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No one is



 三日間沈黙していたPDAが鳴り響いたのは、退社三十分前の事だった。
 ここ最近毎日の事になっている相棒との夕食で、何を食べようかと巡らせていた思考は、ブランクがあったとしても即座に切り替えられる。少々耳障りな音は事件発生を知らせる危急のものとして相応しいのだろう。
 出動のない日々は絶好の書類処理日和ではあったのだけれども、もちろん隣に座る相棒はとっくに飽きて膿んでいる。じっと座る事をヨシとしないタチなのは、まだ半年に満たない付き合いながらもすっかり理解させられていた。もうじき帰れる、とのどこか浮ついた空気がさっと入れ替わったのは、それでもさすがだと思わないでもない。
 受信した音声は耳慣れたアニエスのもの。ヒーロー事業部から出動準備を整える開発部までの直通エレベータの中で起きた事件の要点を聞く。音声ではなくデータで状況を受け取っていた斎藤が出動の準備を整えていてくれたので、手早くトランスポーターへと乗り込んだ。
 シルバーステージで発生した銃乱射事件は、今の所、犯人のネクストは確認されていない。非ネクストの起こした事件でも規模が大きければヒーローに出動命令が下りる。そろそろ帰宅ラッシュが起きる時間であるので被害の拡大を抑えること、そしてなにより三日間事件が起こらなかったせいでそろそろ既存映像で繋ぐには限界を感じたアニエスが無理矢理にねじ込んだのであろうと思われた。バーナビーですら気付いたのだから、ヒーローとしてより長い日々を過ごし、アニエスとの付き合いが長い虎徹が気付かなかった訳が無い。
「まあ、これも市民の為」
 ヒーロースーツを着用し、いつでも飛び出せる状態で、こちらが思っている事に気が付いたのか虎徹は苦笑した。
 招集が掛かって十分強。まだヒーローは誰ひとり到着出来ていないが、制圧に回るから皆さん安心してくださいとの意味合いも込めてHERO TVは放映されている。テンションの高いマリオの実況は、到着までの情報収集にも役立つ。
 スーツを着用しているからラウンジに座る事も出来ず、立ったままでそれを耳にした。
 現場は一応、警察により人を退避させている途中らしい。時折混じる銃声で、犯人が手にしている銃器は最初に聞いた小銃だけではないと分かった。シュテルンビルトは無法地帯ではない。もちろん綺麗なばかりの都市ではないが、複数の銃器を手にする事はそれなりに困難な筈だ。
 面倒な事にならなければいいが、と並んでモニタを眺めていると、マイクを通じているせいで日頃想像も出来ない斎藤の大声が到着を告げた。


 懸念は懸念で終わってはくれなかった。単独犯でありながら確保までに掛かった時間は、およそ三時間。しかもタイガー&バーナビーのふたりは確保前に現場を離脱しなければならなかった。
 負傷した為だ。
 斎藤のスーツが強靱でも、能力発動中は容易に傷つけられる事がないと言っても、それでもヒーローとして出動する以上、安全な現場はない。虎徹とバーナビー、ふたりはパワー系ネクストだから最前線に出る事も多く、そして無敵の能力はたった五分の時間制限があるのだ。それでも、慣れている。少々の負傷ならば押し隠して走るのが常だった。それは、ヒーローであるからそう簡単に屈する訳にいかない、と言う事情もあった。
 テレビで放映されている以上、これは娯楽でもある。しかも絶対に正義が悪に勝つものだ。シュテルンビルトにはヒーローがいるから大丈夫だと、市民からの絶大な信頼を裏切る訳にはいかなった。
「虎徹さん、虎徹さん!」
