Worthy owner
「おとなしく飼い馴らされるつもりですか、ワイルドタイガー」
言外にらしくないとの呆れをありありとにじませて見下ろすが、茫洋とした目の色は自分の存在はおろか、ここに人が立っている事すら認識していないだろう。
仰々しい鉄の檻と、太い鉄の鎖。繋ぐ首輪は不格好な鉄の輪で、当たってほしくない予想はことごとく正解してしまったようだ。だがおかげでこうやってたどり着く事が出来たのだから、予想出来る行動しか取らなかった愚鈍な相手へは感謝すべきだろうか。
金は掛かっているのだろうが趣味の悪い装飾の室内の真ん中に据えられた、獣を入れるにふさわしい鉄の檻。
ハンドレットパワー対策にしては甘すぎるし、能力を使えない状態だとすれば、ただの人にに対して滑稽なほどに重々しい。実用性より観客を想定した訳ではないだろうに、見た目だけを重視した仰々しさは恥ずかしくもあった。
そもそもワイルドタイガーの牙を折り、こんなモノで飼おうと思うような相手と感性が合うとは思えないが。
「いつまで似合わない事をしているつもりですか」
もちろん彼が悪い訳ではない。むしろ望まない事を強いられている。なのに従順に従っているかのように見える姿は軽い苛立ちを生んだ。手の届く鎖を引けば、抵抗もなく彼は引きずられて床に倒れる。
らしくない。
苛立ちは、例えようもないほどの怒りへと簡単に姿を変えた。
いや、最初からそれはあったのだ。
消息不明だった彼をようやく発見出来た安堵や健康面の心配はある。今すぐ抱きしめて大丈夫でしたか、なんてまるで一般人のように、まるっきり大丈夫でない状況下で当人にそれを尋ねるなんて無意味な事をしてしまいそうなくらい、取り乱した安堵だってあった。泣きたい気持ちもきっとある。だけど彼が生きていて、ほぼ予想されていた通りの姿だからなによりも怒りが爆発した。
受け身すら取らず不格好に床へ倒れ込む姿をこれ以上見たくはなくて、考える前に能力は発動していた。飴のようにぐにゃりと鉄柵を曲げて、鎖をたぐって彼を戒める首輪を指先で砕く。傷つけないよう細心の注意を払ってのけた内側には、予想されたように尖った針が仕込まれていた。虎徹の首筋には刺された跡が赤く残っている。
さすがにどのようなタイプの薬剤を使われたのかは分からない。これがどんな仕組みかもだ。だが能力を発動した事で気がついた、通常では認識出来ない音域の制御音との相乗効果で虎徹の意思は殺されていたのだろう。無自覚のうちに自分もずっと耳にしていたがまだ影響はない。時間と薬剤、どちらも不足している事を幸いに思うと同時に、片一方を断った事で虎徹だってすぐに脱する事は出来るだろうとも信頼することが出来た。
壊した首輪はきっと我らがメカニックの斎藤が興味を示すだろうが、残念な事に今回は証拠物件だ。彼の手へ届く可能性は少ない。虎徹だってもう見たくないだろう。このまま粉々に砕いてしまいたい衝動は押さえて、手を濡らした薬剤を強く振って、飛ばす。
この室内はバーナビーからすれば悪趣味としか思えないもので占められていた。それでも一定の趣向で統一されているにも関わらず、この首輪だけは浮いている。パワー系ネクストを押さえ込むには実用性を重視したものしか得られなかったのだろう。代わりに、本来着用させたかったのだろうと思われる、幅広の黒い首輪は壁際の飾り棚にリードと共に置かれている。大型犬、もしくは彼の名前通りの猛獣にふさわしいがっしりとした金具の金色はおそらく本物の貴金属だろうし、遠目から見ても用いられた革は上質だ。
「……慰謝料代わりにいただいて行きましょうか。虎徹さん」
断続的に流し込まれていた薬は止まった。だがまだ床に倒れたままの虎徹はその支配下から脱するのは難しいだろう。だと言うのに、呼びかけに応える彼の視線は強い。
ガラスのような瞳で檻へ入れるだけなんて、ありえない。
もちろん、人としての尊厳を踏みにじる扱いは反吐が出るし、そんな事を彼へ行ったのは許しがたい。だがきっと自分が一番に怒っているのは、ただ所有すればいいとばかりの扱いに対してだ。彼がこの程度の価値だと思われた事が、何よりも腹立たしかった。
虎徹が忽然と姿を消したのは、今から十日前の事だ。
