おかしい、と思ったのはその日の深夜の時間だった。
眠れないのだ。
今日は適度に疲れている筈だった。新しい人の集団に加わり、初めて学校という場所に通い、片付けや追われて作った夕食や、宿題や。普段の生活に比べてずっと忙しく騒々しく過ぎて行って疲れている筈なのに、眠れない。
横でスザクはすっかり眠り込んで、健やかな寝息を立てている。
まさか、人の気配があるから眠れないなんて訳がない。相手はスザクだ、気を張る必要もない。
なのに、彼の寝息がゆっくりと響いてそれが心地よくて眠れないのだ。心地よいのなら一緒のペースに呼吸を合わせて眠ってしまえばいいのに、それでもダメだった。
ずっとひとりの部屋で眠っていたせいだろうか? そんなに自分は神経質だったのだろうか?
思いたくもないが、思ってしまう。
このままでは無理だろうと思って、スザクを起こさないようゆっくりベッドを抜け出すと、そのままキッチンへ向かった。
慣れない場所だ、だからと言ってこんな時間に電気をつける訳にはいかなくて、手探りでその場所まで向かった。
そしてようやくキッチンに到着すると、電気を灯す。
明るさに目が一時くらんだが、すぐに明順応した。
暖かいミルクを飲もう。そう思った。ブランデーを足して飲めば、きっと眠れるに違いない。
料理用にブランデーも買い置いてある。もちろん料理用なのでそう良いものではないが、ほんの少し混ぜるだけだ。酒の味などまだ分からないルルーシュに取ってはそれで十分だった。
小さなミルクパンに冷蔵庫から取り出したミルクを注ぎ、火にかける。すぐにしゅんしゅんと言い出し、差程熱くならない前に、マグカップへと注いだ。すぐにミルクパンは洗っておく。
ブランデーを垂らし、それをこくこくとゆっくり時間をかけて飲んだ。
ベッドから出て少し冷えたからだがそれで暖まる。ブランデーの香りだけで酔いそうな気持ちになって、苦笑した。
子供みたいだったからだ。
もし本国にいたとすれば、今頃は社交界にも出ていただろうし、そうなればワイン程度は嗜んでいなければならない。子供の頃は食卓に普通にワインが出ていた。
そう思えば、今はなんて健康的な生活をしているのだろうと思う。
飲酒は二十歳から、なんて法律が日本には存在しているのだから、仕方ない。
だけど、好ましい法律だなと思わないでもなかった。
小さな時分から酒による酩酊を覚えるのは決して褒められた事ではないからだ。
ミルクを飲み終える。そして、今度こそ眠れるのではないかとキッチンの明かりを落とし、部屋へ戻った。
「どうしたの?」
突然の声に、ひどくびっくりした。
「すまない、スザク……起こしたか?」
「ううん、そうじゃないけど。気がついたら君がいなかったから」
「ああ……眠れなくて。だからホットミルクを飲んでたんだ」
「眠れない? もしかして緊張してた?」
「まさか」
暗闇の中で、笑う。人の群れの中に入るのは初めての事だったが、別段緊張を強いられるものでもなかった。一日過ごす事も、気疲れをした感覚はない。
「じゃあ、どうしたんだろう」
「さあな。一応、ミルクを飲んで来たんだ。もう眠れるだろう」
「そう? じゃあ、おやすみ……それとも一緒に寝てあげようか?」
「バカか」
と、思わず笑ってしまう。小さな子供ではないのだ。そんな真似今更出来る訳がない。
だけどもぞもぞとスザクが動く気配がして、ルルーシュのベッドが少し傾いだ。
「ほら、寝よう。昔は人の体温があると眠りやすいって言ってたじゃない」
「昔の話だ。ほら、お前は自分のベッドに戻れ」
「ええ……もう、僕眠いんだけど」
と、もぞもぞとルルーシュのベッドに潜り込む。
小さくため息を落とした。それじゃあ自分がスザクのベッドで眠ればいいのかもしれない。
だけど、久しぶりに一緒に眠るというのもなんとなく捨てがたい誘惑にも思えた。
「まあ、いいか」
そう思い、同じベッドに横になった。少し離れた場所から体温がじんわりと伝わって来る。気持ち良い。
そう思っているうちに、ミルクの効果かスザクの効果かは分からないが、ルルーシュは眠りに落ちていた。快適な睡眠だった。
朝、六時半。目覚ましが鳴るのを止める。
いつのまにかスザクは自分をぎゅうと抱きしめていて、まるで子供の頃みたいだと苦笑する。
弁当を作るために、自分は皆より少し早く起きなければならなかった。だがこの腕を解いてしまえば、スザクも起きてしまうだろう。
昨晩はきっとこのぬくもりに包まれたから眠れたのだ、と思う。
そう思えば起こしてしまうのは本望ではなかった。身動きをしたせいだろう、スザクは一度ルルーシュを抱き直し、頬をルルーシュの頬へと近づけて来る。
近すぎて、一瞬ドキリとした。
そしてそのまま、頬にキスをされる。
完全に彼は寝ぼけていた。そこで初めて気付く。自分は誰かと勘違いしている事に。
一瞬にして、微笑ましい気持ちや優しくなっていた気持ちが吹き飛んだ。
「スザク、起きるから」
「ん……」
もぞもぞと彼の手は動き、ルルーシュの髪や頬を手探りで撫でる。
その手を振り落として、
「スザク」
と、強い調子で告げ抱きしめてくる手を解いた。
「あ、れ?」
「起きたか? 俺はもう起きるから。ありがとう」
冷たい調子の声になった。
