「待てよ」
玄関へ向かおうとした肩に、手を掛けられる。それを振り解き、振り返らずに前へと進もうとした。再び重ねられる言葉と、更に遠慮の無い手は無理矢理に彼の方向へと向かせさせる。
「やめてください、帰ります」
「怒ってんのにか」
「だからです」
この人と喧嘩をするのは好きじゃない。だから顔を見ないで済む時はこうやって去った方がお互いに取って良い筈なのだ。きっと彼も分かっているくせに、だけど目の前のごたごたを見逃せずにこうやって引き留める。
「悪かった」
真摯な声。だけど、これがイヤなのだ。
「分かってないくせに、謝らないでください」
「じゃあどうすればいい?」
子供のような頑是無さで自分の我が儘を通そうとしているこの人の事は――結局、好きだ。悔しいけれど。
「だから帰らせてください。そうしたら僕も落ち着きます」
「イヤだ」
肩を掴んでいた両手の力が緩む。厳しい表情を浮かべている虎徹は、決してこの状況を納得している訳じゃない。自分だって険しい顔をしているだろう。
きっと一晩眠れば、気持ちも切り替わる。眠る直前まで恐らく彼の文句を心の中でぐちぐち繰り返すだろうけれど、朝になればこの手が恋しくなるのはわかりきっている。
だって何度も繰り返した。
既に肩に乗せただけになっていたてのひらが頬へ移動する。親指だけで頬を撫でられる。かさついた指の感触が、胸をじんと震わせる。
「やめてください」
言いながら、振り解く事は出来なかった。
なんだかんだ言いながらも自分は結局彼を許すし、受け入れる。けどそれは今じゃない。自分は今、怒っているのだ。まだ冷静にはなれないし苛立っている。
なにも分かっていないくせにこうやってごまかそうとする彼に、更に腹立ちは増す。なのに逃げる事の出来ない自分が、更にイヤになった。
親指が頬をなぞり唇をなぞり、離れた瞬間に険しい顔が近寄って来る。怒っている自分の事を虎徹だって腹立たしく思っているのだろう。彼は争いの現場を職業に選んだくせに、つんけんとした荒れた空気を好まない。
重なった唇の感覚はこんな状況だと言うのに慣れ親しんだもので、心のまんなかが暖かくなるのだから悔しい。だから、振り解いて、やわく掴まれた腕からも逃れようとした。
「なにも分かってないくせに、そうやってごまかそうとするあなたがイヤなんです」
強い調子で言い、自由になった体を今度こそ外へと持ち出そうとした。
彼の目が眇められた事には、振り向いた自分は気付けない。なので強い力で腕を掴まれ、無理矢理に室内へと引き戻されたのは、ある程度彼の反撃を予測していたものの、対処出来なかった。そこまで無理をするとは思っていなかったのだ。
「離して」
「イヤだね」
返される声が冷たい。彼が酷く怒っている事が、分かる。
ひやりと心に冷たいものが落とされた感覚がした。怒っていたのは自分の方だったのに、何故彼が怒っているのだ、狡いと思う。けれど完全に彼が怒ってしまった事に慌てている。
狼狽えている間に、階段を引き上げられベッドの上へ放り投げられた。
「……こういうのは、イヤです」
ロフトの照明は付いていない。暗い背後の中で、見下ろして来る彼の目が金色に光っている。いつだって温和な表情を浮かべている彼の、こんな風に温度のない顔は滅多になかった。思わず上げた抵抗の声がみっともなく揺れていて、反射的に唇の端を噛んだ。
「傷になるだろ」
暖かい指先が、噛んだ場所をなぞる。そのままぐいと唇を割り、指が口腔へと入り込んできた。舌を人差し指と薬指、二本の指で掴まれてぐちゅりと濡れた音がする。逆の手が服を暴きだす。
