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「 too late 遅いんですよ 」



 やっちまった。
 目が覚めて一番に思ったのは、そんな最低の事だった。
 昨夜の事はしっかりと覚えている。鮮やかな事件の解決と、決まった連携の心地よさのあまりに、二人で酒を飲みに行った。近頃なつき始めたこの青年の事を虎徹は可愛いと思っていたし、気に入ってもいた。だからと言ってこれはないだろう、と思うのだ。
 酒の勢いだろうか。いや、そうではない。
 きっと自分は、そういう意味で彼――相棒のバーナビーの事が、好きだ。
 だけどそれを表に出すつもりなどなかった。
 この歳で恋愛などするものではない。彼はまだ若い上に既に輝かしい未来への素地を持っている。子持ちで既婚歴もある自分が、彼の足を引っ張る訳にはいかない。そんな事はしたくない。彼の事はそういう意味でなくとも好きなのだ。相棒として、きちんと人生の先輩として彼を導いてやりたかったし、傍にいたいと思っていた。
 なのに、これはない。
 いろいろなものをすっ飛ばしてしまった。いや、こんな事がしたかった訳ではないのだ。
 自分はしてはならない事をした。
 間違えてしまったのだ。
 体を起こした自分につられたのか、傍らで眠るバーナビーは、もぞりと寝返りを打った。真っ白な肌。毛布に隠れているその下も、きっと何も身に付けていないだろう。首筋には鬱血の痕がある。虎徹はきちんと覚えていた。間違いなく自分の付けたものだ。
 ため息を吐く。頭を抱えてしまいたかったが、そんな事をしても現実が上書きされない事くらいは理解している。
 彼だって全く抵抗しなかった。幸せそうに受け入れられた。
 それだって、ダメだ。そんなものを虎徹は受け取れない。
 甘ったるい声だってしなやかな肌だって、受け入れられた場所の温さだって記憶に刻み込まれてしまったけれども、そんな記憶いっそ粉々に砕いてしまいたかった。自分の中にこれ以上バーナビーを持ち込んではいけない。同時に、彼の中に自分を刻んでもいけない。
 自分達は、あくまでも相棒でいなければいけなかったのだ。
「……こてつ、さん?」
 まだ殆どを夢の領域に奪われたままのバーナビーが、たどたどしく自分の名を呼ぶ。
 謝るべきだろう、と思った。
 関係性を変えるつもりはない。彼の事が好きだからこそ、変えてはいけない。
 謝ってなかった事にしてもらうのが、きっと一番良い事だと思われた。
 もぞり、とバーナビーは起き出して自分を見る。
「おはようございます」
 ぼんやりとした声だったが、自分に向けられたそれは甘さが含まれていなかった。わずかに首を傾げる。肌を合わせた相手に対する声音とは思えない。
「シャワー、お借りします。僕は一度家へ戻りますから」
 だるそうだったが、彼はそのまま起き出した。虎徹の部屋のベッドはそう広い訳ではない、普通のシングルだ。だから体が触れてしまうのは、仕方が無い。そのことに心臓が跳ねたけれども、彼は全く気にした様子もなく、やはり何一つ身に付けない裸体のままベッドから降りた。
 結局虎徹は彼へ一言も告げる事が出来なかった。
 それを気にしたようでもなく、バーナビーはロフトから降りて行く。
 やがて、シャワーの音がロフトにまで響いて来た。



 結局まともな言葉を交わす事なく、バーナビーは帰って行った。
 彼の様子は淡々としていた。昨夜の記憶は残っているけれども、甘えた顔をして手を差し伸べて来た彼の姿とはほど遠い。いつものハンサムの顔だった。
 もしかして、記憶がないのかもしれない――と思ったけれども、さすがにそれはないだろう。素っ裸で同性の相棒のベッドで目が覚めても動揺しないなど、じゃあ何があれば動揺するのだと逆に問いただしたい。そこまで規格外ではないはずだ。では、どういう事だろうか。彼もまた日常を保つ事で、イレギュラーを消し去りたいのかもしれない。そう思うのが一番虎徹としては納得が出来た。
 それは好都合でもある。自分だってこんなイレギュラーは消し去ってしまいたい。
 ならば、せっかくの状況に乗るべきだろう。



「おはようございます」
 職場に着くと、既に席についていたバーナビーはちらりとこちらを見て、声を掛けて来た。