スザクはきっともてる。女性経験もあるのだろう、きっと。
ああ言う朝を過ごした事もあるのかもしれない。
そう思うとむかむかとしたものがこみ上げてくる。
「おはよう、ルルーシュ」
だがこちらの気持ちなど知らず、彼は眩しい笑顔でそう告げて、嬉しそうな顔をした。
「そっか、一緒に寝ちゃってたんだ……忘れてた。ごめんね」
と、腕を解く。
それが妙に寂しいと思ったのだが、だが同時にほっとしたのも事実だった。
むかむかした気持ちは続いている。
「勘違いも、ほどほどにな」
「へ?」
「取りあえず俺は弁当を作るから。お前はまだ寝ててもいいぞ」
「うん……」
きょとんとした顔のスザクは、ルルーシュをまっすぐ見ていた。
さっきの眩しい笑顔はもうない。
それでいい、と思いながら振り返る事なく、ルルーシュはクローゼットを開けて制服へ着替え始めた。ジャケットはまだいい。シャツとズボンだけを着用して、部屋を出ようとする。
その一部始終を、スザクはじっと見ていた。
学園には三人で一緒に通う事になる。時々スザクは早朝練習がある時もあるから、とは言っていたが、その時は先に向かうねと言っていた。
ルルーシュのむかむかはまだおさまっていない。
何故そこまでむかつかなければいけないのかも分かっていないのに、どんよりと心が重いのだ。
分かった、と簡潔に返事すれば、スザクはため息を落とした。
「何を怒ってるの、朝から」
「別に……」
「とは、言わせないよ。起きた時からずっと怒ってるじゃない。僕が子供みたいな扱いをしちゃったから?」
見当違いもいいところな事を言ってくる。
自覚がないからだろう。あの時のスザクは寝ぼけていた。
そりゃあ、自覚がなくて当然だ。
「いや。さぞやスザクはもてるんだろうなと思っただけだ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を出して、彼はその場に立ち止まる。
それを置いて、ナナリーの車椅子を押しルルーシュは進んでいく。
「お兄様、スザクさんが」
「いいんだ」
「でも……」
見えないのに、ちら、と振り返っては兄の顔の方向へナナリーは視線のようなものを向けてくる。
「お兄様、何に怒ってるんですか? 確かに朝から変ですよ?」
「別に怒ってなんかいないよ、ナナリー」
「嘘です」
きっぱりと言われ、今度はルルーシュが軽いため息をついた。
「あいつが悪いんだ。ただ、寝ぼけてたからあいつは覚えてない。それだけだよ」
「それじゃあ、理不尽です。寝ぼけてしたことは水に流してあげないと」
「でも、俺はむかついたんだ」
「それは……仕方ないですけど」
その会話の間に、スザクが駆け寄ってきた。
「なんか分からないけど、僕が悪かったってことだよね。ゴメン、ルルーシュ」
「意味も分からないのに謝るな」
「だって、そうでもしなきゃ君の機嫌が直らない」
「意味無く謝られても同じ事だ」
「でも僕には意味が分からないんだもの。どうしたらいいの?」
「さあな」
そんなこと、自分が自分に尋ねたかった。
何故そこまで怒らなければいけないのかも正直良く分かっていない。
そうしている内に、中学棟が見えて来る。
「ナナリーを送って来る。お前は先に教室へ向かえ」
「いやだ。僕も一緒に行く」
「お前には関係ないだろ」
「関係ないとか言わないでよ、ナナリーの事じゃないか」
「ナナリーは俺の妹だ」
「僕にとっても妹のような存在だ」
「あ、あの……」
けんか腰の言い争いに、ナナリーはようやく口を挟めた。
「私、ひとりで行けます。ふたりは教室へ向かってください」
きっぱりとした言い方だった。
「喧嘩なさってるふたりは嫌いです。だから、ひとりでいいです。では、行ってまいります」
と、自動で車椅子を動かし始める。
「ナ、ナナリー」
「お兄様も理不尽です。何か知りませんが、反省なさってください!」
ぷい、と顔を向きなおして、彼女はひとりで中学棟の方へ向かって行った。
速度はそう速い訳ではない。追いかけるのは簡単だ。
しかし拒否されるのは目に見えていた。
ふたりで顔を見合わせ、ため息を落とす。
「ナナリーを怒らせちゃった……」
「お前が悪いんだ、全部」
「その悪い事を教えてよ。そうじゃなきゃ、僕は反省のしようもない」
「それは自分で考えろ」
そして、ルルーシュはスザクを置いて、すたすたと歩き出す。
ぽつんと残されたスザクは、その場でぐるぐると今朝の出来事を思い返していた。
やっぱり子供扱いして一緒に寝ていたのが悪かったのだろうか。うっかり抱きしめてしまったのがいけなかったのだろうか。
でも、だって、それはルルーシュがいけない。
深夜、眠りに就いた後で身をすりよせて来たのはルルーシュの方だったのだ。
抱きしめたら、充足したかのような顔が月明かりで見えてなんだかひどく幸せな気持ちになったのだ。
だからそのまま再びスザクは眠りに就いた。
「ルルーシュだって悪いじゃないか」
もしそれが原因だとすれば、悪いのは自分ではなく、ルルーシュだ。
そう結論付けて、決して後を追うのではなく自分のペースでスザクは歩き始めた。
始業のベルが鳴るまで、そう時間がある訳ではなかった。
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