やめて、と言いたいのに言葉は自由に紡げない。ぬるぬると指先が舌をもてあそび、上がる息が彼の手のひらに掛かる。眇めた目許が水っぽくて悔しい思いがする。
逃げだそうと思えば、きっと逃げられる。
だけど、逃げる選択肢は自分で真っ黒に塗りつぶしていた。
さっきまで自分が怒っていた筈だった。そこには自分の優位性がある筈だった。
だけど、今は違う。怒っている彼を放って帰る、そんな怖い事は出来ない。
「ん…んぐ、ぅ…」
舌の付け根までを指で辿られ、軽くえずく。まだ瞳を金色に光らせている虎徹はそんな自分に視線を投げるものの、やめてくれる気配はない。暴かれた衣服の下へ手のひらを滑り込まされて、体がぞくりと震えた。
「ぅ、んっ、んんっ」
別に手を拘束されている訳ではない。だけど、ベッドの上に放り投げられたまま、彼の動きを妨げることが出来ないでいる。完全に彼に好きにされ、少しひんやりとした空気に触れ尖った乳首を痛い程に摘まれ、体が跳ねる。
彼は何も言ってくれない。軽い喧嘩をこうやってセックスでごまかされてしまう事は今までにだってあった。だけどここまで冷えた空気にはなったことがなかった。悲しい気持ちになる…それは、そのまま涙腺を緩ませた。
ごめんなさい、と理不尽だけれども言ってしまえばいいのだろう。
だけどその手段すらも奪われている。
寄せられた頬が、胸に触れる。伸ばされた舌が乳首に触れ、嬲る。やわく歯を立てられ慣れた感覚に性感は追い立てられるけれども、心が冷えて行く。こんなセックスなど、したくない。
「う……ふぅ、う」
涙が、落ちた。見せたくて泣いてた訳ではない。けれども、胸に顔を寄せる彼には全く見えないだろう。下肢を剥かれ、ちっとも反応していない性器をいじられるけれども気持ちが萎えている以上、そこが反応する事はないだろう。その事にまた虎徹が不機嫌になるのではないかと、更に悲しい気持ちになる、萎縮する。
舌を弄る指が、ようやく抜かれた。だけどあれだけ言ってしまいたかった「ごめんなさい」を紡ぐ事が出来ない。代わりに、もう苦しくもないのに涙が次々と落ちる。
反応しない性器にか、軽く舌打ちされてびくりと体が竦んだ。
「……め、なさい」
回らない舌を、必死に動かす。
こちらを見てはくれないけれども、意識が向けられた事を知る。
「ごめん、なさい。怒らないで」
だから、必死になって言葉を紡ぐ。
再び聞こえた舌打ちに、これ以上どうしていいのかと頭が回転を止める。体に触れていた手の動きが止まって、ただ泣く事しか出来ない自分が情けなくて、さっきまでとは別の理由で帰りたくて仕方がなくなった。きっと今度は帰ってしまえば、ずっとずっと引きずってしまうのだろうけれど。朝になっても気持ちは晴れず、恐れを抱いたままになってしまうのだろうけれど。
全ての動きを止めた室内で、自分の時折上げる泣き声だけが響く。そんな声は殺したいのに死んではくれない。
「ああっ、もう!」
突然、大きな声を上げて虎徹が体を起こした。
ようやくこちらを見てくれた。表情に先ほどの険しさはない。こちらを見た瞬間に驚いた顔になってしまったから、それまで浮かべていた表情がなんだったのかが分からなかった。
「そんな顔すんなよ……なんか俺、ひでぇヤツみたいだろ」
「ごめんなさい」
驚いた顔は、くしゃりと情けない顔になる。
「謝るなよ、ごめん……ごめんな、バニー」
そして、額へと口づけられた。近い場所で視線を合わせ、今度は頬へ。泣いている目許へ、鼻のてっぺんへ、そしてようやく唇へと柔らかな感触が落ちて来た。
「ごめん。そんな顔させてごめん……泣くなよ、ごめん」
「こてつさん」
酷い声だった。ようやく不可視の拘束から解かれた両手が、彼の体へ回る。もう怒っていないと全身で表す虎徹を強く抱きしめる。
