Instead of a kiss I love you
どうやら甘えているらしい。
仕事が終わって一緒にメシを食い、そのまま酒を飲むのは付き合う前からも頻繁にあった事だ。適当な店に入れば騒ぎになる、顔出ししているヒーローのこいつのために、場所がどちらかの家になるのもそう。付き合い始めてからはそこに、人目をはばからずいちゃいちゃ出来るからという理由が付け加わり、むしろそれしか理由がなくなった事については大人なので都合良く目を逸らす。
今日は俺の家で、おおざっぱに選んだデリの総菜をテーブルの上に並べバニーが持ち込んだワインのボトルを開けて、既に良い気分になっていた。けれど、まだベッドで抱き合うには早い。そこまで本格的でなく、甘ったるい空気をもう少し味わっていたかった。それはきっとバニーも同じだ。
「虎徹さん」
そう酒に強くないバニーは目許を淡く赤く染めて、グラスに半分残っているロゼをちびちび口に運んでいた。名を呼びながら、そのグラスをテーブルの上に置いて、彼は立ち上がる。
「どうした?」
とろりとした顔は、ここでしか見られないもの。いや……俺だけが見れるもの。
スタイリッシュでハンサムなヒーロー、バーナビー・ブルックスJr.ではなく、ここにいるのは可愛い俺のバニーちゃんだ。そのことに優越感を抱かないと言えば、嘘になる。けれど、そんな事を感じるよりもみっしり筋肉のついた大きな体が甘えるように膝に乗り上げてくるから、幸福感と微笑ましい気持ちの方が先に押し寄せてしまうのだ。
ソファに座った俺にまたがるようにして落ち着いたバニーは、そのまま俺の頭を抱き込んでくたりと体を預けてきた。
こいつは俺より背はでかいし、ヒーローだからしっかり鍛えられた筋肉をまとっている。それになにより、男だ。柔らかさはなく、正直、重い。
けど俺はこれがたまらなく好きなのだ。
両親を失って甘える事も甘やかす事もしらなかったヤツが、こうやってどうしようもなく甘えてくれているのが、幸せでならない。
「好き」
耳元で小さく囁かれ、そのまま髪にキスされる。
「祝福します」
そして、額へ。
「あこがれてる」
まぶたへ。
「誘われてください」
耳へ。
くすぐったくなり、くすくすと思わず笑いを漏らした。そのいちいちにドキドキとした事は、こっそり押し隠して。
「どうした、バニー? なんの遊びだ?」
ぐい、と顔を引き寄せて高い鼻のてっぺんにキスをしてやる。
するとあれだけキスを繰り返していたくせに、バニーはきょとんとした顔をした。その顔が面白くてもう一度同じ場所にキスをする。
「……分かってるんですか?」
「なにを?」
バニーは笑っていた。けれどそれは、幸せそうにも見えるけれども、どこか呆れた気配のするもので怪訝に思う。
「やっぱり、そうですよね。あなたがそんな気の利いた事……ああ、でもだからイヤなんだ」
頭の作りと感性がどうやら違うらしいこいつが、こんな風に意味不明な事を言い出すのは良くあることだ。そこへ今度こそ隠そうとしない明確な呆れを含ませる事も。
「なんだよ、勝手にイヤがるなよ。さっぱりわかんねぇよ」
しかし良くある事だからと言って、こんな風に言われるのをヨシと思える訳じゃない。目の前にあるのはバニーの胸だ。さすがに部屋の中だからジャケットは脱いで黒のインナー一枚の姿。薄い布の下は今目の前にあるのとは正反対の、真っ白な肌。
