I'll pamper
ようやく部屋が暖まってきた。
冬の入り口程度だった気候は一昨日の雨で一気にシュテルンビルトを冬にしてしまったようで、仕事を終えて戻って来た部屋は冷え切ってしまっていた。合い鍵を使って中に入り、一番にした事は暖房のスイッチを押す事だ。身に蓄えた筋肉量の割に体温の低い自分は、冬の寒さが本当に苦手だ。じっとしていれば余計に寒さが身に染みるからと、相変わらず詰めの甘い片付け方しかされていない部屋を片付けて行く。床に落ちた空き瓶と広げられたままの雑誌。昔に比べれば断然綺麗になったとこの部屋の主は自慢するけれど、それでも整然とした空間に慣れているバーナビーとしては、まだまだだとの判定を下す。もちろん、これが虎徹らしさでもある。自分の部屋とは違って余計な物の多い雑然とした空間は、いろんなものを抱えて捨てない彼自身を思わせて好ましくすらあった。
だから、適当に。明らかにゴミだろうと思うものしか処分はしない。余計な事をしてしまえば、意図せず彼自身の魅力にまで手を出してしまうような気になってしまうのだ。
この部屋へ自由に入る権利を得て、既に一年近く経とうとしていた。
ふたりが再びバディとして並び立つようになったとの同じ時間であり、プライベートを束縛しあうようになっただけの時間だ。
今日はバーナビーの方が帰るのは早かった。いつだって積み上げられている書類を片付けるためではなく、今日の虎徹は珍しく入った単独のインタビューのため、残業を余儀なくされている。ほぼ入り浸っているこの部屋ではなく、だから今日は久しぶりに自分の部屋へ帰ろうと思っていた。なのに終業の片付けをしていたバーナビーへ掛けられたのは、当たり前にこの部屋にいるだろうと思っている虎徹の言葉だった。
「多分、十時前になると思うから。先メシ食っといて。風呂も入ってていいから」
なんて言われてしまっては、違うなんてとても言う気になれない。
思い出してくすりと笑みが漏れ出す。それは幸せな色をしていた。
彼は、かつて結婚をしていた。好きの延長線上に家族となる未来がある人だ。自分は男だし、彼には娘だっていてそう簡単に物事が進むとは思っていないが、思いがけず彼の中にある幸せの形に自分が組み込まれている事を知らされたようで、嬉しくて仕方がなかった。
幼い頃に家族を失った自分は、恐らく彼のような『普通の恋愛』の形をはっきりとした形で掴む事が出来ないでいる。愛する人に同性である彼を選んだ事に後悔はない。彼以外は欲しくもない。けれど人間という動物からすれば、未来に続くものがない選択をしてしまったのは、どうなのだろうと思う事はあった。両親のように男と女で愛し合って、自分のような子供を得るのが正しい姿ではないのか、などと思ってしまうのだ。
けれどそこに劣等感や罪悪感がある訳ではない。案外自分のメンタルは強いようで、思ってしまったとしても結局は自分は違うと現状の幸せがなによりも大事で、これを大切にしたいといつだって落ち着けた。
一年の約束もない離れていた時間は、それなりに堪えていたのだ。
思い出してふと苦笑し、つまらない考えを押し出す。世間と同じようでなければ幸せになれない訳ではない。自分が幸せだと思い、伴う相手が幸せであればきっとおおむね問題はない。少なくともこの一年近い時間、バーナビーは不都合を感じた事はなかった。
取り敢えずいま考えるべきはひとりで食べる事になる夕食を何にするかと、虎徹が帰ってくるまでの時間、何をして過ごすかだけだ。
虎徹と居ればあっという間に過ぎ去る時間も、ひとりだと持て余す。
どこかで食べてから帰れば良かったと気付いたのはとっくに手遅れの時間で、結局数少ないレパートリーの中から自分で作った夕食をとり、その後はソファに座ってテレビを見ていた。この部屋にはPCもないので、積極的にではないものの未だ忘れた訳ではないウロボロスについての情報を調べる事だって出来ない。無趣味な自分にがっかりするのはこんな時だ。テレビの傍のラックを開いて虎徹秘蔵のディスクを眺めてみたり、けれど結局セットする気にまではなれないで、座っていたソファの上に寝そべってうとうとしていた時に、ようやく玄関が開けられる音がした。リビングとの間を隔てるドアは開かれたままだ。帰った時は寒かったのでぴったりと閉じていたのに、寂しさが寒さに勝ってしまったから開いたのだ。