「こんなのは、いや、です」
「うん、そうだな」
「イヤです、虎徹さん、怒らないでください…ごめんなさい」
「もう怒ってない、大丈夫だから謝るな。な?」
「……はい」
ぐりぐりと肩口へと額を押しつけ、いつまでも泣いていればきっと彼は気にすると思って涙を止めようと躍起になる。
「ごめんな、バニー」
抱きしめられたまま、彼が大きな手のひらで頭を撫でてくれた。泣き止みたいのに、そんな事をされれば余計酷くなる。
これでも立派に成人している男だとの自負はある。こんな風に子供のように泣くのはイヤだ。好きな人が自分に対して怒っているからと言って泣くなんて、情けないにも程がある。
「続き、してください」
「……いや、ごめん。悪かった。やめよう?」
「ここでやめる方が、イヤです」
息を整えて、なんとか情けなくならないような声音を作る。言葉を紡ぐ。
「甘やかして下さい。こんなセックスの記憶が残るのは、イヤなんです」
すりん、と甘えるようにべたべたに濡れてしまった頬を彼の頬へ寄せる。
「怒ってないなら、甘やかしてください」
触れている頬から、苦笑の気配がした。
「おおせの通りに」
らしくない言い回しをされて、ようやく笑えた。まだ涙は消えていないのにくすくす笑い、顔を引き離す。間近で虎徹の目を見て、その瞳がもう金色ではなくて穏やかなブラウンに落ち着いているのを見て、ほぅと安堵の吐息を落とした。
「好きです、虎徹さん」
「ん」
ちゅ、とリップノイズを立てて唇を合わせる。
肌を辿り始めた手のひらは、いつも通りに暖かくて体を竦ませる事はない。ほんの僅かに残った怯えも溶かしてくれるように、柔らかく撫でてくれる。体の中心からさっきまで欠片もなかった痺れるような性感がふつふつと沸き上がって来て、自分の現金さに苦笑したくなる。
いや、実際苦笑していたのだろう。怪訝そうに虎徹の視線が向けられた。
「あなたにすごく、振り回されてるなと思って」
脇をなぞる手が、体をひくんと跳ねさせる。さっき乱暴に扱われた乳首はやんわりと舐められ、歯を立てられることもなくゆるゆると吸われ、そこが形を変えて彼から与えられる感覚を一ミリも逃さず受け取ろうとしている。体の真ん中がじくじくと震え出す。
「…ぁ、僕、が、怒ってた、筈なのに」
「ああ……なに、怒ってたの?」
「もういいです」
ひぁ、と甘ったれた声が飛び出す。さっきまで欠片も反応していなかった場所が勃ちあがり、雫をこぼしすらしている事に驚く。虎徹の乾いた手のひらがぬるみを塗り込むようにして、じっくりとそこを辿るのだからたまらない。
「言えよ、またお前を怒らせるのは、イヤだ」
「…ぁ、んっ、ぁああ、ぼ、くが…」
びくびくと揺れ、どんどん追い詰められる感覚。だけどまだそこへ辿り着きたくはなくて、はくはくと唇を震わせる。
「ん?」
「僕が、怒って…ようと、かんけ、い、ない…くせにっ、ん」
ぐり、と先端を強くこねられて、語尾が跳ねた。
「んな訳ねぇだろ」
甘ったるい指の動きとは真逆の憮然とした声が落とされて、視線を上げた。見上げた男は声の通りの表情を浮かべている。どこか拗ねた風にも見える。
「お前が怒ってるの……こえぇんだよ」
「ん、ぁ……あ、こて、さ、や、め…」
手の動きは容赦ない。彼の言葉を聞き逃したくないのに、追い詰められる感覚が聴覚までも曖昧にさせていく。手を持って行き、止めようとするのだけれども甘く痺れた指先は彼の手を止める事が出来ない。聞かせたくないとばかりに逆の手が先走りを使って奥までも暴き始めるのだから、胸を反らせて感覚に耐えるしかない。
ぐちぐちと濡れた音がやたらと耳に付く。