相棒である彼も大概時間の概念は緩いが、恋人である彼はその上を行く。そもそも彼は一個人、鏑木・T・虎徹である前にヒーロー・ワイルドタイガーである事を選ぶような人なのだ。望む所なのだろうが、その手のトラブルとやたらと遭遇する彼が自分との待ち合わせより、突然産気づいた妊婦や車にひかれそうになった子供を優先するのは、あまりにも当たり前すぎて、そもそも待ち合わせ自体を近頃は滅多にしなくなった。
二部として復帰した後もなんだかんだとコンビの仕事は多かったし、そうでない個人の仕事が入ったときは逆に待ち合わせ出来るような時間に終わる事も珍しかったからだ。本来が多忙な自分たちには待ち合わせですれ違う時間も惜しく感じられた。
引退前に一時中断されたふたりのプライベートな関係は確認する手間も必要なく再開されて、早いうちに合鍵は預け合っている。忙しい日々の中でも会いたければどちらかの家へまっすぐ向かう方が早かった。
だからその日、待ち合わせをしたのは本当に久しぶりの事だった。
お互い単独の仕事が入り、終わりの予定時刻もほぼ同じだったから、たまには新鮮さを味わおうとオフィスを出る前に決めた。お互い、距離は離れているものの同じシルバーステージでも仕事だったから、中間地点にある繁華街で午後八時。
予定より三十分早く終わってメールを入れ、のんびりと移動した。少し浮かれていたのか不似合いだと分かっているくせに、通りすがりの花屋で小さなブーケを買った。デートだからだ。かわいらしいパステルが似合う相手ではないが、お仕着せのマナーを思い出し、ついその通りの行動を取ってみたのは、差し出された彼がひどく困惑した顔を見せてくれると思ったからだった。
笑いのネタにでもなればいい、あの人は自分が気障な振る舞いをするのがどうやらえらく面白いらしいので。
シュテルンビルとで恋人になって欲しい男性、抱かれたい男性No.1にだって選ばれたことのある自分に対して失礼だと思うものの、実際は男性性が危ぶまれる立ち位置を諾として受け入れてるのだから、さっぱり本気で責めるつもりはない。
もっとも、虎徹はバーナビーを抱くけれども、自分を女として扱う事は一度だってなかった。だからきっと、本来ゲイではないだろう自分がセックスで抱かれる立場であっても、ジェンダーについては一度も悩む必要がないのだ。自分は男として彼が好きで、同じ男として虎徹に愛されている。そこは揺らがない。
彼からも今終わったとメールが来たのは、既に待ち合わせ場所に着いた後だった。サーモンピンクのガーベラと、クリーム色の薔薇のつぼみ。彼には間違いなく似合わない可愛い小さなブーケを手に、分かりやすく恋人を待つ自分の姿はまだバーナビーとはバレていない。撮影であちこちを弄られたついでにと、終わった後、馴染みのメイクと共にヒーロー・バーナビーからほど遠いスタイルをおもしろがって作り上げたからだ。おじさんとのデートをそわそわ待っている姿があのバーナビーだと結びつけるのはなかなか難しい。だからいざとなれば相棒との食事だと言い逃れられなくなるのを承知で、ブーケなんて買ってみたりしたのだ。
しかし同じように人待ち顔の男女にまぎれながら、移動時間を考えれば十五分程度の筈だったのに、それから三十分過ぎてもたどり着かない恋人に、またいつもの事かと苦笑しながら嘆息した。
既に時間は九時前だ。出動もこなした後での取材が数件で、差し入れはあったものの腹はすいている。携帯を確認しても虎徹からの続報はなかったので連絡も入れられない状況かと過去からの経験で判断し、後十五分待って来なければ彼の家へ向かおうと決めた。
せっかくのデートを惜しくも思うが、この程度で腹を立てていれば虎徹の恋人は務まらない。なによりもヒーローであろうとする彼が好きなのだから、彼と喧嘩はそれなりにするもののこれについては一度も文句を言った事はなかった。
十五分待って、ちょうど午後九時。
引退して少しは落ち着いたとは言え、復帰してからもやはり引く手あまたなバーナビーを無意味に一時間近く待たせるのは彼くらいなものだなぁと、それをやけに嬉しく思いながら、先に家へ戻っている旨をメールした。気付けばきっともういいからと言いたいくらいに必死に謝るメールがくるのだろう、思い浮かべれば笑いが浮かぶのを押さえられない。
しかしそのメールは朝になっても受け取る事は出来ず、浮かべた笑みは後悔する事となる。
疲れのままソファでうとうとと迎えた朝、着信のない携帯にバーナビーは不安を隠せなくなった。