「よ、おはよ」
 いつも通りだ。被っていたハンチングを手に取り、机に置きながら席に座る。
「……どうした?」
 端末を起動させる動作をじっと見られ、少しばかり落ち着かない気分になった。いえ、とバーナビーは言い、ふぃと視線を元に戻す。不自然、とまでは言えない。だから気にしないようにした。こちらを見ていたバーナビーの視線は特に意味を持っていなかったように思えたからだ。
 何かを言いたげでもなかったし、熱を上げているようでもない。
 だから朝思っていたように、『あれはなかった事』として処理する事に決めた。それが一番に平和なのだから。
「なあバニー、朝メシ食ったか?」
「ええ」
 モニタから視線を逸らさず、あっさりとした声が返される。
「あ、そ」
 どうしたものだろう、と落ち着く事が出来ず、結局虎徹は食べ損ねてしまっていた。
「どうしました? もしかして食べてないんですか?」
 何故バレたのだろう? 不思議に思いながら、彼の問いには頷く。いつも三度の食事は欠かさず食べる方だから、こうやって朝抜いてしまった事は、不本意だった。後で様子を見て、何か買い出しに行こうかと思う。
「珍しい」
 ちらり、と彼はこちらを見る。朝食になりそうなものを買って来ていないのも確認し、バーナビーは自分の机の引き出しを開けた。そこから、小さなパッケージを取り出す。
「こんなものじゃあなた、満足しないでしょうけど」
 はい、と手渡してくれたのは、携帯用の栄養バーだった。その表情がやけに甘やかな笑みが滲んでいて、そのことに動揺する。そもそもが、だ。こうやって朝食を食いっぱぐれるような真似をしても気にされた事もなかった筈だ。
「あー、サンキュ」
 ごってり甘そうなそれは、確かにカロリーは摂取出来るだろうけれども、食事と認めるには少々難のありそうなものだった。これじゃあおやつだ。だけどせっかくの好意なのだからと、パッケージを剥がして口に入れた。
「甘ぇ…」
「でしょうね」
 くすくすと笑い、バーナビーは席を立つ。ほんの僅かな間を置いて、はい、と彼は机の上にコーヒーを乗せ、再び自分の席へと戻って行った。
「……ありがとうな」
 紙コップに入ったコーヒーが湯気を立てている。それを、奇妙な気持ちで眺めた。
 なにも、おかしな事はない。そう自分へと言い聞かせる。例えバーナビーが自分のコーヒーを用意していなくとも。虎徹のためだけに席を立ったのだとしても。



 意識するな、と虎徹は言い聞かせてその日を過ごした。
 昼食の誘い、取材の仕事へ向かった時の動き、それ以外の一日中、さりげなく向けられる視線。実際今まで意識していた訳ではないから、それは変わりないものだったのかもしれない。
 大規模テロ――彼が両親の仇を討った後から、バーナビーは変わった。
 随分素直になったし表情も柔らかくなった。虎徹へは随分なついて来たと思っている。そもそも「おじさん」なんて固い呼び方から「虎徹さん」なんて呼び方に変わりすらしている。作られた完璧な笑顔で周囲と距離を取る、そんな姿がどこか痛々しく感じられて差し伸べていた手は今までお節介の一言で弾かれていたのに、今では作られたものではない自然な笑みで受け入れられていた。
 だから、これも自然なもので昨日までと変わらないものだったのかもしれない。
 その次の日、さらにその次の日。
 空気は徐々に甘やかに感じられるようになっていたとしてもそれも気のせいかもしれない。
 あれはなかった事にするのだと自分で決めたのに、そうやって結びつけたくなるのは自分こそが忘れていないせいだとため息しか出て来ない。
 仕事終わり、割と頻繁だった誘いの言葉を、虎徹はどうにも口に出来なかった。
 バーナビーからは、幾度か誘われた。
 それを断るのは、意識していると言っているようなものだったが、どうにも頷く事が出来なかった。
 普通にしているつもりだった。職場では軽口を叩くし、彼が笑顔で応じれば嬉しい気持ちになる。近頃激増した取材では、もちろんテロ以降人気が爆発したバーナビーの事を聞かれる事が多いけれども、そんな相棒の事を語るのは楽しい。昼食だって一緒に取るし、出動の際の息の合い方はこれ以上もなく絶妙で気持ちが良い。
 そう、いつも通りでいるつもりだ。
 いるつもりだった。