「お前が怒ったまま帰って、そのまま次の日も冷たいままだったら、とか思ったら怖くてたまんねぇんだよ」
拗ねた声音だった。分かれよ、と言っている風に聞こえて、自分の耳はとうとうアホになってしまったのかと思った。年上の男が、こんな風に甘えた事を告げたのは、ついぞない。
「怖いんだよ」
指が一本体内へともぐりこむ。受け入れる事に慣れた内臓が、たった一本では足りないと、潤いが足りず引き攣れた感覚を味わっているくせに暴れ出す。
「なあ、バニー」
好きなんだ、ととろとろに甘やかす声が耳に直接流し込まれた瞬間に、世界が白く弾けた。
一瞬白く飛んだ記憶に、頭が付いてこない。精液を流す場所が握られぐちゃぐちゃと酷い音をさせている事で、自分が達してしまったのだと分かる始末だった。決定的な刺激はなかった。あったとすれば――
「いや、だ」
顔が真っ赤に染まる自覚がある。
言葉だけでいってしまった。
おそるおそる引き上げた視線の先には、ひどく嬉しそうな顔をしている男の姿があった。
「バニー」
甘やかな声で名を呼び、口付けを無数に落としてくる。体を抉る指は複数に増え、零れた精液の水音と合わせて耳を犯して来る。
「いや、だ…こてつさん、いやだ」
恥ずかしくてたまらなかった。そんな言葉ひとつで簡単にきわまってしまう自分が恥ずかしい。そこまでこの人の事が好きなのかと呆れすらしてしまう。心が体をコントロールしている。
抜き取られた指。間髪置かず、もっと太い熱が体に埋め込まれて幸福感で死にそうになる。
「いやだ、顔、見ないで」
「やだよ、見せろよ」
隠そうとする手を顔の横に押さえ付け、近すぎない、いつの間にか外されていた眼鏡がなくとも見えてしまう距離に彼が顔を寄せる。
「ぁ、あ、んっ」
体を抉る感覚。ずん、と奥にまで響いてまぶたがぱたりと落ちる。
ローションもないのに完全に受け入れてしまい、スムーズに中を行き来する感覚もたまらなく恥ずかしい。余すところなく自分が彼を抱きしめ、ぬるぬると感じさせ、感じている。
「やば……今日、お前、すごい」
熱い息を吐きながら、虎徹は動きを激しくする。いつもなら馴染ませるためにとゆっくりこちらを気遣うくせに、そんな余裕はないとばかりに彼の快楽を求める動きをする。
「や、あ、ぁああっ、あ、ああっ」
とっくに止まっていた涙が、再びあふれ出す。暗く閉じた視界では感覚が研ぎ澄まされて余計に感じてしまって、慌てて目を見開けばそこには嬉しそうな気配を残したまま、苦しげにも見える気持ちよさそうな顔をした虎徹が見えて、胸が苦しくなる。
無自覚に甘ったるい声が次々と漏れ、涙が落ちるせいで虎徹の顔もぼやけて見えて、感覚が快楽に塗り込められて現実じゃないような、夢うつつのようになる。
「あ、ああ、ぁ――ぁん」
準備もなく突然訪れた絶頂感に、意識が飛びそうになった。
内に感じる熱で、彼も達した事が分かる。
たった一度の交わりで意識を飛ばすような事なんてないのに、だけど現実がするりと逃げて行く。薄く見開いた視界が白く塗り込められて、やがてまっしろになり、一拍おいて暗転した。
「で、バニーは何怒ってたんだ?」
頭を撫でられている感覚が気持ち良くて、意識が引き上げられた。その瞬間を狙って聞いてくる虎徹は、やっぱり狡い。
「内緒ですよ」
だから、答えてやらない。
彼だって怖いのだと言う。だったら、自分が味わったのと同じ怖さを彼も抱けばいいと思った。いつまでも、自分の事ばかり考えていればいいのだ。
「僕ばかりが振り回されるのは、悔しいですから」
だから、たまには振り回されればいい。少し笑って言ってやれば、虎徹は情けない顔をしていた。