「……おかえりなさい」
もちろん、彼が帰って来たのがすぐに分かるようにと。
思い通りに鍵を回す音だけで気付けて、玄関に飛び出す。リビングから漏れた暖房は廊下まで暖めてくれていた。玄関扉を開いた虎徹は暖かさにか迎えたバーナビーの姿にか、あからさまにほっと表情を緩める。
「ただいま」
ひやりとした空気を纏ったままで、彼は軽くキスをくれた。
「……どうしたんです?」
いつもは一緒に帰るから目新しい姿ではあるが、それにしてもとバーナビーは心の中で首を傾げた。彼の苦手なメディア仕事ではあったが、やけに彼は疲れているように見えたからだ。
「ん?」
「疲れてます?」
「んー」
曖昧な声で返事をしながら、虎徹はリビングへ。その後を追いながら、これはやっぱりおかしいとバーナビーは確信を持った。疲れたり落ち込んだりした時、彼はあからさまに口にしない。弱みを見せるのがどうやら極端に苦手らしいのだ。以前は分かりやすい人だと思っていた。けれどもそれがとんだ誤解だったと知ったのは、取り返しの付かない事象が起きた後の事だった。
相棒だけではなく恋人になり、隠していたせいで招いた二年前の大事件を彼もまた反省したのか、隠すことはなくなった。バーナビーに踏み込む権利を与えてくれる。それでも自分から疲れただの弱っただのと積極的に訴えられる事はまだまだ少ないのだ。
「しょうがない人だ」
くすりと笑える余裕が出来たのは、それでも見せてくれるようになった現状に満足はしているからだ。何があったのかを言ってはくれないかもしれないが、疲れを癒やしてあげる事も、甘やかしてあげる事だって出来る。存在を知れるだけでも知らないのとは格段の差はあるだろう。注意深く見て、気付いてあげられれればいい。
自分が彼との関係において、ふたりで過ごす、という毎日にまだ慣れない所はある。遠慮はどこか存在している。根気強く慣れるのを待ってくれている彼と同じように、自分もまた彼が素直に甘えられる日を待つべきだろうと思った。根が深いものだろうから、一足飛びに手に入れたいなどと無駄な事を望んだりはしない。
「……虎徹さん、なにかして欲しい事、あります?」
リビングでタイを抜き、ベストのボタンを外している姿に声を掛ける。
「そうだな」
少しだけ考える顔。悪いなと滲む気配に、構わないですよと笑いかけた。バーナビーが気付いている事に、彼もまた気付いているのだ。へにゃりと下がった目尻が困ったようでいて、抱き締めてあげたくなる。
「寒いし……」
「ええ」
「一緒にお風呂入って、温めてくれる?」
それとももう入っちゃった? と言われた言葉に、一瞬頭がついていかなかった。
「いえ……まだ、ですが」
「じゃあちょうどいい、入ろう」
にこりと笑った虎徹の表情に、慌ててそうじゃないと頭を振りそうになった。付き合って既に一年弱。抱き合うようになってからも同じ時間が過ぎた。同性との付き合いはお互い初めてだと言うのに、セックスに対する躊躇はなかった。むしろどちらも際限なく付き合えてしまうものだから、かつては淡泊だとばかり思い込んでいた自分の性欲について考え直した程だ。虎徹だって同じだったようで、どこまで本気なのか分からないながらも、人生で一番貪欲だと言っていた事もあった。
相手の体を見れば、欲情する。そんな風になってしまっている。
当然風呂でだって睦み合った事はあるし、むしろそれ以外の目的で一緒に入った事なんてなかっただろう。
だけど、彼が向けて来る笑顔はそうではなかった。まだいつもの力のない笑顔は弱っている姿を見せ付けて、甘やかしてと遠回りに訴えている。
「……いいですよ」
結果、そうなる事はあるかもしれない。だけど望んでいるのはきっとそうではない。
だからにこりと笑い返して、一緒に服を脱いだ。自分が帰った時も、車からの僅かな時間で体が芯まで冷えそうになった。あれから随分時間が過ぎて、日中温められた気温も下がりきってしまっているだろう。よく見れば衣服を脱ぎ捨てた彼の体には鳥肌が立っていて、寒そうで可哀相になる。早く温めてあげたかった。