 無差別発砲事件の犯人は、ネクストだった。やはり銃器を手に入れる事は容易ではなく、それは彼の能力が生み出したものだったのだ。それが判明したのは、残念ながら自分達が離脱した後の事だ。自分達が突入した時には分からなかった。実際にあるものと寸分違わないものを生み出せるやっかいな能力だったせいで、犯人が手にしていたものの弾が尽きた瞬間をふたりで狙った筈だった。手にしていたのはそれだけだったのだ。その時点でおかしいと気付くべきだったのかもしれない。
 撃ち尽くし、男は用済みとなったそれを地面へ投げた。それは硬質な音を立てて路面へ触れる事なく姿を消し、代わりに男の手にあったのはアンチマテリアルライフル……さすがにそれは、能力を発動していてもダメージは免れない。
 今にも確保しようと真正面にいたワイルドタイガーのスーツが吹っ飛んだ。ひきつった顔でそれを見て、時間が止まった気がした。完全に無防備だった隙を狙われずに済んだのは、得物が大きすぎて即座に犯人が銃口をこちらへ向ける事が出来なかったせいに他ならない。負傷した筈のワイルドタイガーの左手から射出されたワイヤーは、本来は犯人に向かったものだったのだろう。それはバーナビーの赤いスーツに巻き付いて、結果的に身を守ってくれた。
 ワイヤーに巻かれ、彼の元へ引き寄せられたバーナビーは負傷はしなかった。
 けれど、そのまま動かなくなった相棒の存在に血の気が引いて、そのまま現場へ復帰する事が出来なかった。背後を狙った犯人の動きは、他のヒーローに阻止された。そのまま意識は向こうへ持って行かれて、自分達は搬出された。
 白とライムグリーンの硬質なパーツは胸部を砕かれて、しかしアンダースーツの黒はその内側を見せない。なのに、血は流れるのだ。
 その後、犯人は確保されたのかどうかは分からない。
 ICUに運び込まれた虎徹の容体はなかなか判明せず、冷たい病院の廊下で現実感のないままバーナビーは時間を過ごした。
 失うのかもしれない、と言う予感は体の芯から凍っていくような恐れをもたらす。
 両親の敵を討った。
 ようやく、自分はもう辛い事だけでない日々を送る事が出来ると思っていたのだ。
 ヒーローとして無理に組まされた相手ではあったけれども、鬱陶しい、面倒だという気持ちを完膚無きまでに叩き壊してそこにいる事を当然にしておいて、自分から去って行くのはどういうつもりなのだと八つ当たりしたい気分にもなった。
 分かっている。自分達はいつだって最前線に駆け出して行くのだから、望もうと望むまいと強制的な退場はいつだって傍に控えているのだ。今回が虎徹だっただけであって、いつあの中に担ぎ込まれるのが自分になるかは分からない。
 多忙なロイズが様子を見に来て、いくつか言葉を交わした事は覚えているのに内容は分からない。その彼も今はいない。仲間のヒーロー達も気にしているだろうが、ヒーローとして運び混まれた虎徹の傍に、スーツを脱いだ彼らが駆け付ける訳にはいかないからバーナビーはひとりきりだった。
 幾度か鳴ったPDAも今は沈黙していて、静寂は耳に痛い程だ。
 変化のない空間で黙って扉を見詰めていると、頭の中で渦巻く思考が現実なのかそうでないのかが分からなくなってくる。青白い顔が真っ白になって、ぴくりとも動かない姿が幾度も頭を過ぎるので、その度に打ち払った。かと思えばいつもの脳天気な声で「心配させたか」と彼が笑う。ほっとして、思わず泣きそうになったところで自分が静かなひとりきりの場所にいると気付かされるのだ。
 身近な存在は作ってこなかった。だから、こんな不安定は知らない。
 失った両親のためだけに心を動かして来た自分は、これから失われるのかもしれないと言う恐怖なんて知りようがなかった。指先から冷たくなり、血の気が引く感覚なんて初めて体験する。ただの相棒だ。仕事上での繋がりがあるだけだ。そう言い聞かせても、呆れる程に溢れ出してくる彼の様々な姿がそうじゃないだろうと突きつけて来た。
「……虎徹、さん」
 分かっていた。