どのような状況と遭遇したとしても、偶然に差し伸べた手を必要とされるにはいささか時間が長過ぎる。もちろん自分たちは犯罪対応のエキスパートであるのだから、一晩を必要とするような状況も容易に想像する事は出来た。だからこそ、一瞬も連絡を入れられない状況はまずあり得ないとも分かってしまうのだ。
これだけの時間、人間の緊張は続かない。巻き込むのを今更躊躇しない相棒がいて、そうでなくとも彼はPDAを手首に巻いたヒーローで相棒だけでなく犯罪者を摘発するために人を動かすことも出来る存在なのだ。
朝日が差し込み始めたブロンズの彼のアパートで、深夜過ぎた頃からずっと存在から意識を逸らしていた心配に、ようやくバーナビーは向き合った。
何かがあって、彼はいま連絡を取れない。
こうやってバーナビーがひとりで待っている事を知っているのだから、心配しているだろうとも簡単に予想しているだろう。こう見えても自分はベタベタに甘やかされて、愛されている。不要な心配を虎徹が全く掛けない良い恋人だとは残念ながら言えないが、それでも自覚の上で心配を強いるような真似はしないとの信頼はしていた。
意識はあるのか、否か。
「……何やってるんだ、あの人は」
そして、残念な事に自分は、最も悪い状況を常に想定してから物事に当たるようにしている。
――生きているのか、否か。
万一息を潜め身を隠している状況だとすればと思えば携帯やPDAをコールするのはためらわれた。一瞬のコール音が彼の安全を奪う可能性だってある。
時計を見ればまもなく午前七時。彼から最後の連絡があってから、およそ十時間が過ぎる。
動き始めるには遅過ぎたかもしれないと思いながら虎徹の部屋を出ると、近くの駐車場へ先週から停めっぱなしにしてある自分の車のエンジンを掛け、同時に斎藤へ連絡を入れた。
こんな時間であろうと我らがメカニックはおそらく自らのラボに居るだろうと思ったし、事実簡単に連絡がついた。
成人男性が一晩行方をくらませただけで失踪と言うには大げさかもしれない。
けれど、あのトラブル誘因体質と恋人である自分を放っておくとは思えない状況がある以上、楽観視も出来ないのだ。
司法局からの支給品であるPDAは、出動要請や出動中の指示を伝える事に使われるのがメインであるが、多岐に渡る機能が搭載されている。職場の端末すらまともに使いこなさない虎徹には期待していないが、それでも常時GPSは起動しているし、バイタルだって記録していた。それらをチェックする権限は、自分たちヒーローが命を預けているとも言えるギミックすべてを取り仕切るメカニックにも与えられている。
出動時は自ら開発したスーツからの情報を一番に信頼しているので存在を忘れられているものの、斎藤はPDAからの情報を拾う事だって出来た。
生死だけでもと思いながらハンドルを握りアポロンメディアに向かったが、途中連絡をよこした斎藤は、安否ではなくシルバーのある場所へ向かうようにと指示だけをよこした。
虎徹が昨日の仕事で訪れた番地と近い、と過ったのは思い違いではなかったようだ。
バーナビーと待ち合わせた場所へ向かうには通る筈もない、斎藤が指示した細い路地にそれはあった。白を基調にした、緑の縁取り。本来なら彼の右手にあった筈のPDAが、無造作に地面に捨てられていた。
緊急事態と判断し、即座に携帯を鳴らした。呼び出しの音が何度続いても反応はなく、地面に捨てられたPDAは、期待出来ないものの何らかの情報が残されている可能性を考えて即座には手に出来ない。触れただけで喪われる情報がある。例えば、これを外した人物の指紋、体組織、捨て置かれた場所と形だけで、どの程度の高さからどのように投げられたかを判別出来る事だってある。そこからその人物のおおまかな体格まで割り出せた。
虎徹の意思で外された訳ではないのだとすれば、それらは大きな手がかりになる。
短いメールを虎徹へ投げて、その後はひたすらにコールを繰り返した。日頃なら携帯を使うようにしているが、今回は緊急だからとPDAから斎藤へ連絡を入れて来てもらい、その後でアニエスへ現状を伝える。斎藤でも可能かもしれないが、アニエスならこのPDAがいつまで虎徹の腕にあったかを知るデータにアクセス出来るだろう。なんらかの犯罪に巻き込まれ、虎徹が窮地に立たされているのだとすれば、ヒーローズの助力だって必要だ。自分たちを動かす権限を持つのは司法局だが、アニエスにだって大きな力はある。
落ちているPDAを見た瞬間、息も出来ないくらいに心臓が痛んだ。