暖房は浴室まで暖めてくれていなかったので、寒い寒いとふたりで抱き合いながら、熱いシャワーを浴びた。いつもは虎徹の方がずっと体温は高い筈なのに、まるで落ち込んでいる気持ちがそうさせているかのように、ひんやり冷たい。ずっと暖房の中にいたバーナビーの温もった体温を分けてやり、浴槽にも湯を溜めた。彼が好きな高めの温度にしてあげたかったけれども、そうすればバーナビーがすぐにのぼせてしまう。彼がいいよと譲ってくれたので、素直に受け入れた。
半分も溜まれば成人男性にしてもガタイが良いふたりが入れば十分にお湯は溢れ出す。いつもなら虎徹が奥に、その手前にバーナビーが座って背後から抱き締められるのだけれども、今日は逆にした。
「……なんかくすぐってぇの」
こういう時、自分が男で良かったなと思う。いつもは甘やかしてくれる彼を、すっぽり包んで甘やかしてあげる事が出来る。
背後から抱き締めて肩に顎を乗せ、言葉の通りくすぐったそうに笑う横顔を覗き見た。
「たまにはいいでしょう?」
「そうだなぁ」
思った通り、彼から性的な気配は欠片も漂わない。暖かなお湯でほぐれた筋肉をぐっと伸ばし、幸せそうに笑ってくれる。
「温くないですか?」
「ん? 全然あったかいよ……バニーの体もぬくい」
「外は寒いですもんね」
「もう冬だもんなぁ」
虎徹の体を抱き締めた腕を、湯の中で掴まれる。さっき感じた冷たさはもうなくてほっとした。手のひらをくすぐるようにされて、仕返しとばかりにこちらからもやり返す。笑っているのか、水面は静かに揺れた。
濡れた髪に頭を寄せて、ほぅと息を吐く。
「ねえ、虎徹さん?」
「ん?」
「もうすぐ一年ですよ」
「……そうだな」
僅かな間は、もしかして思い出していたのかもしれない。雪の中、ひとりで二部として駆け回っていた時の事を。犯人を追って落ちたその先で両手を広げて待っていたバーナビーを。
ひどく驚いた顔をしたのに、たった一分にも満たないだろうやりとりで自分達は元の姿に戻った。あたかもそれが、正しい姿だったと言うように。
「お祝いしましょうね」
「ん……でもいいの? お前」
「一緒に来てくれます?」
「もちろん」
寄せた頭に、こつんと頭をぶつけられる。痛いですよとくすくす笑って遊んでいた手のひらは湯に沈んだまま固く握り合った。同じ強さで体に巻き付けていた腕で、抱き締める。
「いつか、で構わないんですけど」
「うん……ごめんな」
全てを告げなくとも、バーナビーが求めているものを彼は理解してくれた。だけど欲しいのは詫びの言葉ではないと、ただ待っていると伝えたいだけだったのに、上手く行かないなと思う。
「僕も、努力しますから」
「お前も無理しなくていいからな」
背中から抱き締めているから、彼の表情は見えない。だけど見る必要などないくらいに、優しくて柔らかな声だった。一瞬前に伝わっていないと少し沈んだ気持ちは、その必要がなかったのだと分かる。じわりと外側から温めてくれる湯と同じように、虎徹の存在が内側からも温めてくれた。彼もそうだといいなと思うが、きっと大丈夫だろう。待っているという想いを彼はちゃんと知ってくれた。自分達は同じ人間ではないけれども、ちゃんと通じ合っている。
胸の奥からじわりと涙腺を緩ませるような幸せが滲み出た。
「虎徹さん、暖まってます?」
「うん、しっかりと」
果たしてそれは心と体、どちらだろう? 顔は見えない。まだもしかしたら浮かべられた笑みは、力を失っているままなのかもしれなかった。
「じゃあ、ちょっと出ましょう」
「ん?」
「体洗いたいです」
「はいはいっと」
繋がれた手がほどけるのは寂しかったけれども、今は自分が甘える時間ではないのだ。
ざばりと湯をしたたらせながら、シュテルンビルトでは珍しい洗い場に出た。日系である彼は風呂にこだわりがあるようで、しっかり漬かる事が出来る浴槽、そしてトイレとセットになっていない洗い場をとにかく探したらしい。ゴールドステージにならさして苦労せず見つけられる作りではあるが、ブロンズではさぞ難しかった事だろう。その恩恵をしっかり受け取り、ラックからボディソープを手のひらに出す。
「あれ、洗ってくれるの?」
「たまには僕にさせてください」
時折彼と一緒に風呂に入れば、このようにして手で体を洗われるのは珍しい事ではなかった。殆どが性的な目的を伴っていたが、単純に手のひらの温度と優しい手触りはバーナビーを緩ませてくれた。