 そう自覚したから素っ気ない誰とも分からないものから、彼自身の名前を呼ぶようになったのだ。
 溢れる程に彼の事は既に頭の中にある。触れる温もりや向けられた言葉に喜ぶ心。あちこちに向けられる笑顔はいつの間にか誰よりも何よりも大きなものとして自分の中に存在を確立しているのだ。
 彼を思うと自分の中にこんな柔らかなものがあったのかと動揺すらする。今までの自分を否定するつもりはない。だけど寝食すらも味気なかった頃よりも、今の自分を見た方が両親だって喜んでもらえるだろうとようやっと思えたのだ。
 ありふれた人のように、世間並みの幸せを、自分はもう多分知っている。
「勝手、ですよ」
 人の気持ちをこんな風に変えておいて、自分は退場しようと言うのだろうか。やっと得た幸せを取り上げようと言うのだろうか。
 ずっと握り締めていたてのひらは、うまく血が巡っていないせいもあるのだろう、ぎこちなくしか動いてくれなかった。ゆっくりと開き、頭をくしゃりとかき乱す。そのまま妙に熱く感じるまぶたを覆おうとして、眼鏡が邪魔だと思った。
 鼻の奥が、つんと痛んだ。


 今は何時なのか分からない。
 静かで何も動かない空間は時間がそうと固定されてしまったかのような錯覚を起こさせる。
 だから、視界の端に入った変化が何かを咄嗟には理解出来なかった。
「……え」
 何かが動いた、と思った。半ば眠っているのと同じだった脳が覚醒して、周囲を見回す。扉は閉まったままで、灯ったままのICUの表示だって変わらない。誰かがいる訳でもない。
「なに、が……?」
 ふと、視界の端でまた何かが動いた。感じた気配がとても良く知っているものだったので、ぞくりとする。
「……こてつ、さん」
 まさかと思いながら名を呼ぶ。そちらを見ればきっとまた『何か』は消えてしまうと思ったから、何もない場所を見詰めたままだ。意識だけをそこへ向けた。
「虎徹さん?」
 答えは当たり前のようにない。けれど、それが消え去る事もなかった。
 近寄って来る訳でもないのに、押しつけがましい程に自分を心配している気配。暑苦しい温度。馴染んで、もう失いたくないと思っていたもの。
「……あなた、何やってるんですか。そんな場所にいる場合じゃないでしょう」
 一度そうだと思えば、もうそうだとしか思えなかった。
「早く帰ってください」
 例えば、父や母。もう生きていない事が分かっていたから、それでも会いたいと思った時に、せめて幽霊になってくれないかと思ったものだ。夜中に感じた人の気配は当然気のせいで、どれだけ望んでも会えた事なんてない。朝になれば冷静になって、そんな事は有り得ないと分かっていたし、バーナビーはそもそも現実主義者だった。幽霊だとか目に見えないものは、存在しないと思っているし分かっている。
 だから、一度だって両親もそうじゃないものも見た事も感じた事もなかった。
 なのに分かる。ここにいるのは、虎徹だ。今ICUで懸命の治療を受けているくせに、死にそうになってバーナビーを泣かせようとした男だ。
「やめてくださいよ、そういうの!」
 迷っている場合じゃないだろう。
 あの体が抜け殻になれば、どうしたらいいのか分からない。
 死んでしまったらどうしようと思っているくせに、あれほど空転した頭は彼が死んでしまった後は何も浮かんで来なかったのだ。
 怖すぎて頭が拒否した。そんな現実は例え空想でもイヤだと無意識が振り払っていた。
「……ひとりにしないで」
 俯いて、絞り出すように告げた。潰れた声は綺麗な言葉には聞こえなかったけれど、その直後に感じていた妙な気配が消えた。
「……っ、虎徹さん。虎徹、さん……こてつさん」
 慌てて、彼が居ただろうと思った場所を見る。当たり前のようにそこには何もなくて、ただの消毒された病院の空気が、のっぺりとした無機質な壁があるだけだった。闇すらもそこにはない。
 帰ったのだろうか。それとも……?