だが衝撃を受けたのはその一瞬で、直後から頭はあり得ないくらいの冷静さで状況を分析していた。膨らみきった不安は飽和して、もはや感知出来ない。
決して綺麗とは言えない場所ではあったが地面に這いつくばって、痕跡を探す。分かりやすく血痕や争った形跡は見当たらなかったが安堵する材料とはならない。
やがて到着した斎藤と共にPDAの状況を記録した後、回収した。
虎徹の腕からこれが外されたのは昨夜の午後八時三十分過ぎ。
バーナビーが可愛らしいブーケを手に彼を待っていた時間で、虎徹がメールをくれた三十分後の事だった。本来なら待ち合わせ場所に到着していてもおかしくない時刻。
なにをしていたのかは分からない。
連絡を入れたアニエスの判断により警察にも通報されたが、それから三日はなにも手がかりはなかった。
二部になってからは軽犯罪を主に対応するため、地域警察との連携の機会は多くなった。一部の頃では一方的に敵視される事も多かった彼らとの関係も、バーナビーとしては今は然程ぎすぎすしているようには感じない。
失踪したのが彼らにも受けの良いワイルドタイガーであったせいもあり、本来捜査権のないバーナビーへも彼らは好意的に多くの情報をまわしてくれた。犯罪抑止のため、シュテルンビルトの街角には監視カメラが設置されている場所が多くあるが、PDAが発見されたのはほぼ人が立ち入る事を想定していないような路地で、一台も設置されていなかった。周辺のカメラにはらしい姿が映り込んでいたものの、不審な様子は見られない。一緒に映っていた人物すべての身元までは判別出来なかったけれど、高度な犯罪者照合システムに掛けても合致する顔はなく、またワイルドタイガーをあっさり拉致出来るのではないかと思える、司法局に登録されたネクストとも一致するデータは見当たらなかった。
待ち合わせの場所にしていた繁華街へ続く街路だから、人通りはそこそこある。だが、だからこそ移動のため、あえてアイパッチも付けずワイルドタイガーではない鏑木虎徹を覚えている者はいなかった。惚れた欲目だけでなく、彼はスタイルも良いし整った顔立ちをしているが、群衆の中でポンと浮き立つタイプではないのだ。むしろ一見しただけでは思わず見逃してしまうが、良く見ればと言う風貌なので記憶に残りづらい。
彼が持ち前の正義感を発揮したような特筆すべき騒ぎはなく、その日の周辺は取り立てて語る事もない、ただの夜であったようだ。
虎徹の携帯は相変わらずコールを繰り返すけれど受信される事はなく、送った安否を問うメールは既に何通になったのかバーナビーも分からなかった。GPS機能はオフにされて、持ち主の居場所を教えてはくれない。
何があったのかを知る手だてがなかった。
ヒーローズも各々動いてくれてはいるが、捜査を手掛けた事のない彼らは探す手段すらなかなか思いつけない。
八方手詰まりに思えた三日目が終わる夜、それでもまだバーナビーは絶望していなかった。諦めるなんてほど遠い。
飽和した不安も恐怖もまだ知覚出来る場所にはなく、だから自分はまだ動けるのだと帰り着いた虎徹の部屋で、持ち込んだPCを立ち上げる。
ふらりと彼が帰って来た時のためにと、あの日以降バーナビーは自室ではなく、ブロンズの虎徹のアパートへ帰っている。
情報を求める掲示板には新たな書き込みはなく、少しでも関連は見受けられないだろうかと様々なニュースや噂まで、探れる限りの情報を探り続ける。
ワイルドタイガーの失踪はニュースにはなっていない。二部所属であることが幸いし、彼の出動がなくとも中継がない現状なら、他の場所へ出動していると説明すればコンビヒーローが揃わない違和感も簡単に払拭されたからだ。
それでもこの事態をアポロンメディアは憂慮し、最低限の出動以外のバーナビーの仕事を免除してくれていた。代わりに、全ての自由になる時間は虎徹を探すための時間に充てている。きっとここまで期待されてはいないのだろうが、神経は冴えきってしまっていたので睡眠もほぼ取っていなかった。
さすがにそろそろまとまった時間眠るべきだとは思っている。
虎徹と共に過ごす事で身に付いた生活習慣は、食べなければ動けなくなるし、眠らなければ倒れるとの人としての当たり前の機能を取り戻させていた。ここで自分が倒れては生じる無駄が大きくなりすぎる。
情報を得られないままPCを落として、ソファで横になった。不安も恐れも実感出来ないくせに、いつも抱き合って寝ていたロフトのベッドへは向かう事が出来なかった。