脳裏にそれを思い浮かべながら、その場所へ噛み付いた。突然の刺激にびくりとした体を宥めるように、同じ場所へキスを落とす。ちょっとした嫌がらせ、もしくは不満を訴えただけのつもりなのに、うっかり反応に体が熱を感じてしまいそうで、慌ててそれを散らした。なし崩しに傾れ込むのはいつもの事だけど、どうにもバニーの様子がおかしい。放っておいても構わないたぐいのものではあるけれど、気になる。
「……ねえ、あなた本当に知らないんですか?」
「だからなにを、だよ」
はぁ、と溜息を落としたバニーは問いにまだ答えない。ソファの上に落としていた俺の手を取ると、最初は指先に、手の甲に、そしててのひらにと口付けた。
「無意識でやってしまうあなたに賞賛を、敬愛を、そして振り回される僕の事もちょっとは考えてくださいという懇願を」
「はぁ?」
「そして最後に……」
腕に、キス。
手首ではなく、シャツの袖ギリギリの場所。妙な場所に唇の感触を落とされて、訳の分からない事を言い続けるだけでなく行動も奇妙で、自然と眉根が寄ってしまった。
「なあ、こんなかわいい格好してるくせになんで俺らふたりとも微妙な顔してんの?」
「あなたが……」
「俺ぇ? お前だろ、いきなり変な事始めやがって。もしかして酔ってる?」
酒に弱いとは言え、まだそこまでではない筈だ。見上げた顔はきちんと正気の顔をしている。バニーだって違いますよと頭を左右に振った。
「……まあそうですね、あなたにこんな事仕掛けても、こうなるのは分かってましたし……いえ、返り討ちか」
くたり、と諦めたようにバニーの頭は俺の肩に乗った。
まったく不可解なのはそのままだけど、どうやらひどく疲れてるっぽいからつい背中に手を回して撫でてやってしまう。宥めるように、慰めるように。まあ原因は俺っぽいけど。
「そろそろ種明かししてくんない、バニーちゃん」
撫でられて気持ちいいのか、頭をすりと肩口にすりつけた彼は問い掛けに浅く息を吐く。
「今日キスの日らしいですよ、知ってました?」
「いや初耳」
「僕も取材で聞かれて初めて知りました」
そう言えば今日のバニーは、午後単独取材で出ていた。戻って来たのは夕刻の退社直前だ。きっと直帰でも良かっただろうにきちんと帰って来るのはいかにも真面目なこいつらしくて、そして多分俺と一緒に帰りたかったからだろうとも分かってしまうから可愛くてしょうがない。
「ファーストキスの話とか、最近したキスの話とか聞かれて、どう答えていいのか困りました」
「あー、そうね」
どっちも、相手は俺だ。
もちろん公開していない関係だから、きちんとごまかしただろう。マスコミ用のお行儀良い回答例ってやつだ。それ以前に現在ヒーローのバーナビーには恋人がいない事になっている。最近のキスについて聞かれたってそれ、もしかしなくともスキャンダル狙いじゃないのだろうかと心配になったけれども、まあこいつの事だから上手い具合にはぐらかしているだろう。自分が同席していたらみっともなく動揺したかもしれないけど、そういった場でのバニーの完璧さは信用している。
もしかしたら、ちょっとくらいは動揺したかもしれないけど。
インタビュアーには誰かいるな、くらいはバレてしまったかもしれないけど。
けど、もしそうでも滅多に見せないこいつの素の顔を見て可愛いなで終わったのだろう。内輪での秘密だ。そうでなければ、落ち着いてこんな時間を過ごせる筈がない。
ぽんぽん、と軽く背を叩き疲れをいたわってやる。
「だから、キス?」
「ええ」
インタビューを受けていたハンサムな顔で、そんな事考えていたのだと思えば顔はにやけた。
ああ、本当に可愛い。可愛い俺のバニーちゃん!