 ICUの扉はまだ閉じたまま、治療中を示すランプも灯ったままでなにひとつ、さっきとは変わっていない。
 自分は、夢を見ていたのかもしれなかった。

 



「ああ、その夢見たわ」
 その話をしたのは、朝方ICUを出た彼がその後も一週間の入院生活を余儀なくされた日々からおよそ一年が過ぎた頃だった。
 さまざまな事がありすぎて、自分達の関係だって大きく変わっている。最早ただの同僚だなどと言い訳をするつもりはない。大事な友人を通り過ぎて、自分は彼へと明らかな恋心すら抱いていた。だけど、それを口にすることはないのだろう。
 今度こそ死んだ、と思わされた彼は性懲りもなく病院のベッドに横たわっている。違うのは自分も包帯を巻かれて隣のベッドにいる事と、彼だけでなく自分もこれは死ぬかもしれないなと覚悟した事だろう。
 ジャスティスタワーの最上階での死闘は、イヤな記憶を掘り起こして、そして諦めを自分に与えた。
 今でもあのときに感じたものは夢だったのではないかと思っていた。そして、もうあの頃には恋をしていたのだと思ってしまうばかりだ。まだまだ未成熟だった自分は、彼を失うかもしれないと言う段になってすら、まだ自覚出来ていなかったのだ。
 それから一年もの時間を掛けてゆっくり認識されたものは、彼が引退を決意して相棒ではなくなる未来に、眠る準備をさせている。
「夢?」
「ああ。はっきりとは覚えてねぇんだけど、なんかお前にすっげー怒られた気がする」
 いま思い出した、と笑った彼は「命の恩人だなぁ」としみじみと言った。
 既に何度も彼に救われて来た自分は、ありがとうの言葉にも何も返す事が出来ない。
「って事はあん時の俺、本気で死にかけてたんだな。……でもさ」
「はい?」
 言葉を切った彼が、バーナビーを見た。にこりと笑った顔は見慣れたもので、なのにどこか落ち着かない。
「どう……しました?」
「いや。友恵じゃなくてさ、お前に会って、あーヤバいって思ったんだよなぁ、思い出した!」
「……?」
「つーか。今になって焦るわ」
 くつくつと笑う彼の意図が、分からない。
「そんなに必死だったのかよって……バカだよなぁ」
 勝手に喋って、納得して。そして同意を求めるようにこちらを見られても、困る。
「そのくせ、全部忘れて。せっかくバニーが引き戻してくれたのに。……『ひとりにしないで』だっけ」
「っ! はっきり、覚えて、ないって!」
 慌てた自分へは、今度はにやりと笑った。
「ひとりにするつもりなんかなかったのに、伝わってなかったんかなーとか、あーそう言やなんも言ってねーとか。バカだわ、うん」
「ちょ、っと……なにを?」
「あのさ、バニー。俺は、お前をひとりにするつもりないよ」
「……あなた、引退するんでしょう? 実家帰って……それに僕達はもう、相棒でもない」
 簡単に会えない場所へ、待っている人の居る正しい居場所へ帰って行く彼には、もう理由のなくなった自分が傍にいる事など出来ない。
 分かっている事だったけれど、穏やかにふたりきりの病室で過ごしていると、まだあの日々が続くのではないかと錯覚してしまいそうになっていた。自然落胆してしまう声に気付き、ダメだと意識して笑顔を浮かべた。
 彼に縋るような事はしない。
 この気持ちは叶わないのだから、求めない。
 離れて、いつかに大丈夫だと笑える過去にすると決めていた。
「うん、まあそうだけどさ。そんな風に笑うお前、放っとけねぇよ……相棒じゃなくなるなら、違う名前にしないか」
 表情豊かな彼は、笑うと言うひとつの表情だって、様々に変化する。穏やかな笑みは日頃の彼らしくないな、と思った。そんな事を気にする事で、気を散らした。彼が言おうとしていることの意味を知りたくて、知りたくなくて、彼にばかり引き出される不安定さがまた心を埋める。
「お前がそういうのにこだわるんならさ、俺、一年も前からずーっと言えてない事があるんだけど」
「……なに、を」
 期待して、外れたらきっと立ち直れない。分かっているのに、先を促した。
 カラカラに喉は渇いて、視線はうろうろと彷徨い、全くらしくない。けれど、彼の前ではいつだってかっこいいバーナビーなんて姿を消してしまうのだ。
 胸が詰まって、痛かった。
 彼が笑ったように、吐息を漏らす。それを、見て。
 ああ、一年前、気配しか感じさせなかった彼は、こんな顔をして自分を見ていたのだろう、と思った。

 慈しむような、愛おしいような、優しい顔。焦がれた気配。
 思えば、ずっとそんな表情を、彼からは向けられていた。なぜ気付かなかったのだろう?
 その先に告げられる言葉はきっと知っている。
 自分が言わずにいよう、と思ったものを、彼は口に出来るのだと思って、何故か悔しい気持ちになった。
 ひとりにしないで、と再び告げた言葉にはまた何も返される事はなかったけれど、代わりに暖かな温度に抱きすくめられて、一年の時間は決して無駄にした訳ではなかったのだと、言い聞かせようとした。
2012.10.27.
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