明かりを消して、毛布にくるまる。閉じた目の裏がチカチカとして逆にうるさく感じられ、尖った神経が休息を躍起になって邪魔してきたが、耐えてバーナビーはじっとそのままの体勢をキープした。
例え眠れなくとも目を閉じて体を休めれば、休息は出来る。
状況が動いたのはその翌日で、情報をもたらしたのは意外な事にロイズだった。企業人としてどこまでも有能である彼だが、問題も多い所属ヒーローの事を彼も大事に思っているし、もちろん心配だってしてくれている。今回の事で彼は彼なりに動いていたのだ。
朝イチに連絡をもらい、オフィスへ向かった。
少しは眠れたのかすっきりした頭で彼の執務室へ入ると、まだ始業前の時刻でも彼は既に待ってくれている。
「虎徹君が直前にしていた仕事、きみも知ってるよね?」
撮影スタジオを出た後、彼は失踪している。それでも関連はあるかもしれないとバーナビーも一応は調べていた。場所は何度だって足を運んだ事のあるスタジオだし、取材を受けた雑誌はターゲット層が虎徹に近い年代のため、自分へのオファーはないものの同じ出版社の仕事は多く引き受けていた。もちろん雑誌は怪しげな面のない、壮年男性向けのビジネス誌だ。
対談ではなくワイルドタイガー単独のもので、関わったスタッフにも不審な点はない。
「でも彼は知らないよね?」
見合わせた目にわずかな笑みを浮かべ、ロイズは一枚の写真をこちらへ向けた。
「……誰、ですか?」
うっすらと笑みを浮かべた恰幅の良い壮年の男に見覚えはない。身につけているものは趣味が悪いからこそ分かる上質さで、高いのだろうが自分が一生手にする事はないブランドのものだ。きちんと整えられた姿は健康的ではないが、裕福さは見て取れた。このような状況で差し出されたから、と言う事情を差し引いたとしても好意は抱けそうにない人物だと思えた。一言で言えば、下品だ。
「きみが復帰する前、ワイルドタイガーのスポンサーを希望してきた企業の社長だ。――ハリアートン・シュテルンの現社長だよ」
「ハリアートン? え、資源会社ですよね……ファイヤーエン、いえ、ネイサンのヘリオスと並ぶ。それが、なぜ?」
ヒーロースーツへ名前を入れるにはふさわしい規模の企業ではある。だが、真っ向から対立するヘリオスエナジーが同じヒーローのメイン企業である以上、なかなか扱いは難しい所だ。ヒーローの獲得ポイントや人気度で代理戦争を始められては適わない。そしていま不可解に思っているのは、虎徹がこなした仕事に資源エネルギーが関わる余地はないからだった。
「一応、残念だとは思ったのだけれどこの企業からのオファーは断りました。ヘリオスとの兼ね合いがひとつ、そして昨年就任したこの現地社長であるチェイニー氏が私と虎徹君、共に好意を抱けなかったせいだ」
「……はぁ」
仕事は仕事、感情論で動くのは虎徹ならともかく真っ当以上の社会人であるロイズがする事だとは思えない。その不審さは伝わったのか、ロイズは苦笑を浮かべた。
「もちろん嫌いだから断るなんて事はしていないよ」
ただ、ワイルドタイガーへあまり良いイメージが付かない気がしたからだと告げた内容は、なるほどとバーナビーにも納得出来た。そしてなぜここで彼の存在が出てきたかもだ。
毛皮愛好家として知られる彼の個人的趣味は、この際どうでもいい。動物愛護団体が訴える事も社会情勢も一応把握しているが、これについて自分はなんらかの意見を表明することはきっとないだろう。第一自分が普段着用しているのは本革のジャケットだ。
だがそのコレクター魂が明確に法を害する可能性があるのだとすれば、ヒーローとして見過ごす事は出来ない。
ヘリオスへの対抗としてきっと社内では通したのだろうワイルドタイガーのスポンサー立候補だったのだろうが、社長であるチェイニーは元からタイガーのファンだった。それも単なるヒーローとしてではなく、一種変質的に。
ワイルドタイガーは人間であるが会話の中で、彼が所有する虎の毛皮と同じように所有したいとのコレクターの欲を感じたのだと言う。虎徹とロイズは感性がそもそも違う。そのふたりの意見が一致したのだからこれは避けるべきだと判断を下した。もちろんそれだけでなく調べた結果、企業としては問題ないとしても本来ならあり得ない窓口である社長にはあまり良くない噂をロイズはいくつか手にしていたからこそ、だったのだろうが。
「その男が、その撮影に関わっていたと?」