 だから、幾度か目に夕食をバーナビーに誘われた時、そしてそれを断った時の彼の表情は、虎徹を動揺させた。
「近頃、忙しそうですね」
 笑顔が曇っていた。
「いや……そういう、訳じゃないんだけど」
「そうですか?」
 何言い訳めいた気持ちになっているのだろう。既にあれから、半月過ぎている。いつまでも引きずっている自分がきっと悪いだろう事は分かっている。
 なかった事にする。そう、あれはなかった事だ。
 だが今日の誘いは断ってしまった。今更、頷いても不自然すぎるだろう。
 だが目の前の兎はやけに寂しそうな顔をしていた。
「あー、あのさ。明日! 飲みに行かね?」
 ちゃんと、軌道修正しなければならない。自分達は良い相棒で、そして友人でいたいのだ。
「明日、ですか?」
 だが、バーナビーの表情は冴えないままだった。頷きはしたものの、物憂げな色は消えない。手遅れだったのかもしれない。
 彼が、自分に心を寄せている事はあの日に分かった。
 だけどその思いを受け取る事は出来ない。だからこれで――良かったのだろう。悲しませたくはないし、自分が彼に与えられるものならば、与えたい。
 だけどこれはダメだ。いずれ彼にとって害になるものでしかない。
 今は笑顔を曇らせてしまうかもしれないけれど、きっと彼がきちんと現実を見て、そう、見えるようになった新しい世界、一番傍にいた自分だけでなくもっと広い世界が見えるようになれば彼に似合う綺麗で優しい女性が現れるだろう。傍らで微笑むのはこんなおじさんでなくていい。少しばかり胸は痛むけど、大丈夫だと思えた。
 翌日、一緒に飲みに行った。
 隣の席に座るバーナビーからは、まっすぐの視線ばかりを向けられた。乗せられた思いすら透けてしまいそうな、まっすぐ過ぎる視線だった。
 だが虎徹はそれに気付かない振りをしてグラスを煽り、いつも通りに笑いを顔に浮かべ、どうだっていい事を口にした。
 つまらない日常のお話。取り立てて今する必要のない話。空虚なそれはきっと彼が聞きたい話ではないだろうに、バーナビーはいちいちに頷きや相づち、彼は本来得意ではなかろうに時には話を広げすらして、時間は過ぎて行った。
 いつの間にか、バーナビーは度を超して飲んでしまっていたらしい。
「帰るか?」
「……はい」
 席から立てば、ふらりとよろめく。苦笑して手を伸ばすと、しっかりと体重を預けられた。
「大丈夫か?」
「ちょっと、飲み過ぎました」
 たたらを踏みなんとか自力で立とうとするバーナビーの表情だって、苦笑だ。
 大丈夫だろう、と思った。
 飲んでいた間の空気は少しぎこちなかったけれども、元の関係性を取り戻しつつある。何より虎徹は自分の立ち位置をきっちりと思い出していた。抱いてしまった記憶を、可愛い後輩である姿で塗り替える。甘い声だって、酒に掠れた今日の声にすり替える。
「しょうがねぇな、自分の限界くらいは自覚してろよ」
「しょうがないでしょう、久しぶりなんですから」
 結局、一人で歩かせるのは危険だったので店を出て、タクシーを捕まえるまでの間、大通りで並んで立った。
 久しぶり? と思わず尋ねてしまった。
「ええ、久しぶりですよ。あなたと飲みに行くのは……」
 ――あれ以来だ。
 小さな声で告げられたそれに、空気が凍った気がした。
 皆まで言わずとも分かる。前に飲みに行ったのは間違いを犯した日。決して今まで自分達の間で話題に昇らなかった、そして気配すらも感じさせないようにしていた日の事だった。
「あなた、僕を避けてますよね」
「………」
「――すいません、でも僕は」
「バニー」
 強い声で、彼の言葉を遮った。それは言わせてはならない事だ。いや、聞いてはいけないこと。聞きたくない事。
 聞いてしまったら、自分は答えなければいけなくなる。
 いや、それともその方がいいのだろうか。
 いっそ、勘違いだと断じて拒否すればいいのだろうか。
 そこで空気は変わってしまうだろうか。このままの関係性を維持出来なくなってしまうだろうか。
「……虎徹さん」
 思い詰めたような声。だが、虎徹は走り込んで来たタクシーを止める。
「じゃあ、また明日な」
 言わせなかった。
 縋るような視線を向けられたが、まるで気付いていないかのような笑顔を彼へと向け、タクシーへと彼を押し込む。
 卑怯だとは知っている。こんなやり方では根本的な解決にはなっていないだろう。