くしゃくしゃと髪を撫で回して、一番近くの耳元へキスをいくつも繰り返す。
「ちょっと、くすぐったいです。髪もくしゃくしゃにして」
「だってお前可愛いんだもん」
笑っているくせに不満を告げる可愛くない唇へ、ようやくキス。
重ねるだけのキスを何度もして、視線を合わせて微笑み合った。
「それで、フランツ・グリルパルツァーって知ってますか? ああ知らないですよね」
「ちょ、聞くなら答え待てよ」
「だって知らないでしょう?」
「うん、知らない」
「聞く必要ないじゃないですか」
「会話しようぜバニーちゃん」
くすくすと至近で笑い合い、そしてまたキス。
「本当は『手・額・頬・唇・瞼・掌・腕・首』だけなんですけど、今はそこから広がって、キスにそれぞれに意味を付けたらしいです」
「それが、さっきお前言ってたヤツ?」
「ええ……そしてあなたがしたのが」
耳元で甘い声が囁く。
鼻梁なら愛玩、胸なら所有――と。
「ふはっ」
思わず吹き出した。なるほど、バニーが不満そうにもなる訳だ。
「酷くないですか?」
「あーでもほら。唇にだってしただろ、キス。それは? あとお前が最後にした手はなんだったの?」
それは教えてもらっていない。
尋ねれば間近の視線が揺れた。今更だと言うのに、気まずそうに逸らされる。
「おい、バニー?」
頬を両手で挟んで、まっすぐこちらを向かせた。
「……腕は、恋慕。唇は、あいじょ……」
気恥ずかしそうにもぞもぞと紡がれる、言葉。
笑っていた筈だったのに、思わず胸が詰まった。最後まで言わせず、唇に食らいつく。
最後が恋なのは気に食わない。けれど、こちらから愛は送れる。こうやって押しつけんばかりに。そして、こうやって受け入れられるのだ。
バニーみたいに気の利いた事なんて出来ないけれど、代わりに毎日だって「愛情」のキスをこいつに送り続けてやろう。
唇を食み合わせ、どちらともなく開いた唇の合間から舌を絡めお互いの口腔に潜り込む。
他のキスの意味なんて、きっと忘れる。
けど唇のキスが愛情なら、こんな簡単で分かりやすいもの、一生忘れないだろう。
頭のいいバニーだけでなく、俺だって覚えてる。
繰り返されるこれから先の何万回のキスが繰り返す愛してるの言葉になるのだ。いまわの際、言葉が例え紡げない時ですらこのキスで愛してると告げられる。
「最高だな」
ちゅ、と音を立てて距離を取る。額をこつりと合わせて目を細め、ああすぐにでもまた唇を合わせたくなった。
「待って」
薄くまぶたを伏せ、寄せた顔にストップを掛けられた。
濃厚なキスに濡れた唇の端っこが笑いの形に動く。きっと俺は不満そうな顔をしてただろう。
「どうした?」
「愛してる」
照れていたくせに。
なのにこのハンサムはこういった時は決めるのだ。悔しいけれど。
目を見て幸せそうな色をそこに浮かべて、彼から口付けられた。
濡れた唇同士を摺り合わせ、それだけじゃもちろん足りなくてお互いの口腔を乱し合いはしたなく唾液の音を立てて、貪り合う。
押し付け合い奪い合い愛してる好きだと伝え合う。
ヒーローで正義の味方で、こいつなんて品行方正なシュテルンビルトの英雄だなんて言われてるけど、本当はこんなもんだ。
抱きしめ合ってキスをして、ただの人間の欲を抱いている。でも、誰かを助けたいと願うヒーローだからこれでいい。清廉潔白、欲もなく綺麗な存在じゃあきっと泥にまみれてギリギリの命は救えない。人を助けたい、なんてなんとも独善的な欲を既に抱いてるんだから、きっとこれでいいのだろう。
「愛してる」
息を継ぐ間にこちらからも告げて、膝の上に抱き上げた恋人と共にソファに倒れ込んだ。
キスの日だからと言って、キスしかしちゃいけない訳じゃない。
だから、全部する。
全部欲しがって、全部押しつけてやるのだ。
愛してると伝え合いながら。