正式な断りを入れた後、チェイニーがしつこく食い下がるような真似はしなかったそうだ。実際、遅れて復帰したバーナビーはその男を見た事もなかった。だが時折、虎徹が単独で受けた仕事に関わる事はあったようだ。バーナビーは初耳だったが。
そして今回の撮影に使われたアイテムには毛皮が含まれており、それは男の所有物を借りたものだった――。
「撮影スタジオに、そいつが?」
こくりとうなずいたロイズの表情はどこまでもシリアスだ。欠片も手がかりを得られない状況で、ワイルドタイガーへ執着する人物の存在が浮上した。しかも昨日までの情報ではその男が撮影に関わったとの情報はなかったのだ。
よもやこのような関わり方をして、現場で立ち会っていない筈がないだろう。
コレクター気質の人間が対象の品物を誰か分からない相手へ貸し出す事もしないだろうから、着用するのがタイガーであった事は知っていただろうし、むしろだからこそ貸し出した筈だ。そしてそんな好条件を前に、現場に立ち会わないなんて事も想像しがたい。
すぐに当人のもとへ駆けつけ、問いつめる事は出来なかった。
男はそれでも世界有数の多国籍企業のシュテルンビルトで一番に偉い人間であるのだし、相応の権力を持ち合わせている。それに怪しいとは言っても証拠に基づくものではなく、あくまでも印象と噂だ。第一バーナビーには警察権がない。無理矢理踏み込んで捜索する権利は持ち合わせていないのだ。
個人的に面談を申し込む以外に、接触する手だてはなかった。そしてアポロンメディア経由で申し込んだそれが受け入れられる事も今の所はない。
だがそれで取れる行動が終わってしまった訳ではなかった。
対象について調べる事は可能だ。接触は出来ずとも、得られる情報は少なからずある。そして大きかったのはネイサンこと、ファイヤーエンブレムの存在だった。
彼はヒーローであると同時に、チェイニーが社長を務める企業と同業種である。もちろん接触はあるし、チェイニーの人となりも彼は知っていた。変質的なまでのコレクターであるのは一部で有名らしく、同じく正しいだけではない性癖を持ち合わせているネイサンはかなりの深い部分まで知り得ていた。
彼が興味を抱くのは毛皮だけではなく、大本である猛獣も含まれた。むしろ、様々な保護条約があり所有する事は適わないから、その毛皮を収集しているのだとも言えた。
社長就任以前から住まうゴールドの邸宅には、本当か嘘か分からないながらも猛獣が飼われているとも、また毛皮商人から紹介された毛皮を剥ぐ所から手にかける職人が出入りしているとも言われている。
それが噂ではないとの確証を得たのが、ロイズにより知らされた四日後。
そしてファイヤーエンブレムはチェイニーが定期的に自らのコレクションを自慢するためのホームパーティを開く情報を手に入れていた。ホームパーティと銘打ってはいるが、そもそもチェイニーの所有する邸宅は元は歴史ある洋館で、そこらのホテルよりきちんとしたパーティが開けるほどの規模だ。一部では彼のホームパーティの事は有名なようだった。
それが開かれる予定を仕入れたのは、狙いをチェイニーにしぼったからこそ潜入を試みた折紙サイクロンだ。
虎徹がとらわれている確証は得られなかった。だが、いつものホームパーティを開催する予定がこの週末にありながらも、それだけではない情報を持ち帰ってくれた。
あれから二度、男への面会は申し入れているがいずれも多忙を理由に断られた。
パーティの招待状はさすがにネイサンでも手に入れる事は出来なかったが、代わりに招待客を紹介してもらう事は出来た。会社的なつながりがあるだけで毛皮に特に興味があるわけでもなく、コレクターでもない善良な第三者だ。仕事のつながりのため出席せざるをえないようで、確かに飾られた毛皮はすごいとは思うものの、いちいち褒めたたえるほどの熱意もないので大変なのだとこっそり苦笑をしていた。
空振る覚悟はあった。
だが他にも伸ばしたあの晩姿を消した虎徹へ繋がるルートは今、他にない。
そして当日。
正装して付き添ったバーナビーはチェイニーの邸宅に足を踏み入れる事が出来た。
ネイサンは面が割れているので不可能ではあったものの、他にも警備の顔をしてアントニオとキースはまぎれているし、バーナビーがエスコートする事になった老紳士からの紹介を受けた招待客の娘として、カリーナも会場内にいる。自由に動き回るために、イワンはあえて正面からではなく擬態して様々な者に姿を変えて、情報を収集していた。