いやらしくならないといいんだけど、と思いながらぬるりとしたソープをまとった手を彼の体に触れさせる。正面からでは妙な気持ちになりそうだったから、さっきと同じように後ろから。
セックスの時だっていつだって、バーナビーは触られてばかりだ。こんな風にゆっくりと彼の体に触れる事など滅多にない。しかも冷静な時ともなれば皆無だった。
日頃からセクシーだと思う、褐色の肌。しっかりと付いた綺麗な筋肉は同じ男として羨ましい。近頃はトレーニングを怠らないから鍛えられた体は年齢を感じさせず、触り心地だって良かった。
「なあ、バニー」
「はい?」
手のひらで存分に上半身の筋肉を堪能しながら、さて性器はどうしようかと思い悩む。どうやってもこれでは性的な流れになってしまいそうだ。
「俺も洗っていい?」
「今日はダメです」
「えっ」
「今日は、僕にさせてください」
ね、と肩越しに顔を出し、視線を絡めた後で頬にキスをした。しょうがないなぁとへにゃりと笑う顔には、もう弱った気配はない。こんな事で良かったのかなと思ったが、すっぽり後ろから抱き締められる事も、手のひらで温度を感じる事も、どっちも自分を安心させるものなのだ。他に方法を知らなかった。誰かを甘やかす手段など、虎徹から教えられたものしか知らない。
「そこは、自分で洗ってくださいね」
「はいはい」
やはり性的な流れへ持ち込むつもりはないのか、性器を指差せば彼は簡単に頷いた。残念そうな気配も見せないのはちょっとだけ残念ではあったけれども、そうじゃないのだからと笑顔の下に押し込む。
ぐるりと正面に回って、括れた腰、引き締まった尻も泡立てた手のひらで洗った。
「……そっちはいいんだ」
「え?」
見上げれば、いつの間にかもうもうと立ちこめた湯気で彼の顔は曖昧にしか見えない。最初から眼鏡をしていない自分には、細かな箇所まではしっかりと見えていなかったのだけど。
「いや、いいよ」
くしゃりと髪を撫でられた。見えた口元は、満足そうに笑んでいる。不意にキスがしたくてたまらなくなり、丸めていた背中を伸ばして正面に立った。口元と同じに彼の表情は幸せそうだ。
音を立てて一瞬だけのキスをすれば、きょとんとした顔をされる。
「サービスです」
と緩む顔のまま告げれば、じゃあもっとと強請られたけど、これ以上は有料ですと突っぱねた。
「えー、なんで?」
「なんででも、ですよ」
キスを続ければ間違いなくそんな気分になってしまうだろう。暖かなもので満たされた気持ちを、今はもう少し堪能していたかった。足元にしゃがみ込んで、ちっとも反応していない可愛らしい性器を見る。そのままでいてくださいねと心の中でお願いして、足を洗った。指の一本一本まで洗うとさすがにそこまでしなくていいと虎徹は苦笑したけれど、滅多に触れる事が出来ないのだからと答えず続ける。言った虎徹の声だって、嫌だとの気配は感じなかったのだからきっと気持ちは良かっただろう。
シャワーを掛けて、泡を流して、完成。
座ってもらって頭も濡らして、虎徹用のシャンプーでしっかり泡立てて洗い流した。強めに地肌をマッサージすれば、気持ちいいと吐息に紛れた完全に気の緩んだ声が上がって、至極満足した。
その後で手早く自分を洗って、再び浴槽へ。既に温くなりかけていたけれども、さっきと同じように背後から抱き締めれば、しっかり熱の戻った虎徹の体が温かかった。
「……ありがとな」
くたりと預けられた体が弛緩する。ぬるま湯に溶け込むくらいの声で言われた言葉に、こちらこそありがとうと言いたかった。この手はちゃんと愛する人に、安らぎを与えている。それを分からせてくれたのが嬉しかった。
「好きですよ」
「うん、俺も」
「愛してます」
「……俺も」
くすくすと彼が笑うので、バーナビーも笑った。
「そろそろ出ましょうか、このままじゃあまた冷えてしまう」
「……名残惜しいなぁ」
「いつだってしてあげますから」
頭のてっぺんにキスを落として、ぎゅっと強く抱き締めた。
「好きだよ」
「……はい」
「愛してる」
「……はい」
「よし、出ようか」
ざばり、と立ち上がった虎徹が伸ばしてくれた手を掴んで、立ち上がる。風呂のせいでなく頬が真っ赤なのを見られてしまっただろうが、彼だって同じ顔の色をしていたから、おあいこだ。
正面からぎゅっと抱き締められて、ああ確かに名残惜しいな、と思った。