虎徹も同じように、今のように告げてくれるだろう。
そこには恋の色などない。求める強さもない。
平坦に、柔らかく続くいままでと同じ感情だ。
彼に好かれている事は疑っていない。
くしゃり、と再び髪をかき乱されて、心は熱くなるのに同時に痛みも存在する。
心を滲ませる、好きの言葉を告げようとする。
痛みに耐えきれなくなって、その言葉を告げようとしてしまう。
だが。
「また、夢か」
夢ですらも、それは叶わなかった。
ぱちりと珍しくはっきりと覚醒した意識が、無意識に言葉を紡いでいた。
ため息をつく。いつかのため息とはまったくの別の代物だった。
無意識だからこそ、そこには自分の落胆と安堵の気持ちが強く現れていて、表情をしかめてしまった。
「夢で、いいんだ」
そう。現実は穏やかに過ぎていく。
変化を望んではいけない。このまま生きて行くのがきっと正しい。
優しい彼を困らせるつもりはない。今のポジションがきっと自分には合っている。
既に彼と相棒としての立ち位置は確立され、安定していた。お互いにとって気持ち良い動きも掴んでいる。そうやって勝ち得たのは、デビューシーズンでのランキング一位とMVPの座。そして、新しいキング・オブ・ヒーローの名前だった。
少しだけぐったりとベッドの上で怠惰になる時間を自らに許し、だが目覚ましの鳴る前の時間に一度固くまぶたを閉ざし、意識を切り替えて体を起こした。
下着一枚で目覚めるには、すっかり寒すぎる季節だ。空調はいつでも快適に調整されているけれども、ベッドから出る瞬間にはふるりと体が震える。
熱めのシャワーを浴び、いつも通りに家を出る。
行きつけになってしまったカフェで朝食をとり、雑然としている世界を俯瞰するようにして眺める。自分は、上手くヒーローをやれているだろうか。
溢れ出しそうになる気持ちが、邪魔をしてはいないだろうか。
あの白い夢に彼が出てくるようになって、数ヶ月は過ぎている。
夢の中ですらも告げる事の出来ない言葉が、ぐるぐると頭を回っている。
心が時折、軋み音を立ててしまいそうになる。
もう、限界かもしれないと、目覚めた時にはこのままでいいと納得していた筈の自分を否定しかける。
バカな事を考えている。きっと。
温くなってしまったコーヒーを飲み干し、バーナビー・ブルックスJr.としての顔を作る。
キング・オブ・ヒーローとしてこの街を守る、それはそれで愛している顔だった。
だから、バカな事なのだ。
世間の風は、優しく暖かくバーナビーに向けて吹いてくれている。
だから、そんなに難しい事は考えなくて良い。このままやりすごしてさえいれば良いのだ、きっと。
職場につくと、珍しく先に虎徹が席に座っていた。
いつもは遅刻寸前に駆け込む彼だが、ごくまれに……今までに両手で数えられる程だが、こんな事があった。
「おはようございます、珍しいですね」
「ああ、たまにはな」
立ち上がっている端末画面は、今日のスケジュールだろう。一時期落ち着いたピンクの表示は、バーナビーがキング・オブ・ヒーローになってから再び勢いを増し、領域を広げている。虎徹の表示だけでも、かなりの部分をピンクに塗りつぶされている。自分のスケジュールを考えると、少しばかりげんなりした。
そういった仕事も嫌いではないのだが、やはり落ち着いて虎徹と共にいれる状態の方が好ましい。このオフィスで面倒臭そうに書類仕事に向かう彼を感じたり、時折尋ねられたり、こちらから催促したり。トレーニングセンターでもいい。怠惰に寝そべりながら、時折掛けられる柔らかい声や、からかうように掛けられる声が好きだった。
第三者もいる、しかも彼の苦手な取材や撮影では、そう言った物は望めない。
少しばかりがっかりした気持ちを隠しながら、自分の端末を立ち上げた。スケジュール画面を見れば案の定ピンクに塗りつぶされていた。
「なあ、この仕事バニーだけじゃあ無理?」
「無理ですよ、先方があなたもって言って来てるんですから」
「あー、だよなぁ」
はぁあ、と深いため息をつく虎徹に、思わず笑みが浮かぶ。
「しばらくは諦めた方がいいんじゃありませんか?」
「なぁんか前にも、そんな事があった気がする」
ちらり、とふてた顔の合間から流される視線に鼓動が跳ねる。
「気のせいじゃないですか」
そんな鼓動をなだめ、表情を崩さないように意識し、視線を端末の画面へと向けた。
虎徹と一緒に仕事を確認し、それ以外の仕事をなるべく早く終わらせられる方法を考える。気のせいじゃない、と騒いでいる彼を適当に流し、流す事で自分を落ち着かせる。
この気持ちを意識するのは、やめた方がいい。
知っている。分かっている。
だから、夢の中の世界でだけ、自分は彼と共にあれればいいと思った。
いや、そうであれる事を、祈った。
白い世界で、彼と共に歩く。
彼の左手には、美しく光るプラチナ。それは変わる事なく、そこにある。
優しく自分に接してくれる虎徹は、現実とさして変わりない。
結局求めているのはこの程度なのだ、と。
バーナビーは穏やかに微笑み、彼に語りかける。
――好きです、と。
彼は優しく答えてくれる。それはいつものやりとりと同じだ。
軽い言葉の応酬。
それしか自分には許さない。
夢の中でも眠らされる心は、ずっと眠り続ける。
いつか破綻すると分かっていながらも、今はただ、眠る事だけを選ぶのだ。
その選択が続けば良いと、願いながら。