確かに噂通り、そこらのホテルに引けを取らないパーティホールがある邸宅にはそこそこの人数がおり、これが一種の社交として成り立っているのを知った。ヒーローとして活躍する自分の姿が浮かずに済んだのは社交界で顔を合わせる人の姿もここにはいくつもあったせいだ。だからだろう、チェイニーも自分を歓迎してくれている。
内心は分からない。もし虎徹をさらったのがこの男であったとすれば一刻も早く追い返したいだろうが、そんな事をすればやましい事があるのだと自白するにも等しい。完璧なホストとしての笑顔が装われたものかどうかを見分ける事はさすがに出来なかった。
歴史ある邸宅は家主の趣味でだろう、正直気分が悪くなるくらいに趣味が悪い。壁際に展示された毛皮の数々は高価なのだろうが、どうにも品がなかった。
サイレント設定にしたPDAが振動したのは、パーティが開始して一時間は過ぎた後だ。ホームパーティの規模でないが、それでもホテルとは違うから使用人も多い訳でもない会場では無遠慮にアルコールを勧められないので良かったかもしれない。切れないよう会場内を歩き回るボーイがいないせいだ。
だからはっきりとした頭で酔客を笑顔でかわし、トイレへ向かう顔をして席を外す。連絡を入れたのはイワンだった。
そして自分たちは無駄足を踏まされた訳ではない事を、そこで知る。
表向きのパーティとは別に、招待客の一部は地下のホールへ向かっていた。そこへ入るカードを自分たちは持たないが、だからと言って入れない訳ではない。イワンと情報を交換したバーナビーはそしてようやく、十日ぶりに虎徹と再会する事が出来たのだ。
彼の置かれた状況は、事前に仕入れた猛獣を捕らえるのと同じものであり、虎徹もチェイニーのコレクションとして扱われていた。
だからこのような状況であってもワイルドタイガーはアイパッチをつけていた。ただの鏑木虎徹には用はなかったのだろう。
「……ばに、悪ぃ迷惑、かけた」
床に倒れていた虎徹は一度仰向けになり、大きく息を吐き出した。
まだ正気に戻った訳ではないだろうに、彼の目は自分を捕らえ、置かれた状況もある程度は理解しているようだ。もしかしてここまで虎徹の意思を殺したのはパーティがあって人が多く集まったせいかもしれない。普段はあそこまでひどくなかったと思いたいのは、どろりと意識が濁ったあの目が思った以上に自分に取ってはダメージだと今更のように気がついたからだ。
「ありがとう」
かすれた声で感謝を告げられて、不意に泣きたくなった。
まだ遠ざかっていた不安も恐れも実感は出来ないが、どうやら一緒に追いやられていた人並みの感情の一部は戻っているようだ。爆発的に膨らんだ怒りが呼び水になった。
「虎徹さん……」
しゃがみ込み、横たわる体を抱き起こす。しきりと瞬きを繰り返しているのは、まだ頭がはっきりしないせいだろう。思考を低下させただけであって、運動能力が奪われた訳ではなさそうだ。起こした体は抱き寄せる力だけでなく体勢を保っている。
「……心配かけたな、ごめん。本当に悪かった……俺が油断した」
喉が乾燥してしまっているのだろう、声は掠れている。だけど耳元で告げられる十日も聞けなかった声と、あやすように優しく背をたたく振動、あたたかな体温にやはり目元がじわりとした。
「早くこんな場所……」
「ああ、抜け出そうぜ。でもその前にちょっとやりたい事があんだけど、つきあってくれないか?」
ぺたりとくっついていた体が離れて、それでも尚近い距離で、虎徹はバーナビーの目を覗き込んだ。アイパッチの黒に縁取られた、琥珀の瞳は強く輝き、光量が押さえられた室内では光っているかのように見える。浅く薄い、強い目。
「ただ警察に引き渡すだけじゃ、腹がおさまんねぇ……ちょっとばかりお返しだ」
にやり、と口の端が引き上げて彼は笑う。
この姿こそ、虎徹にはふさわしい。誰よりも強く美しい、ワイルドタイガーだ。
バーナビーが足を踏み入れた表向きのものとは別に、このホームパーティにはチェイニーの虚栄心を満たす裏面があった。噂は噂ではなく、この屋敷には毛皮になる前の獣がいくつも飼われている。それは、先のイワンの潜入で分かっていた。珍しい生き物が手に入れば披露し、自慢する。もちろん法を守っている訳がないから、こちらのパーティに招待されるのはごく限られた人数の同好の士のみだ。
そこで虎徹は『披露』される予定だった。