 走り去るタクシーを見送り、大きなため息をひとつ。
 このまま帰る気にはなれなかった。アントニオでも呼び出し、バカのように飲もうかと考える。だがポケットにつっこんだ手は携帯を取り出す事はせず、そのまま別の店のドアを一人でくぐった。
 初めて入る店だったが、落ち着いた照明の店内は静かで、頭の整理をするにはきっと相応しい場所だった。カウンターに座り、焼酎をオーダーする。
 あては、ため息になりそうだった。



「おはようございます」
 眠れなかったのか、とその顔を見てすぐに気が付いた。色素の薄いバーナビーの肌は、疲れをそのままに表す。今日は撮影がなかっただろうかと頭をよぎったが、自分は彼のスケジュールを把握していない。
 おはよ、といつも通りに返して席に着く。
 昨日ひとりで飲んで得た結論は、なにもなかった。結局考える事は自分には向いていないのだ。シミュレーションも苦手だし、だからこそ頭の中だけでこねくり回したところで何も打開策など出て来る筈がない。
 だから、自分に出来る事はいつも通りの姿を維持することだ。
 席について、気は向かないが書類仕事を片付ける事にする。だが、一枚目の書類も終わらないうちに、PDAが鳴った。隣の席に座るバーナビーと視線を交わし、受信する。3Dモニタに映るアニエスは、強気な笑みを浮かべたままでシルバーで起きた火災を伝えた。



 途中降り出した雨にも助けられ、消火活動はスムーズに終わった。軽傷者は出たものの、大きな被害はなかった。さすがに出火元のビルはほぼ全焼してしまったが、ヒーローの出動要請があった規模にしては、マシなレベルだっただろう。
 すすけた姿でトランスポーターへ向かい、帰投の準備をする。今回のヒーローインタビューはスカイハイだ。このような救助シーンは、彼の能力がこれ以上もなく役に立つ。自分達にも救助ポイントは大量についた。朝のオフィスビルだ、閉じ込められた人数は多かった。
 メットを外し、息を吐く。
「虎徹さん」
 苦笑して、バーナビーが手を伸ばして来た。頬に触れられる。
 その接触に、思わず飛び退いてしまい、しまったと思った。
「煤、ついてますよ」
 一仕事終えた満足感は、吹き飛んだ。落胆の声、表情でバーナビーはそう告げる。傷付いた顔をしていた。
「あ、ああ……サンキュ」
 触れられた場所を、拭う。手の甲に付いた黒いラインに、罪悪感が滲む。
 雨がスーツに付いた煤を流して行く。陰鬱な空気がふたりのあいだに相応しくて、イヤになった。過剰反応してしまった自分に対する苛立ちが増す。
 さっきのような接触など今までに山ほどあった。それを今まで通りに対処出来ないのは、意識しすぎているせいだ。彼が昨日言いかけた言葉の先を知っている。このような表情にさせる心を知っている。
 彼の事は好きだ。だからこんな顔をさせたくはない。
 だがそれを叶える事も出来ないのだ。
 ごめん、と口にしそうになったが直前で飲み込んだ。それは告げて良い言葉ではない。なぜなら、それを告げるための言葉すら自分は言わせないのだから。



 雨は夜まで続いた。ざあざあと強く降る雨は窓を叩き眠る間際まで続く。
 目が覚めたのは、そんな雨のせいではなかった。時計を見ればまだ起きるには早い時間だけれども、もう日は昇っている時刻だった。薄暗いのはまだ降り続いている雨のせいだろう。
 今日は、休日だったと追って気付き、こんな時間に……と、毛布の中でもぞりとする。
 再び鳴る音。自分を起こしたのは、この来客を告げるチャイムの音だった。
 誰か、は。脳裏に浮かんだ人物で間違いないだろう。
 出たくない。だが、そういう訳にもいかない。
 三度目が鳴らされる前に、意を決してベッドから降りる。アンダー一枚の姿ではあんまりだと思い、休日用のTシャツとジーンズを履き、玄関へ出向いた。
「おはようございます」
 こんな時だって、彼の告げる第一声はいつもと同じだ。
「どうしたんだ?」
 雨脚は弱まる事なく、降り続いている。玄関先のひさしの向こうに立つ彼は、頭のてっぺんからいつもの赤いジャケットまで完全に濡れそぼっていた。
 寒さの残る季節だ。早く拭いて暖かな場所に入れてあげるべきなのかもしれない。
 だけど、虎徹は彼を家の中へ入れる気はなかった。