だからこそ投与された薬剤は強く、意思は完全に奪われていたのだと言う。流されていた超音波は予想通り薬剤との相乗効果により集中力を奪っていた。制御されたネクスト能力は、暴発するものとは違って発動させるには明確な意識が必要だ。何度か試みたものの、虎徹の能力は一度も発動出来ず、かつてナンバーワンとして扱われただろう獣のための檻は十分に役割を果たし、彼は逃げる事が適わなかった。
今更見つかった所で対抗の手段はどれだけでもあるが、彼の意趣返しをかなえるためにはまだ見つかりたくない。
「それ、もらっていこうぜ」
言ってただろ、と笑った虎徹は壁際の黒い首輪とリードを手にした。
監禁されていた虎徹も、今日のパーティで自慢するために身綺麗にされていた。部屋を出て人の気配がない事を確認して、隣の扉を開ける。虎徹が囚われていた部屋とは違い、物置のような狭い空間だった。そこで虎徹は髪を撫で付ける。
「バニー、これ締めて」
そして差し出したのは、黒い首輪だ。
戸惑っていれば虎徹はやはり笑みを浮かべる。ヒーローとして彼が浮かべるものからは遠く、意趣返しなんて事を口にするに相応しい類いのものだ。そして、どこか夜の姿にも通じる。
「お前以外に飼われるつもりはねぇんだ」
飼ってくれない? と小首を傾げる姿は正直、あざとい。
虎徹が打たれていた薬剤の心配もあるし、協力してくれている仲間たちにも早く無事を伝えるべきだろう。こんな事をしている場合ではない。
だけど、彼の意図を察してバーナビーもその気になった。
「僕以外の誰があなたを飼えるんです?」
差し出された首輪を受け取る。
こんなものはただの形式だ。首輪ひとつでどうにかなる人ではない。人の良い顔をしているくせに決して誰かの意のままに動かず、それはこうやって飼い主と認めてくれた自分だって例外ではない。
リードを持つ権利を与えてくれる、それだけだ。
人の良い姿は彼の目くらましにすぎない。決して嘘ではないけれど、本質でもない。この人はやはり、虎なのだ。
その彼と並び立つ事を誇りに思うし、一番に魅力的な姿を引き出せるのも自分だと自負している。そのたずなを取っても良いと彼が渡してくれたものを、あんな濁った目でワイルドタイガーを飼い慣らしたとみじめなくらい哀れな錯覚をした男に、みせつけてやりたかった。
あの男が自慢したかった百万倍も素晴らしいものは決して手に入らず、別の人間のものなのだと知るのは、おそらく警察に捕まるよりもずっと堪える罰になる筈だ。
しなやかな革は虎徹を傷つける事はない。幅広のそれと金色の細工はひどく彼の肌に似合った。恐ろしく趣味の悪い男だと思っていたが、これだけは褒めてやってもよさそうだ。
膝を付き、顎を上げて喉を晒した虎徹は首輪を締める自分の姿をじっと見ている。
――たまらなく高揚した。
この人を所有出来るとの錯覚は、数あるなにを所有するよりもきっとすばらしい。
「……チェイニーがあなたを諦められなかったのは、仕方ないのかな」
「ん?」
わずかな余裕を残し締めた首輪から続くリードを右手の中に。それを軽く引くと彼自身を引いた訳ではないが意図を察して虎徹はそのような動きをしてくれる。
「あなたを所有出来るのは、たまらなく興奮する」
「へぇ」
にやりと笑った虎徹がようやく立ち上がった。リードを握る右手を彼の大きな手のひらが握り、唇へ噛み付くようにキスをされる。
彼の温度、彼の味、彼の動き。
押さえ込まれていた感情は徐々に回復し、彼を喪うかもしれない怯えていたそれまでも目を覚ましてしまったが、この手が優しく溶かしてくれる。
「……お前に飼われるのは、俺もすげー興奮する」
ちゅ、と最後に音を立てた口づけは、目の端へ。もしかして涙でもにじんでしまったのかもしれなかった。
「さて、あんなクソ野郎なんかじゃなく俺はバニーちゃんのものだって自慢しに行くぞ!」
「違います、僕があなたを自慢しに行くんです」
「どっちだって一緒だ」
「……乱暴だな」
黒いシャツ、黒いボトム。裸足の足とはだけた胸元から覗くのは褐色の肌。つややかな革と金色のアクセントが虎徹をこれ以上もなく引き立たせていて、そしてあつらえられたかのように今日のバーナビーは対照的な白の襟元までも詰まったタキシード。ポケットに入れた手袋をするとどこまでも禁欲的になった。
「あ、なんかバニーエロい」
「ご自身の姿を確認してからにしてください」
会場は人の気配ですぐに分かった。扉に手を掛けて自分たちは視線をかわし、まるで挑発するかのような虎徹の口元へは軽くだけ、キスをした。