 何度もバーナビーはこの家へ足を踏み入れている。それが間違いの元だったのかもしれない。ゼロ距離にしてしまえば、自分達は勘違いをしてしまう。それがふたりの距離だと思い込む。あの日、酔った彼を引っ張り込み、服を暴き心まで暴き抱き寄せた事を後悔しているのだ。もうあんな事は二度としない。
「逃げないで、ください」
 ずぶ濡れのまま、彼は歩み寄る事もせずその場所で告げた。
「逃げないで下さい、虎徹さん」
 真摯な顔だった。泣きそうにも見えた。それは顔も濡らす雨のせいかもしれない。
「――なに」
「僕の気持ちをなかった事にしないでください」
「……こんな時間に来て、何言ってるんだよ、お前は」
 自分の声が温度を失って行く事に気付く。突き放したい訳ではない。だが、受け入れる訳にはいかない。ちょうどいい中間を掴む事が出来ない。
「こんな時間なら――寝起きのあなたなら、逃げないかと思って」
「無茶苦茶だ」
 苦笑する。
「あなたは、言葉すらも言わせてくれない。そうやって避けられてなかった事にされるのは、辛い」
「なに、を」
「なにをか、言ってもいいんですか?」
「――勘違いだ。それは、お前の勘違いだよ。お前には未来があるんだ、こんなおじさんに……」
「勝手に、決めつけないでください」
 ざあざあと強い雨が自分達の間にははざかまる。
「僕の為、ではないですよね。あなたも僕の事が好きでしょう?」
 泣きそうな顔をしているくせに、自信たっぷりの声で告げて来る。
「あなただって僕の事が好きだ。僕を思って身を引くんじゃない、あなたは自分のために逃げるんだ」
「なに」
「僕の事、そんなに信頼出来ないですか?」
 若くないから、能力が劣っているから、いずれ置いて行かれるかもしれない怖さを抱えている。既に一度失っている。そこから立ち直るのに要した時間は、短いものではなかった。今度は死別という別れではないかもしれない。どうしたって無理なんだと諦める事が出来ない別れかもしれない。
 それは、怖い。
 一生傍にいると言う言葉ほど怖いものはない。それを信じられないくらいには、自分は歳を取っていた。そしてそんな言葉を口にしてしまう程に、バーナビーは若い。
 彼の輝かしい未来の為に、そんなものを台無しにする訳にはいかないからと身を引くのではない。置いて行かれるかもしれない自分の為に、彼の言葉は聞いてはいけない、彼を受け入れてはいけない、自分の気持ちを肯定してはいけないのだ。バーナビーを手に入れたくない。
「ああ……なんだ。分かってたのか」
 格好悪い真実だ。そんな事の為に、自分は逃げ回っていた。
 全てが気のせいだと見ない振りをした。
「そこまで、僕はバカじゃないんです」
 彼の存在は、既に虎徹の中で大きく育ちすぎている。
 最初から諦めていつ離れても大丈夫だと覚悟させなければならいほど、大きくて真ん中の場所に居座っている。
「泣いてるみたいだな」
「――泣きませんよ」
 頬を伝う雨は、涙にも見えた。だが彼は唇の端を引き上げ、笑みを浮かべる。
 振られた訳じゃない、と伝えて来る。
「好きです」
 言わせてしまった。しかも、拒絶するための言葉は既に否定されている。
「好きです、僕のものになってください」
 ならば……覚悟を決めるしか、ないだろう。 
 そもそも自分は考えて、保険を掛けて、動くタイプではなかった。考える前に動く、その結果がそもそもこのきっかけだったのだと、嘆息する。自分がバーナビーに手を出しさえしなければ、このような事態には陥らなかった。きっと抱かなければバーナビーも自分の気持ちに気付かなかったかもしれない。
 一歩、玄関から足を踏み出す。雨の中へと身を投じる。
 濡れた彼を抱きしめて、息を止める。
 自分の元に引き寄せたのではなかった。バーナビーの元へと、向かうのだ。
 素直に認めてみせた、彼の気持ちに従おう。逃げ回るのではなく、真正面から向き合おう。
 その結果、いつか置いて行かれる日が来ても、それは――

「遅いんですよ」
「ごめん、バニー」
「本当です、こんなずぶ濡れにさせて」
「そっちかよ」
「ええ……寒いんです。早く、あたためてください」
2012.3.17..
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